鬼ごっこはしばらく続いた。アルはライラを抱えたまま後方からのタックルを躱し、あえて人混みに身を投じ物陰に伏せ、見つかってはまた走り出す。そうしていくうちに追いかけてくる人数はめっきり減っていった。
路地裏に身を潜め、ついでに息も潜めていると、
「くっそ、どこ行った⁉」
「くまなく探せよ!」
「見つけたら山分けだからな!」
などというちょっと危険な雰囲気のセリフが聞こえた気がしたが、それらはやがて駆け足とともに消え去った。
「……な、なんだったんだろうね、今の人たち」
そっと小声で感想を漏らした瞬間。頭蓋骨に、響くような衝撃が落ちてきた。
「──いったぁい!」
ライラは頭を押さえた。拳だ。大きな拳がまるで隕石のような勢いを保って頭に直撃してきたのだ。
「アルくん、なんで叩くの⁉ しないって言ったのにひどい、よ……」
非難の言葉と視線をアルに向けるも逆に怯まされる。額に青筋を立てた彼が視界に入ったから。
「おまえは……おまえというやつは……っ、この、愚か者が!」
わあ、アルくんってこんな大きな声も出せるんだ、なんて呑気に感心している場合ではない。アルの怒号は鳴り止まない。
「竜人族がなぜ他種族との接触を断ってまで、わざわざ辺鄙な渓谷に里を築いたか知らないのか!」
「へっ⁉ し、知らない、わからないです!」
叩かれたわけでもないのに、アルも頭を抱えている。どうやら頭痛がしているらしい。
「本当に、知らないのか。……『竜人族の角は、煎じると万能薬になる』」
溜め息交じりのアルのセリフに、ライラは首を傾げた。
「? それは聞いたことあるけど……。でもそれって迷信だよ?」
「ああそうだな、迷信だ。二十年近く前に国の科学研究室が公表している。だが未だに信じている者も少なくない」
初めて耳にした情報にきょとんとしながらも、アルの説明に耳を傾ける。
「竜人族がいくら戦闘能力に秀でていても、夜中に多人数に奇襲されては敵わない。だから竜人族は人里離れたところに里を築いたんだ。場所は一般には秘匿されているし、山岳地帯なら大勢で押しかけるのは難しい。渓谷という地形も、竜人族に有利だからな」
「でも、でもボクには角がないよ?」
竜人族には角と羽が生えている。と一般的に言われてはいるが、全員がそうではない。例外も存在する。角が生えない者も、羽が生えない者もいる。角と羽の両方が備わっていることが望ましいとされ、里での発言権も大きくなるのだ。
己のコンプレックスでもある角のないまっさらな額。それをライラは、アルにもよく見えるように前髪をかき分け、背伸びまでしてみせた。
「ね? だから、ボクが狙われることはないと思うよ」
「まともな奴ならそれで引き下がるだろうがな。竜人族が世界でおまえ一人となれば、その価値は格段に跳ね上がる。『角がないなら羽だ』、『歯だ』、『脳味噌だ』と思い切る奴もいるだろうな。……ああ、それでも構わないなら竜人族を名乗るといい」
「ひぃっ! な、名乗りません!」
ライラを叱ったアルはその後、宿の予約をキャンセルしてしまった。曰く、「お前を狙う奴らに包囲でもされたら面倒だ」とのことで。有無を言わさぬ決定事項に、ライラは華奢な肩をさらに縮こまらせた。
「ごめんなさい、せっかく宿が取れたのに」
「まったくだ。……やはりお前の髪の色は目立つな。次に出身を訊かれたら、無難に狼人族とでも名乗っておけ」
フードを目深に被らされる。口を覆い、ライラは黙ってアルに付いていくことにした。もう、アルの邪魔になるようなことだけは避けたい。
開店準備中の壮年の男性にアルが話しかけるのを、ライラは後ろから観察するに留める。この男性も紛争に巻き込まれたのだろうか。腕に包帯を巻いているが、表情にはまだ明るさがあった。
「だいぶ復興が進んできているようだな」
