国境を越えて数日後、ミリエラたち一行は、マリーニアの都へと到着した。
まずはカイローン男爵の屋敷におちついたあと、その日の夕方には男爵に連れられて、ミリエラはアドニアスと共に国王の住む城へと挨拶に向かった。
マリーニアの王は彼らを笑顔で出迎え、その夜は歓迎のための晩餐会を開いてくれた。
晩餐会はごく内輪のもので、王のほかは王妃と王太子、そして現在の聖女の三人だけが参列するものだった。だがそれは、ミリエラにとっては極度の緊張状態に置かれることがなく、かえってありがたいことだった。
マリーニアの聖女は、男爵の話にもあったように、かなりの高齢だった。
ずいぶんと小柄で、その背丈は子供のようでもある。傍に付き従う中年の侍女が、席に着く時などに介添えをしていた。ただ、背筋はしゃんと伸びていて、真っ白な髪はきっちりと結い上げてシニョンでまとめている。白い衣は聖女にふさわしく、袖口や裾には銀糸で繊細なししゅうが施されていた。
「彼女が我が国の聖女ハルドラだ」
王の紹介で、聖女とミリエラは互いに挨拶を交わす。
「遠いところから、はるばるようこそ。そして、わたくしたちの願いを聞き入れてくれて、ありがとう」
聖女ハルドラは、柔和な笑みを浮かべて、穏やかな声音でそう言った。
「いえ。わたくしの方こそ、受け入れていただいて、ありがとう存じます」
対してミリエラも、あたりさわりのない答えを返す。
そのあとも、晩餐は和やかに進み、やがてデザートのお菓子が供されて終わりを告げた。
その二日後、ミリエラは三人の女官と共に、聖女の館へと移った。
マリーニアの都は、中央に森があってその周辺をぐるりと囲む形で作られている。
王の住む城は都の北側に位置していて、その南側に貴族たちの住む地域が広がっていた。城に向かうためには、森を抜けて行くか、都の周辺を大きく迂回して城の東西に造られた門を目指すかしかない。
そして、聖女の館は森のほぼ中央に建っていた。
館といっても、そこまで大きなものではない。建物は三階建てで、一階が聖女のための祈祷所と人々から相談などを受け付けるための、小さな応接室になっており、二階は聖女の生活の場、三階が聖女に仕える者たちの住居といった具合になっている。
館の裏手には庭があり、そこには
ミリエラの住まいは聖女と同じく二階に用意されていた。
寝室と、応接間を兼ねた居間が二間続きになった部屋だ。食事は聖女と共に食堂で取ることになっていた。料理は専門の料理人がいるという。
ユーライラたち女官は、三階にそれぞれ部屋をもらった。
聖女の元にも三人侍女がおり、それ以外に下働きの男女が数人いるという話だった。
ユーライラたちは慣れるまでは、聖女の侍女たちにここでのくらしようを教えてもらうことになったが、基本的にはミリエラに仕えるという形になった。
ちなみに、館の者たちは聖女が直接雇った者たちであるらしい。
この国では、聖女には国から給金のような形で予算がつけられているのだという。それを使って聖女は、自分の生活を整えるのだそうだ。
ただ、館自体は国のものなので、修理などの必要がある場合は城の担当者に言って、そこから手はずを整えてもらうのだという。
「マリーニアでは、聖女と次期聖女には国から予算がつけられるのよ。お給金のようなものと考えておけばいいわね。傍に仕える者たちは、国ではなくわたくしたちがそれぞれに雇う形になるから……あなたが連れて来た三人には、あなたからお給金を払うことになるわ」
聖女ハルドラは、夕食のあとに自分の居間にミリエラを呼んで、城での時よりはずいぶんと砕けた口調で教えてくれた。
「わたくしが、彼女たちにお給金を……。どれぐらい渡せばよろしいのでしょうか?」
ミリエラは、少しばかり困って尋ねる。
これまで、彼女自身が給金をもらう立場だったため、人を雇うということがピンと来ないのだ。
それを察して、ハルドラは笑う。
「それは……彼女たちと相談して決めても良いのではないかしら」
言って彼女は、次期聖女につく予算の額と自分が侍女たちに払っている額を教えてくれた。
支払っている金額の方は、エーリカでもらっていたものとあまり変わらなかったので納得したが、国からの予算については、かなり額が大きくてミリエラは驚く。
「わたくし、そんなにいただけるのですか?」
思わず問い返すミリエラに、ハルドラはまた笑った。
「当然でしょう。あなたはいずれ、この国に実りをもたらす存在になるのですから」
言って、彼女はつとミリエラを見据える。
