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2-3.ライラと、巨塔

 ライラはしばらく黙った。アルが「冗談だ」と口にするのを期待して。けれどそれきり、アルが口を開く気配はない。……どうやら冗談ではないらしい。そのことに気づいたのは馬車が止まり、ふたりで馬車を下り、御者が「良い旅を」と紳士的な言葉を残して去っていった後のこと。


 我慢していたぶん、渾身の声量で叫ぶ。

「……無理無理無理無理! 絶対無理だよ!」

 あくびをしながらアルは流していく。

「だってそんな責任重大な……! それにボク、政治のことなんて何もわからない、王子様のことだって何も知らない! どんな人たちなのかも……ね、ねえ、誰に投票したらいいの⁉」

「それくらい、自分で考えろ」

「それくらいって、言われたって」

 大きなエメラルドの瞳に涙が滲みそうだ。アルの声があまりに冷たく響いて。

「おまえは、俺に言われたらそれに従うつもりか? 何も知らない、わからないというなら自分で見て聞いて、調べて考えて、判断して行動しろ。なにを躊躇することがある?」


 なぜそんなに狼狽えるのかわからない、とでも言いたげに言い放つアルに、ライラは固まってしまった。けれどすぐに、ああ、そうか。と納得した。


(アルくんは、そうやって生きてきた人なんだ。そんな生き方を許されてきた人なんだ)


 手を伸ばせば届く距離、目の前にいるはずの彼がずっと遠くに感じる。生まれた所、育ってきた環境が違う。食べるものも物の考え方も大いに異なる。たったそれだけで、生き方にこうも隔たりができるなんてライラは知らなかった。


 自分で見て聞いて、調べて考えて、判断して行動する。そんな生き方があったなんて。


(ボクもアルくんみたいに、生きていけるのかな。これからは、そんな生き方が許される……?)


 心臓は居心地悪そうに、控えめな鼓動を繰り返す。これからどんな出来事が自分に降りかかるのか、ライラには想像もできなくて。けれど、立ち止まってばかりいられない。先行くアルに追いつくためにも。まずは一歩を踏み出した。


「……わ、わかった。まず、王子様たちに会ってみないとだね! どんな人たちなのかは会ってみないとわからないし。そのために今、お城に向かってるんだもんね」

「そうだ。……が、今も一応は遠征中だ。まずはここ、ユーシュヴァルでの情報収集が先だ」



 商業都市、ユーシュヴァル。世間に疎いライラでも、その名前は聞いたことがあった。食料や衣料品などの必需品、生活雑貨に至るまで、ユーシュヴァルに来ればこの国の流通品のすべてが取り揃うと評判の街だ。さぞかし活気のある街なのだろうと思っていた、のだが。

 街に足を踏み入れて間もなく、ライラは息が詰まりそうだった。今朝発ったばかりのハディントンシティに比べ、ここは物悲しい雰囲気が立ち込めていた。鼻につく消毒液のにおい。すれ違う人々の表情からも生気がやや削がれている。頭に包帯を巻いている者もいれば、松葉杖で体を支えている者も。復興しつつあると聞いていたが、二ヵ月前に起きたという紛争の爪痕が、いまだ深く残されているようだ。

「俺のそばを離れるなよ」

「う、うん」


 アルの小声の忠告が、ライラの緊張をより高めていく。宿の手続きを素早く済ませると、ふたりは街の中心部へと歩みを進めていった。

 彼に負けじと、ライラも声を抑えて問いかける。

「アルくん、アルくん。この街で情報収集って、何をするの?」

「……おまえのいた里に、新聞なんか届いていなかっただろうしな」


 琥珀の瞳が、空を捉える。


「ああ、ちょうど今日は“見える”日だ。空を見てみろ」

「空?」

 アルの視線を辿るように、ライラは首を上向けた。それと同時に、

「……あれは、なに」

 乾いた声が喉から漏れ出る。


 視界に入ってきたのは、逆さまの巨大な白い塔。雲を貫くように天から伸びたそれは、まるで鋭利な切っ先を地に向けているようだ。先ほど地図を見たばかりだから、わかる。巨塔のてっぺん、切っ先に似たそれは王都に向けられている。

「あんな大きな塔、どこから? なんで、どうして落ちてこないの?」

「さあな」

 アルはいたって冷静だ。辺りを見回しても、塔に目線を向ける者がいてもほんの一握り、ほんの一瞬。この街でライラだけが巨塔の存在に目を奪われ、鼓動を大きく震わせているらしい。


