翌朝。
ライラはベッドから身を起こし、脱衣所で顔を洗った。頬の腫れが劇的に引いているのが嬉しい。窓を開けると、朝日に祈りを捧げる。
受付の女性に呼ばれ食堂まで下りると、朝食が用意されていた。見たことのない献立、賑やかな食堂に何度目かのカルチャーショックを受けつつ、周囲の見様見真似でスープを口に運んでいく。昨夜口にした時と同様、美味しいとは思う。けれど、アルの作った粥のほうが不思議と美味しく感じられた。
「眠れたか?」
当の本人が入り口から現れたと思いきや、ドカリと向かいに座り込んだ。彼の目の下の青い隈は、昨日より濃くなっている。ライラは思わず息を吞んだ。
「おかげさまで……。あまり眠れなかったんですか?」
「まあな」
「朝食は?」
「もう済ませた。お前が食事を終えたら出発する」
急かされているのだな、とライラは理解した。
「まずはおまえの靴と……そうだな、服を買いに行く。次の街で宿が取れるとは限らない。野宿も覚悟しておけよ」
「わかりました、
しん、と辺りが静まった。
先ほどまでがやがやと、賑やかな食事風景が広がっていたはずなのに。今はもう、食器の触れ合う音すら聞こえない。
ライラはきょろきょろと辺りを見回す。
「? なに……?」
「……気が変わった。さっさと出るぞ」
靴が無いので仕方なく、だろう。アルは小脇にライラを抱えて宿を後にした。ライラの口にはまだパンが咥えられたままだ。二人の消えた食堂に、徐々に活気が戻ってくる。
「……今、アル様って言わなかった? あの女の子」
「いや男の子だろ? っつーか問題はそこじゃねえって。アルったって、よくある名前じゃねえか。偶然だろ?」
「でもねえ、長身だし赤髪だし、顔も精悍って感じでかっこよかったし」
「それに昨日は市場にモンブラン隊が来てたんだろ? ありえない話じゃないよな?」
「いや、ないだろ。こんなしけた宿に、アルヴィン様が来るわけねえって」
「そうだよ。まさか王子様が、こんなところに来るもんですかっ! それに、どうせなら第一王子に来てもらいたいよ私は……」
彼らは口々にそう言い合って──少しずつ、いつもの喧騒を取り戻していった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
「おっ、綺麗な顔した坊ちゃんだ。どれ、おっちゃんがいい靴見繕ってやる」
靴屋の主人と、
「あら、かわいいお嬢ちゃん! おばちゃんがコーディネートしてあげる!」
衣服屋の店主のそれぞれに一目で気に入られ、靴と服一式を宛がわれた。自分の容姿はどうやら女の子に間違われることがあるらしい、ということを、今日この瞬間にライラは初めて知るのだった。里を出るまでは考えられなかったことだ。
靴は丈夫な素材でできていて、長距離の移動にも耐えられる優れもの。法衣にも似たワンピースタイプの服の上には防寒仕様のケープを羽織らされた。代金を支払ったのはやはりアルだ。衣食住のすべてを頼ってしまっている現状に、ライラは心苦しくなる。
「ものすごく温かい格好ですね。汗をかいちゃいそう」
「夜は冷えるし、山で野宿になる可能性もある。……それに、イデアル平原は風が強い」
賑やかな町に別れを告げる。ハディントンシティを出れば、目の前に広がるのは茫洋としたイデアル平原。空がこんなにも広いのを、ライラは初めて知った。足元を見ればいくつもの轍の跡が、遠い地平線まで続いている。心臓が高鳴る。目に入るものすべてが「初めまして」だ。
(すごい……空気が美味しい。世界って、こんなにも広いんだ……!)
「アル様……! ボク、楽しみです。これから何が起きるのかなって」
明朗な声のライラとは対照的に、アルはげんなりとした様子だ。
「……おまえ、それ。『アル様』って言うのやめろ」
「え? ど、どうしてですか?」
「お前の容姿、様付け、敬語もそうだ。すべて悪目立ちする」
「……目立っちゃダメ?」
「ダメだ」
そうか、目立つことはダメなのか。なぜなのかはあえて考えないことにした。アルがダメと言うならダメなのだろう。
そう己を納得させたが、問題が一つだけ残っていた。
「それじゃあ、なんて呼べばいいですか? 『アルさん』?」
「様付け以外なら好きにしろ。それと、敬語はやめろと言っただろ」
「はっ、はい……じゃなかった、うん!」
どう呼べばいいかとライラは頭を抱えた。
その間にも、アルはどんどん先へと足を進めていく。追いかけようとすれば、アルが一歩を踏み出すたびにライラは小走りしなくてはならない。追いかけながら、彼の大きな背中を見つめる。
(少しでいい、ほんの少しでもいい。この人みたいな、かっこいい人になりたい。この人に、近づけられたなら)
そんな願いと祈りを込めて、ライラはアルの名前を呼ぶ。
「それじゃ、それじゃあね、『アルくん』!」
「ん」
短いながらも返事をくれた。そんな些細なことで彼にちょっぴり近づけたような。まるで友達にでもなれたような、嬉しい錯覚を抱いてしまう。
胸の内が温かくなって、どうにもそれを抑えられなくて、
「アルくん、アルくん」
「なんだ」
「くふふ、呼んでみただけだよ!」
ライラは何度も、アルの名を呼んだ。
広大無辺なイデアル平原を、大小二つの影が進んでいく。小さな影は大きな影の後を追いかけながら、悠然と鼻歌を風に乗せていた。
「……さっきから、何をそんなに浮かれている」
大きな影、もといアルが呆れを隠さず問いかける。
「浮かれもするよ、だって楽しみなんだ! 童話の中で読んだことあるよ! お城って豪華で、キラキラしてて、王子様とかお姫様とかがいるんでしょう⁉」
小さな影、もといライラはウキウキした気持ちを隠せない。幼い頃から憧れてきた童話の世界に行けるのだから。浮かれるなと言うほうが無理な話だ。
「……お前の期待に沿えるような存在でもないがな」
アルが暗い声で言うので、ライラはハッとした。アルは近衛騎士団に所属していると言っていた。当然ながら王城のことも熟知しているし、ごく身近に王子様やお姫様がいるのだ、と今更に気づいて。
「ねえねえ。呪われたお姫様とかいないの? お姫様を助けに行く勇敢な王子様は?」
「いるかそんなもん」
「ああ、いないんだぁ……。でも、誰も呪われてないならよかったね!」
ライラの微笑みを、翡翠の長い髪がふわりと隠した。追い風に乗せられ、ライラの足取りも軽くなる。イデアル平原の風は強い。だからアルの返事も、ライラの耳には届かない。
容易く独り言に変えてしまう。
「呪いなんてものが、あってたまるか」