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第20話 新しい聖女とエーリカの噂

 5月もすでに半ばを過ぎて、エーリカの都は少しずつ春の盛りから初夏へと移り始めていた。

 4月の末に聖女の代行者となったミリエラは、聖堂と聖女宮を行き来する毎日にもようやく慣れて来たところだった。

 ミリエラは、聖女の女官ではなく「聖女代行」という役付きとなり、聖堂を管理する三人の女官のうちの一人、古語の翻訳を手伝っていた者が、正式にその女官となった。

 また、左大臣はあの会見のおりに行っていたとおり、親のいない彼女の後見人となった。彼女に自分の紋章の入ったブローチやベルトを贈り、自分が後ろ盾であることを周囲に示したのだ。

 それもあって、彼女にやっかみ半分で嫌がらせをしたり、嫌味を言ったりするような者は、表面上はいないようだった。


 ミリエラは、朝の早い刻限に聖堂から聖女宮の礼拝堂に入り、そこで一時間ほど祈りを捧げる。

 そのあとに朝食を取って、聖女である王女に謁見し、一時間から二時間、聖女に祈りの言葉を教えたり、聖堂にある書物について話したりする。

 とはいえ、聖女はまだ生まれて一月にもならない赤子なので、それがどれだけ教育になっているのかは謎ではあった。ただ、そうしたことは、左大臣が宰相と話し合って決めたことだったので、なんらかの政治的、あるいは対外的な意図があるのかもしれなかった。

 そうしたことは、ミリエラにはよくわからなかったが、命じられるままに自分の役目としてこなしている。

 聖女との謁見のあとは、自由時間となる。

 祈りの時間は、朝と午後と夜の三回あって、ミリエラは午後の祈りが終わるまでは、聖女宮にとどまっていた。というのも、聖女との謁見のあとから午後の祈りまでの間に、貴族たちが面会を申し込んで来ることがあったからだ。


 王妃より前の聖女たちのころは、この宮にやって来て聖女に面会するのは、女性や未成年の男女が多かった。彼らは、純粋に聖女との交流を望む者も多く、中には悩みや誰にも言えない秘密を聞いてほしくて訪れる者もいた。

 だが、王妃が聖女となってからは、宰相と政治的つながりを持ちたい者たちや、派閥の者たちが王妃のご機嫌伺いにやって来ることが多くなっていた。

 ただどちらにしても、一部の貴族たちにとって聖女は重要な存在であり、彼女との交流は大事なことと考えられていたのである。


 その日は、面会にやって来た左大臣の奥方のビアトリスと昼食を一緒にすることになっていた。

 聖女代行となったあと、聖女宮にはミリエラのための部屋が用意された。

 部屋といっても、居間や食堂、厨房までついた、平民ならば一家族がそこで暮らせそうな広さのものだ。

 厨房には左大臣がつけてくれた料理人夫婦がいて、朝食と昼食は彼らが作ってくれる。

 この日の昼食も彼らが作ったもので、食堂のテーブルの上には料理が並んでいた。

 エーリカの人々の主食は麦で、食卓にはだいたい食べやすい大きさに切って焼いたバケットが出る。ミリエラとビアトリスの前にはそれぞれ、バターを塗って野菜やハムを乗せ、ソースをかけたバケットの乗った皿が置かれていた。

 それからスープと、ザワークラフトの入った皿と、そしてワインのカップもある。

 ワインは、東方世界からお茶がもたらされるよりずっと以前から、西方世界では飲料としてたしなまれて来たものだ。昼食用に饗されるのは、アルコール度の低いものを温めて砂糖やミルクを入れたものが多い。今テーブルにあるのも、そうしたものだった。

 更にテーブルの中央には、季節の果物の乗った皿が置かれている。


 ビアトリスはこの半月の間、左大臣の名代としてミリエラの様子を見に、よく聖女宮を訪れていた。それもあって、ミリエラも彼女とはずいぶんと打ち解けている。

 今も、目が合うと幸せそうに微笑み返してくれるビアトリスに、ミリエラはゆったりした気持ちで、昼食を楽しんでいた。

「聖女代行のお仕事にも、ずいぶん慣れたようですわね」

 そんな彼女に、ビアトリスが言った。

「はい。全て、左大臣様とビアトリス様のおかげです」

 食事の手を止めてうなずくと、ミリエラは返す。

「そう言ってもらえてうれしいけれど、それはあなたががんばったからよ。わたくしたちの手柄ではないわ」

 ビアトリスはやわらかく笑って言うと、低く吐息をついた。

「それにしても……王様はいつになったら、外に出ていらっしゃるのでしょうね。王妃様が亡くなられてお辛いのはわかりますけれど……父親である宰相様はあんなにお元気ですのに」