「ミリエラ。聖女の務めはとても大切なものです。生物はまず、食べるものがなくては生きて行けません。国内の自然が整って土が肥え、充分な量の植物が実れば、鳥や動物、昆虫、魚といった人以外のものたちも増え、彼らが生と死の営みを続けることで、国土は豊かになっていきます。そしてそれは、わたくしたち人間の生活もまた豊かになって行くということです。国が豊かになって栄えれば、人同士が争うこともありません。他人のものを奪いに行く必要がなくなりますからね。――わたくしたち聖女の祈りは、国の繁栄と豊かさ、そしてこの西方世界の平和をも支えているのです」
告げられた言葉に、ミリエラは目を見張った。
それは、エーリカの聖堂にあった書物の中の一節とまったく同じだったからだ。
その文章を読んだ時ミリエラは、自分に託された使命の大きさにおののくと共に、その大切なはずの聖女をないがしろにするエーリカの王に対して不安と恐怖を感じたものだった。
今もやはり、使命の大きさにはおののきを感じる。だが一方で、そんな大役にありながら、祖国を見捨ててよその国で聖女になろうとするうしろめたさも、感じずにはいられなかった。
ハルドラは、そんな彼女の気持ちを察したかのように、ふっと優しい笑みを浮かべた。
「案ずることはないわ。マリーニアを豊かにすることは、きっとあなたの祖国エーリカを豊かにすることにも、つながるはずよ。言ったでしょう? 聖女の祈りは西方世界の平和をも支えているのだと」
「は、はい」
励まされているのだと感じて、ミリエラはそれへうなずく。
そしてその日から、彼女の聖女としての本当の修行が始まったのだった。
それから一月ばかりが過ぎるころ。
エーリカを脱出した左大臣夫妻が、マリーニアに到着した。
二人はカイローン男爵が都の郊外に持つ別邸を当座の住まいとして、おちついた。
左大臣は、ミリエラのエーリカでの後見人だったこともあり、マリーニア王から聖女の世話や館の管理を行う「聖女省」で働くことを勧められ、それに応じた。それもあって彼は、新たにマリーニアでの爵位を与えられ、セイン男爵を名乗ることとなった。
ミリエラが、そんな彼とビアトリスに直に会ったのは、すでに8月も終わろうというころだった。
ちなみに、マリーニアの8月はさほど暑くはない。ミリエラたちの体感としては、春の盛りといった暖かさで、雨期もなく空気は乾いていてさわやかなので、ずいぶんと過ごしやすいと感じられた。
ミリエラが、左大臣改めセイン男爵とビアトリスと共にいるのは、館の庭にある四阿だった。
昼を少し過ぎたばかりのこの刻限は、庭でお茶をするのも悪くなかった。
風がどこからともなく、やわらかな花の香りを運んで来る。
ただ、日が陰るとやや肌寒く、油断をすると風邪を引いたりすることもあるので、こうした場所では女性たちはドレスの上に薄いケープなど羽織るものを用意するのが常だった。
そんなわけで、ミリエラもビアトリスも、少し下がって控える侍女に、それぞれ羽織りものを持たせている。
「お二人がおちつかれて、ようございました。……それにしても、マリーニアの王はとても寛大な方なのですね」
お互いに、近況などを話したあとに、ふとミリエラが言った。
「……というよりも、聡い方なのですわ」
ビアトリスが少し考え、返す。
「王様の側から見れば、探してもなかなか見つからなかった次期聖女が自分からやって来てくれた。更には、国を出た貴族の娘と、他国で左大臣を務めるほど優秀なその夫が共にやって来た。どちらも国の利となるゆえに受け入れる――そういうことなのだと思いますわよ」
「それはそうかもしれませんけれど……」
ミリエラは、軽く首をかしげて言葉を濁した。
この一月ばかりの間に、彼女もずいぶんとおちついていた。周囲から次期聖女として扱われ、ハルドラから聖女について教えられることで、今までなかった自信がそなわり始めていたせいだ。
彼女が言葉を濁した理由を、ビアトリスは察する。
マリーニアの王とエーリカの王。その対応の違いを、彼女は思ったのだろう。
「エーリカの王様は、お若いですから」
言ってビアトリスは、夫を見やる。
「そうだな。王は若く、そして彼を王として正しく導ける者が傍にいなかった。それこそが彼と、そして我々の不運だったのだろう」
セイン男爵は言って、故郷を思うかのように、つと視線を彼方へと向けた。
ともあれ。
こうしてエーリカの新しい聖女は、故郷とは別の場所に安住の地を得たのである。