春から東京の大学に通うことになり、私、
「新垣さん、大変申し訳ないのですが……。もう安い物件はありませんね……」
男性は物件が載った資料を捲り、一つ一つ丁寧に確認しながら言った。
「月十二万円以上ならあるのですが……」
「そ、そんなに払えません。本当に何処でもいいので、もっと安い場所――」
その時、私の目に入った。男性が捲る資料に、激安の物件があるのを。
「ちょっと待って下さい! 今の! 今のページを見せて下さい!」
私は男性から資料を奪うように受け取り、そのページに戻した。
物件は激安も激安。
渋谷で月二万は安い、安すぎる。
しかもまだ空いてる。
「あるじゃないですか! こ、この物件! この物件にして下さい! 大学からも近いですし!」
私が資料を返すと、男性がタブーに触れたかのように表情を歪めた。
「い、いえ、この物件はお勧めできないというか……」
「大丈夫です。部屋は六畳、トイレもお風呂もキッチンもあるし。洗濯機を置く場所だって部屋の中ですし、充分じゃないですか」
うーん、と腕を組んで唸った後、男性は私にだけ聞こえるような声で言う。
「実はですね。この物件、出るんですよ」
「出るって、何がですか?」
私も男性に合わせて声のトーンを落とす。
「幽霊ですよ、幽霊。要は事故物件というやつです」
私は鼻で笑った。
「なあんだ。それなら大丈夫です。だって私、そういうの全然信じないタイプなんで」
「いえ。過去にもそういうかたがいらっしゃいましたが、そのかたも僅か三日で部屋を出て行ってしまいました」
「大丈夫です。塩、用意しとくんで。例え出たとしても、幽霊なんて塩さえあれば充分!」
大丈夫かなぁ……と後頭部を掻く男性。その向かいで私は、心を大学生活に向けていた。
幽霊なんて、塩さえあれば大丈夫だと思っていた。
そして、あっという間に入居日になり……。
「こんなもんかな?」
朝からぶっ通しで部屋の段ボールを片づけていたら、いつの間にか夕方になっていた。
部屋にはまだ、必要最低限のものしかない。
掛け時計、カーテン、テレビ、ベッド、木製の円卓、冷蔵庫。洗濯機は、玄関の専用の置き場に設置済みだ。
「これから色々買わなきゃね……」
シャワーを浴び、早めの夕食を食べ、疲れた身体を癒すため、早めの就寝に入った。
「う……ん……」
深夜のことだった。私は自然と目を覚ましていた。
何だろう。何かがおかしい。
身体を起こそうとしたが、身体の自由が利かない。動くのは首から上。
「……金縛りってやつ?」
声は出る。顔は動く。でもやはり、他の部位は機能を失ったかのように動かない。
『幽霊が出るんですよ』
不動産屋の言葉が、脳裏をよぎったその時、左隣に何らかの気配を感じた。
まさか……。
私が首を左に回すと、何と、驚くことに、そこには老婆が仰向けになって寝ていた。その顔は紙のように白く、しわだらけ。白髪を後ろで束ねた老婆だ。
(う、嘘……?)
老婆はゆっくりと首をこちらに回し、私に向かってニヤリと微笑んだ。
幽霊なんて信じない。塩さえあれが充分。そう粋がっていたけど、実際に対峙したら声も出ないほどの驚きと、何より恐怖に支配されていた。
「こんばんは」
老婆は弱々しい声で言った。私は引きつった顔で愛想笑いをするのが精いっぱいであった。
「あのさあ、あなた、お名前は?」
「あの、え……っと……新垣……新垣アサミです……」
顔を逸らそうとしたが、もう首から上さえ動けない状態になっていた。できることは、喋ることのみ。
「ポテト……」
突然、老婆が言った。
「フライドポテトが食べたいなぁ……」
「は、はあ……」
「悪いんだがアサミさんや。ちょっと今からポテト買ってきてくれないかね?」
……なにこの展開。
「ええっと……おっしゃっていることがよく……」
「ああすまない。サイズはL」
いやサイズじゃなくて。
「今なら、LサイズでもSサイズと同じ値段だからのう」
知りませんし。
「Lサイズのポテトの箱を口の上でひっくり返して、『あー』って叫びながら、飲み込むように食べたいのう」
喉につまりません?
「今は二十四時間営業だし、スマイルも無料ですぞ、アサミさんや」
スマイル関係なくね?
「あ、あの、買ってきてもいいですが……金縛りで身体が動けないといいますか……」
「あー、すまんのう。だったら今すぐ解除するから、走って買ってきて」
意外と人使い粗いな。
私はピンクの寝巻のまま、ファーストフード店に行き、Lサイズのポテトを購入。店員のスマイルが突き刺さる様に痛かった。
「はあ……はあ……買って来ました……」
私が帰ると、老婆はベッドの上でお行儀よく座っていた。
「すまんのう、アサミさんや」
Lサイズのポテトを受け取ると、老婆は上を向いて口を大きく開いた。
そしてポテトの箱をひっくり返して「あー」と言いながら口の中へ流し込むようにポテトを食べた。
すると、
「おお、旨い旨い、塩が効いて――」
グボッと、老婆が苦しんだ。
「ぎいやあああああああああああああああああああああああああ!」
老婆は断末魔を上げ、しゅわーっと、白煙となって消え去った。
たいへん、塩加減がよろしかったようで。