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2-9.ライラと、ドラルゴ

♦ ♦ ♦ ♦ ♦


ライラが声を吹き込んだ次の瞬間、ふわりと内臓の浮く感覚。飛行船は急激に降下を始めた。ボスであるドラルゴを人質に取ったから、か。異様なまでに素早く要求が通ると、丸窓に映る景色は瞬く間に色を変え──……いや、いくらなんでも降下が早すぎる、ような。


 ドラルゴの焦った表情を垣間見た、刹那、


『野郎ども、どっかに掴まれぇ! 山肌にぶつかるぞぉ!』


 ドラルゴの宣言から間もなく、大きな衝撃が船を、そして乗員の全てを襲った。衝突音に鼓膜が破れそう、そう思った次の瞬間には壁に押され、体が飛び跳ねる。死をも覚悟して瞼をきつく閉じるも、ライラは硬い何かに体を包まれた──。


 ……やがて訪れる静寂。ぱらぱら、ぱらぱら。絶え間なく続く、砂埃の落ちる音にそっと瞼を開く。ライラは、ドラルゴの逞しい腕の中に守られていた。彼が咄嗟に庇ってくれたのだ。

「……怪我はねえか?」

「お、おかげさまで!」

「っは、そうかい」


 吐き捨てるように、けれどどこか安心したように彼は笑った。


「まァったく、乱暴な着地を決め込みやがって。やっぱりまだまだ運転にゃあ不慣れだったか?」

 割れた窓を覗き込んで、ドラルゴは仕方ないと独り言ちる。


「……さぁて、次はおめえが約束を守る番だ。教えてもらおうじゃねぇか、俺の病を直す方法ってのを」


 ライラは、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。ドラルゴ本人が症状の改善を申告してくれないと、先ほどの交換条件は意味を成さないのだ。


「そのこと、なんですけど。もう、教えることはないと言いますか……」

「……ああん⁉ 約束が違うじゃねぇか!」

「ひっ⁉」

 ドラルゴの勢いに、ライラはひっくり返ってしまいそうだった。どうにか尻もちをつくに留める。

「そ、そうじゃなくって! ……もう、治っていませんか?」

「……ああ?」


 目を丸くしたドラルゴ。その顔が徐々に色を取り戻していくのを、朝日がそっと照らした。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


 飛行船が山肌にぶつかってからしばらくして、轟音が止まる。室内では呻き声、痛みに耐える声や励まし合う声が囁かれた。アルもまた、とっさに体を庇ったので大事には至らない。たとえ庇わなかったとしても、大事には至れなかっただろうが。それでも危険から身を守るのは、生き物の本能というものだ。


「……おまえが一番軽傷のようだな」

 先ほどまで交戦中だった男たちの中の一人。その太い首に背後から細い短剣を当て、アルは命じる。

「おまえらのボスの部屋へ案内しろ」

「……わかった、降参だ。もうアンタとは戦わねえ。ボスの命令だしな」

 実に物分かりのいい男はそう言って、手にしていたジャガーナイフを床に落とし、遠くへと蹴とばした。

「ボスの安否を、俺らも確認しなきゃならねえ。たたでさえ病気で苦しんでるってのに、今の衝撃だ……無事に生きてくれているかも、わかんねえが」

「そうか、話が早くて助かる」


 両手を頭の後ろに回し、乗組員の男は攻撃の意志がないことを示した。けれどアルの態度に、思うところがあったようで。


「それだけかよ。普通、訊かねえか? 病気なのか、どんな症状なのかってよ」

 会話をしながら部屋を出て、二人は歩を進めていく。当然、案内役の男が先頭だ。

「興味はないが、一応訊いてやろうか。『どんな症状なんだ』?」

「……まずは頭痛、それから食欲が落ちちまった。しだいに自分で歩くことも立つこともできなくなって、息苦しさで夜も眠れないんだと……この船を飛ばして、あの巨塔に近づいてからだ」


 厄介に厄介を重ねたような症状だな、とアルは思った。ボスの素性は知らないが加齢によるものか、はたまた伝染病の類か……あるいは、巨塔に近づいたことが原因か。

「あの巨塔に向かって飛んだのか。どうだ、成果はあったか」

「ははっ、とんでもねえ。見事に気流に邪魔されて、危うく仲良く全員でおっ死ぬところだったんだぜ。ボスも体調を崩しちまうし。……きっとあの巨塔は、呪われてるんだ」

 アルは何も言わなかった。ただ呆れ返ってはいた。またそれか、と。

「呪い、か」

 天から逆さまに伸びる巨塔。正体を探る絶好の機会かと思われたが、それはまた先延ばしになりそうだ。

 巨塔とこの飛行船には、なんの関わりも無い。もうこの飛行船はまともに飛ぶことはできないだろうし、まともに飛んだとしても、気流に呑まれて巨塔に近づくこともできないのでは意味がない。