 落ち着いた様子でアルは口を開く。

「もう十二年になる。空に突如、あの逆さまの巨塔が浮かび上がってきたのは。……当時はそれはもう災難だった。おかしな学者が『空からの来襲者が現れた』だとか吹聴するわ、真に受けた民衆による暴動が起きるわ……」

「パニックになるのも無理ないよ。だってあの塔、なんだか怖いもん」

 心臓が声まで震わせる。胸に手を当ててみても、鼓動の激しさが留まるところを知らない。


「だが実際は、あの巨塔は時々ああして空に出現しては、いつの間にか消えるだけ。いつまで経っても来襲者は現れず、やがて民衆も見慣れてしまってな。アレも日常風景の一つとして受け入れられつつある」

「な……慣れるものなんだ、すごいね?」

「人間は鈍感だ。鈍感じゃなきゃ、生きられないこともある」


 アルの言う通り、巨塔は間もなく霧のように姿を消してしまった。柵に囲まれた、深い渓谷の里からは見えなかった現実が、ライラにとっては痛いくらいに新鮮だ。

「慣れているからといって、国としてはああいう異常事態を放置することはできない。国の威信に関わるからな。過去に、竜人族に調査を頼み飛行してもらったことがあるが、気流に邪魔されて塔までは辿り着けなかったらしい。飛行手段の無い俺たちは、地道に足で調べるしかない。あの巨塔が見える範囲の街では、特に重点的に調査することにしている。なにか変わったことはなかったか、とな」

 そう答えてくれたアルの横顔に、疲れの色が見えたのをライラは見逃さなかった。眼の下の隈が昨夜より濃くなっているせいだろうか。


「ねえ、ボクにもなにか手伝えることってないかな?」

「あ……? おまえが?」

 わかりやすく眉が歪められたが、振り切るように何度も頷く。

「だって同じことを訊くなら、一人より二人のほうが効率もいいでしょ?」

「それはそうだが……」

 アルの視線が遠くを見据える。視線の先を辿れば、道端で彩り豊かな衣料品を売っている妙齢の女性。

「なら、試しに聞き込みしてこい」

「はい!」

 ライラは意気込んで、一歩、ゆっくりと、さらに一歩。……どう見ても足取りは重い。


「おい、どうした?」

「ご、ごめん。ヒューマンがその、怖くて」

「……無理もない。最初に出会ったヒューマンがあれではな」

 ライラとアル、ふたりの頭の中には共通の顔が浮かんでいた。脂下がった表情の、小柄な男。

「気持ちはわかるが、今後出会うのはヒューマンだらけだ。今のうちに慣れておけ」

「……また叩かれたりしないかな」

「しないから行ってこい」

「はい!」

 アルの発言に背中を押されて、ライラは勢い任せに女性のもとへ駆け寄った。


「……あのっ、すみませーん!」

(大丈夫、大丈夫。アルくんがすぐ近くにいてくれてる。ボクだって役に立てるんだってこと、証明しなきゃ!)


「お聞きしたいことがあるのですが、いま、お時間よろしいですか!」

 じろり、と。物珍しげに、女性の視線がライラの髪に移る。翡翠の髪を持つ者がヒューマンにはいないからだろう。

「おや……。アンタ、ヒューマンじゃないね。どこから来たんだい?」

 質問に質問で返されてしまった。出鼻をくじかれつつ、ライラは問いに真摯に答えることにした。


「竜人族の里から来ました!」

 女性の目の色が、変わった。

「──……竜人族⁉」


 瞬間、静かだったはずの周囲がざわつく。今朝の食堂とは逆だなぁ、などと思った瞬間、

「逃げるぞ!」

「へ? ──うわぁぁぁぁ!」

 視界が急転直下。上から落ちてきた深みのある声の主は、やはりというべきかアルだった。小脇に抱えられるのは今日で二度目だ。

 ライラを抱えたまま、余裕のあった今朝とは打って変わって全力疾走。ライラの厚い前髪が風で反り返る。


(わあ、アルくんって足も速いんだ。すごいなあ)


 などと、悠長な感想を抱いている場合ではなかった。ふと振り返れば、必死の形相のヒューマンたち、数人、いや十数人にライラたちは追われていた。

「え? な、なに? 何が起こってるの……⁉」

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