「そう……ですね」

 ミリエラは、少しだけ怯えた顔でうなずく。それに気づいてビアトリスは笑った。

「そんな顔をしないでちょうだい。王様も、王女様を聖女として正しく導く者が必要だと言えば、あなたを追い出そうなどとはしませんわ」

「は、はい……」

 ミリエラはうなずいたものの、その面は強張ったままだ。


 彼女の気分をほぐそうと思ったのだろうか。ビアトリスは、中央の皿の中のリンゴを示して言った。

「わたくしの故郷の国では、リンゴを煮て食べますのよ」

「そうなのですか?」

 ミリエラは、驚いて尋ねる。エーリカでも、リンゴを甘く煮てクリームを添えたりすることはあるが、ビアトリスの口ぶりは、それとは違うように聞こえた。

「ええ。わたくしの故郷、マリーニアでは、リンゴは肉や他の野菜と一緒に煮込んで食べますの。リンゴの酸味が肉に合って、とても美味しいのですよ」

 うなずいて、ビアトリスは言う。

 ミリエラも出会った最初のころに、ビアトリスがエーリカより西の小国マリーニアの出身だという話は聞いていた。マリーニアは正確には西方世界の北西部に位置していて、エーリカよりもかなり寒い国らしい。それもあって、煮込んで温かくして食べる料理が主流だとも聞いていた。

「そうなのですね。一度、食べてみたいです」

「あら、そう言ってくださるなら、今度一度うちの晩餐に招待しますわ。あなたならば、きっと夫も招待するのを許してくれるでしょう」

 素直な気持ちを告げるミリエラに、ビアトリスは小さく手を打って言う。対して、ミリエラは少しだけ困った顔になった。

「お気持ちはうれしいのですが……おそらくわたくしは、城の外には出られません。ましてや、後ろ盾とはいえ、特定の方のお屋敷に伺うなど、王様も宰相様もきっと、許してはくださいません」

「ああ……そうでしたわね」

 彼女の言葉に、ビアトリスも小さな吐息をついてうなずく。

 聖女は基本的には、城の自分の住まいから出歩くことは許されていないのだ。以前までは聖女は王妃でもあったので、それなりの権力と自由もあった。だが、ミリエラは王妃でもなく、聖女そのものであるとも認められていない。あくまでも、聖女が赤子であるからこそ許されている「代行者」なのだ。

「でも、いつかはわたくしたちの屋敷にお招きして、わたくしの故郷の料理を食べてもらいたいものですわね」

 ビアトリスは気を取り直したように笑って告げると、食事を再開した。


 昼食と面会が終わり、ビアトリスが帰って行くと、ミリエラは小さく吐息をついた。

 ずいぶんと打ち解けはしたものの、やはり生粋の貴族である彼女と長時間一緒にいるのは気疲れする。ミリエラは、ほんの半月前まで女官だったのだ。平民出身で、城の中でももとは下働きだった彼女は、女官となっても下働きの者たちに命令口調を使うのが苦手だった。王妃に仕えていたころも、誰に対しても下出に出る癖が抜けなかったものだ。

 そんなふうなので、今も他の女官たちから様付けで呼ばれることには慣れなかった。ましてやビアトリスは、生粋の貴族で左大臣の奥方なのだ。気を遣わない方がどうかしているだろう。

「お茶をどうぞ」

 吐息をつく彼女に、聖堂の管理人から彼女付き女官になったユーライラがお茶を入れてくれる。

「ありがとう」

 礼を言って、ミリエラはカップを口に運んだ。ユーライラが入れるお茶はいつもおいしく、彼女を安心させてくれる。今も芳ばしい香りと味に気持ちを和ませながら、ミリエラは椅子の背に身を預けるのだった。


+ + +


 一方、ミリエラの部屋をあとにしたビアトリスは、自分の屋敷へと向かう馬車の中にいた。

 左大臣である夫からは、できるだけミリエラの様子を見て、何かあれば相談に乗ってやってほしいと言われている。それでこうして頻繁に、彼女の元を訪れているわけだった。

 夫が宰相からも、そしてその傀儡となっている王からも疎まれ、敵視されていることは、ビアトリスも理解していた。

 左大臣と宰相は、もともと敵対派閥に属していた。だけでなく、宰相は彼が異国人であるビアトリスを妻としたことで、警戒心を強めていた。

 彼女の祖国マリーニアは小さな国で、西方世界の中では大した影響力は持っていない。また、国の位置もエーリカからは遠く、たとえば何かあった時に即座に軍隊がやって来る、などといったことはない。そもそもビアトリス自身が男爵家の三女で、家も彼女自身もマリーニア国内への影響力はさほどないのだ。