 あの巨塔に関しては相変わらず不明瞭なことばかりだが、今は安否確認を済ませなくてはならない。ボスの男はどうでもいいとしても、ライラを死なせるわけにはいかないのだ。

 アルと案内役の男は崩れた扉の前に立ち、部屋の中を覗き込んだ。

 日差しがまばゆく室内を照らす。

 彼らの目に最初に映ったのは、翡翠の少年の横顔と微笑み。その視線の先には、己の足でしっかりと立ち上がるふくよかな壮年男性の姿だった。

「──ボス⁉」


 ボス、と呼ばれたその男は、

「へええ、おめえも災難だったな。里が無くなっちまったなんてよぉ」

「そうなんです。おまけに闇オークションの人に捕まっちゃって。でも、危ないところをアルくんが助けてくれたんです。アルくんってすごいんですよ! 強くてかっこよくって頭も良くって、男の中の男って感じで……!」

「ほお? そいつぁ俺と良い勝負してるかもな?」

「うーん……いえ、アルくんのほうがかっこいいです!」

「ヒャヒャヒャ、おめえは正直だな、ライラよぉ! 気に入ったぜ!」

 ガハハハハと。腹の底から楽しそうに、それはもう豪快に笑っていた。


 その様子を見たアルは、右手に力を込める。

「……おい、あれのどこが病人だって?」

 問いかけられた船員は、鼻を真っ赤にして泣きじゃくっていた。アルの質問など右から左で。首に当たる短剣もお構いなしで。

「ボ、ボス、治ったんだ……! よかった、よかったよぉ、親父ぃ……!」

 ドラルゴの豪快な笑い声と、船員の男の喜びに満ち満ちた泣き声が、山脈に同時に木霊した。




 意識を取り戻した船員たちは、誘われるように次々とドラルゴの私室を訪れる。そしてその全員が、あの冷酷な印象すら与えていた副船長までもが、ドラルゴの復調に大粒の涙を流して歓喜していた。

 壁を背にしながら、アルは状況が落ち着くのを待つ。なかなか沈静化する様子は見られないが。

 ライラはそんな彼の存在にいち早く気づき、ぱあっと表情を明るくさせた。彼に駆け寄り、その手を掴む。お互いに手袋越しではあったけれど、それでも彼の体温をわずかに感じ取れた気がして……ライラの瞳に、涙の膜が浮かぶ。

「アルくん! よかった、よかった、無事だったんだ……! 怪我はない⁉」

「……それはこちらの台詞だ。無傷に見えるが」

「ドラルゴさんが守ってくれたんだ」

 その名に、アルの表情が僅かに歪んだ。

「そうか。ドラルゴ、ねえ……。状況はだいたいわかった」


 氷のような冷たい視線が、輪の中心に向けられる。


 ゆっくりと傾く巨体。ドラルゴは不思議そうに己の足を見つめた。そしてまた、勢いよくベッドに腰かける。

「ああ……やっぱり、さすがにそんなにすぐには治らないか……」

 誰に聞かせるでもない独り言めいたそれをアルに残し、ライラは困ったように笑みを深くすると、再びドラルゴに近づいた。

「ドラルゴさん。このまま飛び立たずに二日もすれば元気になれます。それまでは激しい運動をしたり、無理したりしないでくださいね」

 そう言って、ドラルゴに乱れたままだった布団をかけ直す。

 ドラルゴも船員たちも、不思議そうに互いの顔を見合わせた。

 薬を飲んだわけでもない。医者にかかったわけでもない。それなのにドラルゴの顔色は改善されつつある。

「……たしかに、体はずいぶん楽になってやがる。だがこれは、どういうことだ? 俺ぁ、一体なんの病気だったんだ?」

 ライラはほんのりと口角を上げた。


「ドラルゴさんの調子が悪かったのは、病気のせいじゃない。空を飛んでいたからなんです。……ボクのいた里ではよく、『高度病』って呼ばれていました」


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