ミリエラが密かに国を脱出してほどなく、左大臣は宰相からの呼び出しを受けた。それも、公的な執務室ではなく、王宮の中の彼の控の間に、である。
宰相に限らず、大臣たちや有力貴族らは、王宮の中に控の間を持っている。小さな居間や寝室、厨房などもついた立派なもので、城内にいるおりに私的に人と会ったり、親族を呼んでくつろいだりするおりに使われるものだ。
だが逆に、そこへ政敵といってもいい相手を呼ぶということは、密談かあるいは私刑を行うためと考えられる。
そんなわけで左大臣は、あとのことを妻と長男に託して、覚悟を決めてそちらへ出向いた。
呼び出しの理由は、案の定ミリエラのことだった。
「聖女代行がいなくなったようだが……さて、どうしたものか」
応接用の小部屋で向かい合って座り、侍従が用意したお茶を一口飲んだあと、宰相は言った。
「そなたはどう思う? 新たな代行者を決めるか、それとも形だけでも赤子の聖女が祈りを行っているよう取り繕うか」
「聖女代行を、連れ戻さないのですか?」
どういうつもりかと訝りながら、左大臣は問い返す。
「あれは、おらぬ方が都合が良い。一つの国に、二人も聖女は必要ない。そうであろうが」
肩をすくめて、宰相はそれへ答えた。左大臣が何も返さずにいると、宰相は小さく口元をゆがめた。
「あの元女官は、新たな聖女なのであろう? 私が気づかぬと思ったか」
「それで、あんな噂を……。私はまた、彼女を亡き者とするおつもりかと思っておりましたが」
左大臣は、あっさりと言う。
彼とて、宰相がそれに気づく可能性を考えていなかったわけではなかった。むしろ、宰相が本物の聖女が現れることを警戒しない方が、おかしいとさえ思っていた。王妃や赤子の王女が聖女ではないことを、一番理解しているのは、当の宰相だろうから。
左大臣の言葉に、宰相は薄く笑う。
「それで逃がしたのか。……まあよい。どちらにしても、この国はそう長くは持たぬであろうよ」
「宰相殿?」
彼の覇気のない言い様に、左大臣は思わず眉をひそめた。それへ宰相は言う。
「王は、聖女はいらぬと仰せだ。新たに王妃とせねばならないのなら、聖女は不要だとな」
「でしたら、王妃とせねばよろしいのでは?」
左大臣は以前から思っていたことを、口にした。
「聖女を王妃にするのは、百年ほど前の王が、他国から奪った聖女を取り戻されぬための方便として使った手段にすぎません。今更、それを守り続ける必要はないと思いますが」
「そのようなこと、とっくに私も考えた。だが存外、そなたのように思う者は少ないのだ」
宰相は吐き捨てるように返して、続ける。
「王が我が娘との婚姻を望んだおり、側室ではなく王妃にしたいと仰せだった。私は口ではその王を宥めたものの、聖女と王妃を切り離すことはできぬものかと考えた。百年前から続く慣習が、代々の国王にとっても、聖女にとっても幸福をもたらしていないと、以前から思っていたのでな。……だが、あちこちに根回ししようとしてみて、わかった。多くの者は、聖女が王妃であることを、そう悪いことではないと考えているのだとな」
それは、嘘ではなかった。
多くの者は、聖女を王妃として城内に囲い込むことで、不要に男たちを近づけたり、危害を加えられたりすることが防げると考えていた。
実際、エーリカの歴史の中には、不用意に外に出て狼藉を働かれて望まぬ妊娠をした聖女や、騎士や官吏と恋に落ちて逃亡した聖女なども、ちらほらといる。
一方で、この百年は聖女は順当に代替わりを繰り返していて、突然失踪したり問題があって聖女でなくなったりした者はいなかった。
また、王妃とした聖女に指一本触れられなくとも、王は側室を持つことが許されていて、しかも側室の産んだ子は等しく王子・王女として遇されるのだから、その点でも問題はないと考える者は多かったのだ。
これまたこの百年は、実際に代々の国王は側室腹だったし、それでなんの問題もなかった。そもそも、聖女が王妃になる以前から、側室腹の王はいたのだ。むろんその時々によって、国の情勢や誰が生母の後ろ盾なのかという事情はあったにせよ、基本的には彼らは王として人生を全うしていた。
ともあれそんなわけで、宰相の水面下での工作は、実を結ばなかった。
対して左大臣は、宰相がそんな根回しをしていたと初めて知って、驚く。
「つまり、王が聖女を追放したのは、側室を王妃にしたいがための、強行手段だったというわけですか」
「そう思ってもらってもかまわぬ」
左大臣の言葉に、宰相は肩をすくめて返した。
「なんにせよ、王妃の死は我らにとっても誤算であった。新たな聖女が誕生していたこともな。――そなた、あの元女官が本物の聖女だと、いつから知っておったのだ?」
「王妃が亡くなられたあとです」
左大臣は、正直に答えた。そして、ミリエラから聞かされた夢の話と、王妃がそれを承知の上で彼女を側近としたことを告げる。
それは、宰相にとってもいささか驚く話だったらしい。彼は苦虫を噛んだような顔で、「あの愚か者が……」と呟いた。だがすぐに、元の平静さを取り戻す。
「済んだことは、もうよい。……それで、そなたはあの元女官を逃がして、なんとする? 国を出ては、聖女の役目は果たせぬぞ」
「次代の聖女を必要としている国は、いくらもございますから」
答える左大臣に、宰相も彼の言わんとするところを理解した。
「そなたは国よりも人を取るか」
言って、宰相は再び苦い顔になる。
「いや、私もそなたのことを言えぬな。……まあよい。そなたも、行きたければどこへなりと行くがいい」
軽く手をふる彼に、左大臣は驚いた。
「私や彼女を、見逃すとおっしゃいますか」
「そなたやあの娘を咎め立てたところで、どうなるというのだ? 私が噂を流させた目的は、さっき話したはずだ」
言い募る宰相に、左大臣は彼が本気なのだと理解する。
「国が荒れれば、他の貴族らも黙ってはおりますまい。……民と共に、王やあなたを害しようとするやもしれません」
そんなことは、充分わかった上でのことだろうと思いながらも、左大臣は言った。
「その時は、その時だ。王が心を変えることはなかろう。それに……」
宰相は小さく肩をすくめて続ける。
「王女がまことの聖女となる可能性も、なくはない。元女官の夢の内容から考えるに、聖女に必要なのはなんらかの特殊な力ではなく、気持ち――精神力のようだからな。であれば、生まれながらに聖女として育てられ、懸想することも子を産むこともない女であれば、聖女になり得るやもしれぬ」
「そのような不確かな可能性に掛ける……と?」
意外な思いで問い返す左大臣に、宰相は笑った。
「どうせもたぬのであれば、それも一興であろうが」
その答えに左大臣は、彼は本当に王とこの国と運命を共にする気なのだと悟った。
やがて宰相の元を辞すると、左大臣は妻と息子たちに、国を出る支度をするよう告げる。
行先はむろん、マリーニア。ミリエラが逃れた、妻の故郷たるその国だった。