暴れるライラの金切り声に、ペンチを持つ男が眉を下げる。
「な、なんか、可哀想じゃないっスか?」
「そんなこと言ってる場合かよ。もし間に合わなかったらどうすんだ?」
「は、はいっ」
歯を抜くための道具が、ライラの口の中に押し込まれた。頭を振りかぶって抵抗するも、唇の端が切れただけで事態は好転に至らない。
「暴れるなって! 怪我したくないだろ⁉」
「た、すけて、助けて誰か、誰か!」
そう叫びながら、ライラはもう、ほとんど諦めていた。こんなの無駄な抵抗でしかない。飛行船が飛び立ってもうどれくらいの時間が経っただろう。助けなんか来るはずがないのだ。誰がどんなに手を伸ばしても届かない所に、ライラはいるのだから。
そう思っていたのに。
鈍い音、ひとつ。
「ぐぁ……っ!」
蹲る、副船長の呻き声。
足音、ひとつ。吹き飛ばされるペンチ。足音、ひとつ。吹き飛ばされる男たち。
何が起きたのかと辺りを見回せば、先ほどまで居丈高に振舞っていた副船長も、ペンチを持っていた気弱そうな男も、ライラを取り押さえていた屈強な男たちも。全員が失神しているか、脳震盪でも起こしたのか倒れ伏している。
この場でまっすぐに立ち上がっているのは、ただ一人だけだ──。
「……アル、くん!」
夢でも見ているのだろうか。ここにいるはずのないその人が、鉄パイプを片手に佇んでいる。険しい表情でライラを見下ろしている。
「どうやってここに⁉」
「あ? お前がパンくずを落としていったんだろうが」
「き、気づいてくれたんだ!」
アルは問答の最中も、ライラの拘束を手早く解く。そして感激しているライラをよそに、真新しいロープを手渡してきた。
「全員の手を縛れ。おまえは失神している奴だけでいい」
「は、はい!」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
失神している者、二名。脳震盪を起こしている者、三名。手足を縛られ、部屋の隅に一纏めにされた計五名の男たち。
彼らの頬をぺちぺちと叩くアル。意識の有無を確認しているようだが、はっきりとした反応をする者は皆無のよう。
「し、死んでるの?」
「まさか。加減はした」
まだ夢を見ているようだ。まさかアルがこんな所にまで助けに来てくれるなんて。
「アルくん、助けに来てくれてありがとう……ごめんなさい、こんなことに巻き込んで」
「そんなことより、だ。おまえ……『堕天』なんだってな」
アルの問いかけに、ライラは口を噤む。彼に、よりにもよって堕天であることを知られてしまうなんて。昼間みたいにひどく叱られたほうがよほどマシだ。
自分は竜人族の出来損ないで、面汚しで、落ちこぼれで……なんて、説明したくない。
沈黙を肯定と捉えたらしい。アルの深いため息に、ライラの肩はびくりと震えた。
「お前に翼がないとは想定外だった。隙を見てこの船から脱出させる算段だったんだが。お前を庇いながら、船員のすべてを制圧するのは骨が折れるな……」
「脱出させる?」
アルの発言に、ライラの心臓は大いに跳ねた。まるで、ライラを逃がした後は自分だけここに残るかのような口ぶりだ。
「この船には、欲しい情報がありすぎる。手土産なしに脱出するのは惜しい。あの巨塔ともなにか関係があるのか? 船員どもがどこからやってきて、何が目的なのか? この船は他にもあるのか? それと、おまえを攫った理由もな。竜人族の里を滅ぼしたのが、こいつらの可能性だってある」
そう、この飛行船には謎が多い。まだ開発に成功していないはずの飛行船が、この国──リームンヘルトの空を飛んでいるだけでも異常事態。近衛騎士団に所属しているアルが、それを看過するわけがない。
「……いつ、奴らの仲間が現れてもおかしくない。おまえは早く行け」
「い、行くってどこに?」
「おまえに翼が無いのは、この部屋の奴らも知らない。訊かれたら逃がしたとでも言っておく。俺が操舵室を制圧したら高度を下げてやるから、その瞬間に脱出しろ。小柄なおまえなら、隠れられる場所は無限にあるだろう」
「でも!」
「いいから行け! おまえがいたって足手まといだ」
半ば追い出されるような形で部屋を出る。ライラが振り返っても、アルは船員たちの拘束が解かれないか点検しているだけで、もうその視界にライラを入れることはない。
部屋を出て一番に感じたのは風だ。長い髪が前後左右に暴れて仕方ない。
飛行船の通路には、落下防止の柵が張り巡らされているため、そこに掴まりながらライラは船の進行方向へ進む。深く吸い込んでも、肺が取り込む空気は薄い。下を覗いてみれば、どうやらこの飛行船は雲よりも高い位置にあるらしい。うっすら見えるユーシュヴァルの街明かりは遥か遥か下方にある。眼下に広がる光景に、空を飛んだことのないライラは腰が抜けてしまいそうだ。もし落下でもしようものなら、命はないだろうと思うと。