「ああ。みんなの頑張りもあるけど、ほとんどモンブラン隊のおかげさ。医療チームをすぐに手配してくれたおかげで、今もこうして働けとるよ」
「そうか……」
アルの表情が幾分か柔らかくなった。所属する隊を褒められたのが嬉しいのだろうか。……けれど、それもそう長くはなくて。
「実際、助かったよ。モンブラン隊は縁起が悪い、なんて一部じゃ言われているがねえ……」
瞬間。ピン、と空気が張り詰める。ふと見上げれば、アルの表情はいつもの険しさを取り戻していた。「モンブラン隊は縁起が悪い」とはどういうことだろうか。ライラは疑問に思ったけれど、邪魔にならないよう口を噤む。
硬い表情そのままに、アルはさらりと話題を変えた。
「……ところで、最近このあたりでなにか変わったことは起きていないか」
「変わったこと?」
「ああ。例えば、あの巨塔にまつわることなんかでもいい」
「……うーん。いやぁ、特には。何も起きてないと思うよ」
ライラは男性に注目していた。だから気づいたことがあった。男性の話すスピードが速いこと。アルの質問に、一瞬だけ目を泳がせたのも。
「わかった。今夜か明日か、同じようなことを訊くヤツが現れるかもしれない。もし思いついたら、そいつに教えてやってくれ」
「はいよ」
壮年の男性から離れ、アルはひとりで歩き始めた。彼に迷惑をかけないよう、黙っておとなしく付いていくことにした……はずのライラは、息を呑み、壮年の男性に詰め寄る。息を大きく吸い込んで。
「あ、あの! 本当に思いつかないですか⁉ ち、ちょっとしたことでもいいので、もしあるなら、ボクに話してもらえませんか⁉」
勢いとその声量に驚いたのか、壮年の男性は何度もまばたきを繰り返した。
「あ、ああ。なんか、すごいな。ぐいぐい来るな、君は……」
アルの冷ややかな視線を、背中が受け止めている。しかしそれが和らいだのは、男性が先ほどとは打って変わって、口を滑らかにさせてからだった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
宣言通り、今夜は野宿。
ユーシュヴァルの西にある森が今夜の寝床だ。アルが設置した簡易テントの中で、ライラは横たわっている。虫の侵入や風雨を防ぐことはできるが、外から漏れる光を遮断することはできない。テントの外側から漏れる焚火の光。時折横切る大きな影はアルのものだ。夕食を済ませたあとに、「寝具は一つしか用意がない」と言われ、ライラはテントの中に半ば無理やり押し込まれてしまったのだった。
(アルくん、僕よりずっと疲れているはずなのに)
いつも彼が使っているのだろうテントからは、甘い香りがした。そういえば初めて出会った時も、彼からは同じ香りがしていたはずだ。バニラの甘さの中に爽やかさもプラスされたような、いつまでも嗅いでいたくなるような──それに気づいてから妙に眼が冴えてしまって、落ち着かない気持ちになってしまって。せっかくテントの中で休ませてもらっているのに、眠れずにいた。
怒られはしないだろうかと怯えながら、テントからそっと身を乗り出す。アルは焚火を挟んだ向こう側に腰かけていた。
「アルくん」
「どうした?」
「休ませてくれてありがとう。アルくんも休んだほうがいいんじゃない? 昨日の夜も、あまり眠れてないんでしょう?」
「必要ない。眠気覚ましを使った」
そう言って彼が見せてくれたのは左手の細い──葉巻のように、ライラには見えた。
「葉巻……じゃない、もしかして煙草? 本の挿絵で見たことある」
「ああ」
煙草の先から揺れる煙。バニラの香りが強くなる。テントの中で嗅いだものと同じ。彼と同じバニラの香りが自分にもうつっているのかもしれない。そう思うと気恥ずかしいような、こそばゆい心地がした。
「アルくんって、煙草吸えるんだね! そういえば訊いてなかったよね、アルくんって歳はいくつなの?」
「二十二だ」
「わぁぁ、大人だぁ……!」