ミリエラが最後に聖女宮に出向いたのは、もう半月前のことになる。
朝の祈りと朝食のあと、聖女の元に向かったが、まだ眠っていると言われて会わせてもらえなかった。しかたなく自分の部屋で過ごし、昼を過ぎたころにもう一度、聖女に会いに行った。だが今度も昼寝していると告げられ、やはり会うことはかなわなかった。
いったいどういうことかとミリエラが不審に思っていると、かつて同じように王妃に仕えていた比較的仲の良かった女官が囁いた。
「あなたのやったことは、全部バレてる。さっさと逃げるか、自ら宰相様の元へでも出頭した方が、身のためよ」
と。
いったい、なんのことを言われているのか、ミリエラには訳がわからなかった。
そこへ左大臣からの使いに会うため席をはずしていたユーライラが、青ざめた顔で戻って来た。
「ミリエラ様、急ぎ、聖堂へ戻りましょう」
言われてミリエラは、何か左大臣から指示があったのだろうと考え、彼女に伴われて聖堂へと戻って行った。
戻ってからユーライラに聞かされたのは、自分が王妃を呪い殺したという噂が、かなりの範囲に広がっているという事実だった。
「左大臣様からは、しばらく聖堂から出ないようにとのご指示です」
呆然とするミリエラに、ユーライラは言った。
ミリエラにはどうするすべもなく、左大臣の指示どおり、体調が悪いと理由をつけてその日から聖堂に籠った。とりあえず、礼拝堂に行かずとも祈ることはできたので、これまでどおり、朝と夕方と夜に国のために祈りを捧げながら、彼女はこの先どうなるのだろうと、怯えて半月を過ごした。
そんな中、あたりがすっかり暗くなったころ、ビアトリスが聖堂を訪ねて来た。
本来なら聖堂に許可のない者を入れることは許されていないが、そんなことは言っておれず、ミリエラは彼女を中に通すよう言った。
やがて、ミリエラの私室で対峙したビアトリスは、噂がどうやら国中に広まっているらしいことと、おそらく噂を流したのは宰相だろうことを告げた。
「さ、宰相様が、なぜ……」
震える声で尋ねるミリエラに、ビアトリスは続ける。
「おそらく、あなたが本物の聖女だと気づいたのでしょう。……彼の元には、東方から来たという
「わたくしを……排除……」
呆然と呟いて、ミリエラはおそるおそる尋ねた。
「国から、追い出されるのでしょうか」
「いえ……王妃を呪い殺した罪人として、捕らわれ、処刑されるかもしれませんわね」
ビアトリスは少しためらったあと、言った。
たちまちミリエラは、声もなく両手で顔をおおう。
自分は王妃を呪い殺してなどいない。それどころか、王妃の死に強く呆然自失した者の一人だ。
けれど、それを証明する手段が何もないことは、彼女にも理解できた。
一方で、王妃を呪った証拠の品は、簡単にでっち上げることができる。彼女はそのことも、理解していた。
誰かが誰かを呪ったことを証明するためには、呪具や呪物などの証拠となるものを提示する必要がある。たとえば呪う相手の名前を書いた人形や、木の札、土に埋められた動物の首などである。
西方世界全般としては、「呪い」はそこまで一般的ではなかった。
ただ、好きな相手を振り向かせたり、旅の安全や安産などを願ったりするような、いわゆる「まじない」は聖女たちが現れるより以前からある。
そして、エーリカではそれらを応用して「呪い」に転じる方法も、昔からあるにはあった。
歴史的に最も有名なものは、三百年前の王妃争いによるものだろう。
当時はまだ、聖女は王妃ではなく、貴族や王族の娘が王妃の座に就いていた。また、他国の姫が王妃として嫁いで来ることもあったわけだが、この当時も王には隣国アデライドから嫁いで来た妃がいた。一方で、国内の有力貴族の娘も側室に上がっており、彼女たちの間で熾烈な権力争いが起こった結果、王妃が呪い殺されるという惨事が起きた。それは更にアデライドとの争いにまで発展し、国を危うくしたのだった。
その騒ぎのあと、「まじない」を含む「呪い」を徹底的に取り締まる法律と部署が作られたのは、言うまでもない。
だがそれも、昔の話である。
現在では、部署はなくなり、法律自体も形骸化している。
ただ、その当時に確立された呪いを証明する方法などは、現在にも生かされている。
つまり、たとえでっち上げであっても、証拠があれば呪いによる殺人が証明される可能性は高いということだ。
ただ呆然と、両手で顔をおおってしまったミリエラに、ビアトリスは言った。
「あなたには、国を出てもらいます」
「え……!」
ミリエラが、驚いて顔を上げる。それへビアトリスは続けた。
「このまま手をこまねいていればきっと、宰相様はあなたが王妃様を呪い殺した証拠をでっち上げ、あなたを拘束しようとするでしょう。その前に、国を出るのですわ。もちろん、そのための手段はわたくしたちが用意します。ですから、この国を出て、わたくしの祖国マリーニアへ向かいなさい」
「マリーニアへ……」
「そうですわ」
呆然と呟くミリエラに、ビアトリスはうなずいた。
「噂が流れ始めてすぐに、マリーニアの父と国王様に連絡を取りましたの。そのお返事が先日ようやく届いて、あなたを受け入れてもらえることになりました」
言ってビアトリスは更に、とりあえず国境さえ越えてしまえば大丈夫だということ、護衛には自分の三男とその副官をつけるということ、マリーニアの方でも国境まで騎士団と彼女の兄が出迎えに来ることを告げる。最後に彼女は言った。