 それらは宰相も知っているはずのことだったが、それでも彼はマリーニアとビアトリスの生家がエーリカに干渉することを警戒しているのだ。

(息子たちが皆、騎士となったことも、それに影響しているのかもしれませんわね……)

 流れて行く窓の外の景色を眺めながら、ビアトリスはふと思った。

 彼女の三人の息子たちは、全員が国の騎士団に所属している。また、一人娘のジャクリーヌも騎士だった。左大臣はもちろん、ビアトリスも文官であるにも関わらず、子供たちは四人とも騎士なのである。

 もちろん、たいていの者はだからといって彼らが謀反を企む可能性など、ほとんど考えはしないだろう。せいぜい、誰も左大臣と同じ政治畑に行く者がないのかと、残念がるぐらいのものだ。

 けれども、宰相はそうした可能性をも考えているのかもしれない。

 もっとも。

(まさかジャクリーヌが、生きて元聖女と共に東方世界にいるとは、思いもしないでしょうけれども)

 ビアトリスは再び胸に呟き、小さく微笑む。


 ジャクリーヌは、エーリカでは追放された聖女のあとを追って死んだことになっている。

 かつて元聖女の偽物が西の果ての国で殺された時、左大臣は細部まで手を抜かなかった。

 宰相には、彼の娘が元聖女と共に旅立ったことを報告してあったし、それがいないとなればこれが自分のたくらみと気づかれるかもしれないと、左大臣は考えた。

 なので、元聖女の死後、護衛をしていた女騎士は主を守れなかったことを悔いて、自死したという噂を流した。

 宰相はそれを信じたのか、その後、護衛の女騎士を探すそぶりはなかった。

 そんなわけで、ジャクリーヌは死んだことになっているのだ。

(わたくしが、再び娘と会うことはあるのでしょうか……)

 窓の外に広がる空を見やって、ビアトリスはふと思った。

 そして彼女は、夫からミリエラについて聞かされた時のことを、思い出す。


 ――聖女はもう戻っては来ないだろう。

 半月前のある日、彼は突然そう言ったのだ。

 理由は、エーリカの新しい聖女が誕生したからだという。

 最初ビアトリスは、王女のことを言っているのかと思った。彼女がそう問うと、夫はかぶりをふった。

「そうではない。正しく、新しい聖女が誕生したのだ」

 言って彼は、ミリエラのことを、彼女の見た夢のことを話してくれた。

 最初の聖女ウルスラの肖像画は、ビアトリスも見たことがあったから、彼の話もすぐに飲み込めた。ウルスラが指名した者ならば、本当に正しく聖女なのだろうとも思った。これで国が荒れることもないと、皆の不安も心配も払拭されるのだとも思った。

 ただ、夫がなぜ自分に旅に出た聖女がもう戻って来ないだろうと告げたのか、その理由もわかってしまった。

 一つの国に、聖女は二人もいらないのだ。

 新しい聖女がいるならば、前の聖女は不要である。

 だから、追放された聖女は戻らず、彼女の護衛として旅立った娘も戻っては来ない。

 彼は、それを告げたのだ。

「そう……ですか。教えてくださって、ありがとう存じます」

 ビアトリスは、話を終えた夫にただ、そう答えた。


 子供たちは騎士――軍人なのだから、任務に出て戻らないことは、あるかもしれない。

 以前から、ビアトリスはそんなふうに自分に言い聞かせて来た。

 だが実際に、娘が未婚のまま、国の外に出て二度と戻らないだろうと聞かされると、胸の奥が重くなるのを感じずにはいられなかった。


 ビアトリスは、窓の外に広がる青空からつと目をそらし、そっと祈るように胸の前で両手を組み合わせるのだった


+ + +


 5月も終わりにさしかかろうというころ。

 エーリカ国内に、不穏な噂が流れた。

「王妃様は、呪い殺されたのだ。そして、呪ったのは、聖女代行を務める元女官である」

 噂は最初、城内の一部の女官たちの間で囁かれていたが、それは次第に官吏や下働きへと広がって行き、官吏の間から貴族たちの間へ、下働きの口から平民の間へと流れて行った。

 そして今や、国中の者たちが、寄ると触るとその噂を口にするようになったのである――。

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