目次
ブックマーク
応援する
19
コメント
シェア
通報

1-5.ライラと、旅立ち

 翌朝。

 ライラはベッドから身を起こし、脱衣所で顔を洗った。頬の腫れが劇的に引いているのが嬉しい。窓を開けると、朝日に祈りを捧げる。

 受付の女性に呼ばれ食堂まで下りると、朝食が用意されていた。見たことのない献立、賑やかな食堂に何度目かのカルチャーショックを受けつつ、周囲の見様見真似でスープを口に運んでいく。昨夜口にした時と同様、美味しいとは思う。けれど、アルの作った粥のほうが不思議と美味しく感じられた。


「眠れたか?」

 当の本人が入り口から現れたと思いきや、ドカリと向かいに座り込んだ。彼の目の下の青い隈は、昨日より濃くなっている。ライラは思わず息を吞んだ。

「おかげさまで……。あまり眠れなかったんですか?」

「まあな」

「朝食は?」

「もう済ませた。お前が食事を終えたら出発する」

 急かされているのだな、とライラは理解した。

「まずはおまえの靴と……そうだな、服を買いに行く。次の街で宿が取れるとは限らない。野宿も覚悟しておけよ」

「わかりました、!」


 しん、と辺りが静まった。

 先ほどまでがやがやと、賑やかな食事風景が広がっていたはずなのに。今はもう、食器の触れ合う音すら聞こえない。

 ライラはきょろきょろと辺りを見回す。

「? なに……?」

「……気が変わった。さっさと出るぞ」

 靴が無いので仕方なく、だろう。アルは小脇にライラを抱えて宿を後にした。ライラの口にはまだパンが咥えられたままだ。二人の消えた食堂に、徐々に活気が戻ってくる。


「……今、アル様って言わなかった? あの女の子」

「いや男の子だろ? っつーか問題はそこじゃねえって。アルったって、よくある名前じゃねえか。偶然だろ?」

「でもねえ、長身だし赤髪だし、顔も精悍って感じでかっこよかったし」

「それに昨日は市場にモンブラン隊が来てたんだろ? ありえない話じゃないよな?」

「いや、ないだろ。こんなしけた宿に、アルヴィン様が来るわけねえって」

「そうだよ。まさか王子様が、こんなところに来るもんですかっ! それに、どうせなら第一王子に来てもらいたいよ私は……」

 彼らは口々にそう言い合って──少しずつ、いつもの喧騒を取り戻していった。


♦ ♦ ♦ ♦ ♦


「おっ、綺麗な顔した坊ちゃんだ。どれ、おっちゃんがいい靴見繕ってやる」

 靴屋の主人と、

「あら、かわいいお嬢ちゃん! おばちゃんがコーディネートしてあげる!」

 衣服屋の店主のそれぞれに一目で気に入られ、靴と服一式を宛がわれた。自分の容姿はどうやら女の子に間違われることがあるらしい、ということを、今日この瞬間にライラは初めて知るのだった。里を出るまでは考えられなかったことだ。


 靴は丈夫な素材でできていて、長距離の移動にも耐えられる優れもの。法衣にも似たワンピースタイプの服の上には防寒仕様のケープを羽織らされた。代金を支払ったのはやはりアルだ。衣食住のすべてを頼ってしまっている現状に、ライラは心苦しくなる。


「ものすごく温かい格好ですね。汗をかいちゃいそう」

「夜は冷えるし、山で野宿になる可能性もある。……それに、イデアル平原は風が強い」


 賑やかな町に別れを告げる。ハディントンシティを出れば、目の前に広がるのは茫洋としたイデアル平原。空がこんなにも広いのを、ライラは初めて知った。足元を見ればいくつもの轍の跡が、遠い地平線まで続いている。心臓が高鳴る。目に入るものすべてが「初めまして」だ。


(すごい……空気が美味しい。世界って、こんなにも広いんだ……!)


「アル様……! ボク、楽しみです。これから何が起きるのかなって」

 明朗な声のライラとは対照的に、アルはげんなりとした様子だ。

「……おまえ、それ。『アル様』って言うのやめろ」

「え? ど、どうしてですか?」

「お前の容姿、様付け、敬語もそうだ。すべて悪目立ちする」

「……目立っちゃダメ?」

「ダメだ」


 そうか、目立つことはダメなのか。なぜなのかはあえて考えないことにした。アルがダメと言うならダメなのだろう。

 そう己を納得させたが、問題が一つだけ残っていた。

「それじゃあ、なんて呼べばいいですか? 『アルさん』?」

「様付け以外なら好きにしろ。それと、敬語はやめろと言っただろ」

「はっ、はい……じゃなかった、うん!」


 どう呼べばいいかとライラは頭を抱えた。

 その間にも、アルはどんどん先へと足を進めていく。追いかけようとすれば、アルが一歩を踏み出すたびにライラは小走りしなくてはならない。追いかけながら、彼の大きな背中を見つめる。


(少しでいい、ほんの少しでもいい。この人みたいな、かっこいい人になりたい。この人に、近づけられたなら)


 そんな願いと祈りを込めて、ライラはアルの名前を呼ぶ。

「それじゃ、それじゃあね、『アルくん』!」

「ん」

 短いながらも返事をくれた。そんな些細なことで彼にちょっぴり近づけたような。まるで友達にでもなれたような、嬉しい錯覚を抱いてしまう。

 胸の内が温かくなって、どうにもそれを抑えられなくて、

「アルくん、アルくん」

「なんだ」

「くふふ、呼んでみただけだよ!」

 ライラは何度も、アルの名を呼んだ。




 広大無辺なイデアル平原を、大小二つの影が進んでいく。小さな影は大きな影の後を追いかけながら、悠然と鼻歌を風に乗せていた。

「……さっきから、何をそんなに浮かれている」

 大きな影、もといアルが呆れを隠さず問いかける。

「浮かれもするよ、だって楽しみなんだ! 童話の中で読んだことあるよ! お城って豪華で、キラキラしてて、王子様とかお姫様とかがいるんでしょう⁉」

 小さな影、もといライラはウキウキした気持ちを隠せない。幼い頃から憧れてきた童話の世界に行けるのだから。浮かれるなと言うほうが無理な話だ。


「……お前の期待に沿えるような存在でもないがな」

 アルが暗い声で言うので、ライラはハッとした。アルは近衛騎士団に所属していると言っていた。当然ながら王城のことも熟知しているし、ごく身近に王子様やお姫様がいるのだ、と今更に気づいて。

「ねえねえ。呪われたお姫様とかいないの? お姫様を助けに行く勇敢な王子様は?」

「いるかそんなもん」

「ああ、いないんだぁ……。でも、誰も呪われてないならよかったね!」


 ライラの微笑みを、翡翠の長い髪がふわりと隠した。追い風に乗せられ、ライラの足取りも軽くなる。イデアル平原の風は強い。だからアルの返事も、ライラの耳には届かない。

 容易く独り言に変えてしまう。


「呪いなんてものが、あってたまるか」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?