「宰相様から、王宮へ出向くよう命令があるかもしれません。ですが、それには絶対に応えないでくださいませ。体調不良を理由に、断るのです。もし騎士たちがやって来ても、許可のない者を入れられないということを理由に、門前払いなさいませ。――ユーライラたちも、よろしいですね?」
彼女は、ミリエラの背後に控えるユーライラと二人の女官たちにも念を押す。
そうしてビアトリスが帰ったあと、聖堂内はにわかに慌ただしくなった。
出発は明日の夜とのことで、国内脱出を誰にも気取られてはならないと、夜の間に旅の準備をすることになったためだ。
ちなみに、この旅にはユーライラ以外の二人の女官も同行することになった。
「わたくしたちは、もともとミリエラ様に聖女の儀式などを教えるために、城に呼ばれたのですもの」
「ええ。それに、ここに残されて、宰相様がどう出るかを怯えてくらすなんて、その方がいやです」
二人はそう言って、共に行くことを希望したのだった。
翌日の夜遅く、左大臣の三男アドニアスがミリエラたちを迎えに訪れた。
彼に言われるまま、彼女たちは用意された衣服に着替え、身の回りの品だけを詰めたカバンを手に、迎えの馬車に乗る。
アドニアスの説明では、彼らは旅商人の一行という体で西の国境へ向かうらしい。
御者台には、アドニアスの副官だという中年の男が座っていて、彼が一行の長で商人ということになるという。ユーライラがその妻で、二人の女官はその妹たち。二十代半ばと見えるアドニアスが商人夫婦の息子で、ミリエラはその妻ということになる。
目的地は、隣国アデライドということにした。
西方世界でも東方世界でも、家族を連れて各国を回る旅商人はさほど珍しくはない。なので、怪しまれることはないだろうと、アドニアスはミリエラたちに言ったものだ。
都から出るのは、それほど難しくはなかった。
西の街道へ向かう門でも、咎められることはなく、馬で馬車と並んで進むアドニアスが軽く手をふっただけで、通してくれた。
もしかしたら、左大臣がなんらかの手を回してくれていたのかもしれない。
都から出たあと、アドニアスはミリエラたちに眠るよう言ったが、彼女たちにそんな余裕はとてもなかった。この状況もだが、ミリエラはもちろん、三人の女官たちも国の外に出るのは初めてなのだ。女官たちの方は、聖女の女官を辞めたあとは都を離れて故郷の地へ戻っていたのでまだしも、ミリエラに至っては、都からすら出たことがない。
ビアトリスもアドニアスも大丈夫だと言ってはくれたが、もしも宰相が追っ手を寄こしたら、とか街道で人に見咎められたらと、気が気ではなかった。
それでも疲れていたせいか、ミリエラと女官たちは馬車の中でうとうとと眠り、馬車の振動や止まった気配などで目を覚ましてはまた眠りに引き込まれる時間を過ごした。
やがて、あたりがうっすらと白み始めるころ。
「国境です」
馬で従うアドニアスの低い声が、馬車の外から聞こえた。
ミリエラは、窓の覆いを細く開けて外を伺う。
ほの明かりの中に、紗がかかったように白い靄が薄く流れていて、その向こうに
三百年前には王妃争いのせいで険悪になったアデライドとの仲だが、現在は至って良好で、国境には城壁の類はない。ただ国境であることを示す石の
馬車が近づくにつれ、検問所の建物もはっきりと見えるようになり、建物の門の前に騎士が二人、長槍を手にして立っているのがわかった。
ミリエラは、その姿を目にして体が小さく震え始めるのを感じた。口の中がカラカラに乾いているのもわかる。
「大丈夫ですよ」
隣に座るユーライラが低く言って、彼女の肩をそっと抱いた。
それへ小さくうなずいて、ミリエラはなおも窓の覆いの隙間からじっとそちらを見つめる。
ほどなく馬車は止まり、アドニアスが馬を降りた。御者台の副官もそこから降りて、アドニアスと共に騎士たちの方へと歩いて行く。
彼らはしばらく騎士たちと話していたが、その声は馬車の中までは聞こえなかった。
ややあって、二人が戻って来る。
アドニアスは馬にまたがり、副官も元どおりに御者台に座った。馬車が動き出した。
目の前の門が、騎士たちによって開かれ、片方の騎士の口が「良い旅を」と動くのが見える。
馬車はその横を通って門を抜け、ゆっくりと進んで行く。
しばらく行くと、窓の外がずいぶんと明るくなった。
「もう大丈夫です」
馬を寄せて来たアドニアスが、外から声をかけて来た。
ミリエラは、おそるおそる窓の覆いを開ける。
「眩しい……!」
射し込んで来た朝日に、彼女は思わず顔をしかめた。だがすぐに、窓の外の明るい光景に目を見張る。白く続く街道に、道端の緑が美しく映えていた。
三人の女官も窓の覆いを開け、外に広がる景色に安堵の笑みを見せている。
そんな彼女たちに、アドニアスは告げる。
「昼間は、このまま街道を北西に向かいます。今夜はおそらく、街道筋の町で宿を取ることになると思います」
「マリーニアには、どのくらいで着くのですか?」
ミリエラが問うた。
「およそ半月ほどかかります。アデライドからリュアナ、セレシアナを経由して、マリーニアといった経路になりますからね」
答えてアドニアスは、安心させるように続ける。
「大丈夫ですよ。どの国も、マリーニアとは友好国ですし、宰相様に対しては父上と母上が時間稼ぎをしてくれることになっています。荒事になるようなら、上の兄が動く手はずになっていますし」
それが実際にはどういうことなのか、ミリエラには今一つ理解できなかった。それでも、左大臣たちに全て任せておけということだろうとはわかったので、何も問い返さなかった。
そこから再び馬車は速度を上げた。
日が昇り、光にあふれる街道を、馬車はただひたすらに進んで行くのだった。