一つ隣の部屋は鍵がかかっていたので、さらにその隣の扉に手をかけた。こちらは無施錠だ。薄く開いた扉の向こうを確認すると、明かりは点いていない、人の気配もない。素早く侵入し備え付けの鍵を締め、はあああ、と長い息を漏らした。がくがくと震える膝。抑えようとしても心臓の音が邪魔をする。
その直後、ライラが辿ってきた通路を逆走する複数の気配がした。丸窓から恐る恐る通路をのぞき込むと、先ほどの船員たちと似た背格好の男たちが七人、アルのいる部屋へ向かっていく。ライラはひたすら息を殺し、震える膝を抱えて座り込んだ。
あんな一瞬で五人もの男たちを薙ぎ倒してしまったのだ。見掛け倒しじゃない、アルは強さも併せ持っている。だから、だから彼が負けるはずない。そんなことがあってはならない。そんな想像をしたくない。だって、彼をこの船に招き入れたのは。こんなことに巻き込んでしまったのは、
「……ごめん、なさい……」
出来損ないで、面汚しで、落ちこぼれで、
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
……足手まといの、自分だから。
飛行船の無機質な轟音が、ライラの鼓動を助長させた。
アルの身に何が起きているのか考えたくない、最悪の展開ばかり想像してしまう。
唇を噛み締める。己の情けなさに。あっさり捕まって攫われて、アルに助けを求めることしかできない、あまつさえこうして隠れていることしかできないなんて。
(こんな、こんなボクに、なにができる? こんな所で蹲っていても、きっとすぐに見つかっちゃう。他にも隠れられる場所を探して……ああ、だけどアルくんが作る隙を見逃さないように、すぐにこの船から出られるようにしておかないといけない)
「こんな所で、いじけていたって、何にもならない……!」
ライラは立ち上がり、扉の窓を布で覆った。明かりが外に漏れないようにするためだ。備え付けのランプに火をつけ、辺りを見回す。
お世辞にも片付いているとは言えない環境。船が揺れたときに落ちないようにするためか、食器類が柵の付いた棚の中で並べられている。が、おそらく洗濯物だろう衣類はそこかしこに散らばっていて、簡易ベッドも複数ある。
生活用品を管理する部屋、なおかつ寝室も兼ねているならば、利用頻度は高そうだ。隠れる部屋には向いていない。
ふと、壁に立てかけられている黒い布を見てライラはぎょっとした。
海賊旗。中心の悪趣味な髑髏のマークは間違えようがない、海賊のシンボルマーク。
「この飛行船の人たちってひょっとして、元はみんな海賊……?」
もしかしたら、と思い部屋を物色してみると、やはり武器庫も兼ねているようだ。短剣に大剣、棍棒まで。様々な武器が雑多に積み重ねられてはいるが、きちんと手入れはされている。
「……あった」
取り出したのは弓矢。人に矢を向けたことなどないが、ライラにとって最も手に馴染む武器だ。
狭い飛行船内では不向きな選択といえようが、使い慣れていない武器を扱うほうが危険だ。万が一の近接戦闘に備え短剣を懐に隠しながら、ライラはアルの発言を思い返していた。
「『この船には、欲しい情報が多すぎる』……」
たしかに、そう言っていた。
(あの人たちがもし海賊なら、この飛行船と天空の巨塔は無関係のはず。……そして、ユーシュヴァルで必死に追いかけてきたことを考えると。目的は、竜人族の角だ。でも、なんで彼らは角を必要としているんだろう?)
売ればお金になるから。万能薬になるから。
答えをこの二つに絞るのなら、きっと後者だとライラは思う。
なぜなら、
「『
万能薬が要るのだろう。万能薬が要るほどの重症、または重傷の人間がいるのだろう。急を要する状態の人間が。
一体、どこに?
「……まさか、この船の中にいる?」
確証はない、ただの推論。
けれど万能薬のために人攫いまでしてのける彼らが、急を要する人間の傍を離れるとはどうしても思えないのだ。
そう、あくまで推論だ。現時点では情報が少なすぎる。
……それなら、集めればいい。
(アルくんの欲しい情報も、ボクなら潜伏しながら手に入れられる、かも)
今日一日で学んだことだ。人には向き不向きがある。
アルのような体格の良い、力もある男性は戦闘に向いている。反面、初対面の人当たりの良さは、言わずもがな。
ライラは自覚していた。自分は小柄だと。戦闘においては不利な特徴でも、活かせる機会があるとしたら、それは今なんじゃないか。
深呼吸。一回、二回。長く、静かに。
もう大丈夫だ、膝の震えはない。意を決して立ち上がる。
「……自分で見て聞いて、調べて考えて、判断して行動する──だよね、アルくん」