リゼライエは、父のことを「優しい顔のほそっこい男」と言っていた。
だが正直、ルルイエは父がどんな顔をしていたのか、もう覚えていない。
ただ、彼女から話を聞いたその夜、ルルイエは夢を見た。
彼女自身はまだ幼くて、父と母と共に、あの長屋でくらしていたころの夢だ。
季節は、夏だろうか。頭上には真っ青な空が広がり、太陽が強く照りつけていた。
母がルルイエの頭に帽子をかぶせ、手をつないで歩き出した。空いている方の手には、小さなバスケットを提げている。
父は二人の前を歩いていた。背が高く、男性にしては細く、木綿の質素な衣服に身を包んでいる。頭には同じく木綿のターバンを巻いていた。
歩くうち、前方が開けて、ルルイエたちは浜辺に出た。
目の前には遮るものさえない空と海が広がり、日射しはなおも強く照りつける。
前方に目をやれば、父は浜辺を波打ち際の方まで歩いて行こうとしていた。
「お父さん!」
ルルイエは叫んで、母の手を離すとそちらに走り出す。
立ち止まり、こちらを振り返った父の顔は、光に遮られて見えなかった。
ルルイエは、父の傍まで駆け寄ると、その手を取る。だが、父の手は彼女の手からするりと抜け落ちた。そして、その瞬間に目が覚めた。
寝台の上に置き上がり、ルルイエは小さく苦笑する。
(海になんて、行ったこともないのに……おかしいわね)
そう、海になんて行ったことはない。
東方世界の海は、南の方にしかないのだ。
イーリスは東方世界の東の端に、北から中部にかけて広がる国で、南側には高い山がある。山の向こうには別の国が広がっているので、海に行くには、山を越えるかぐるりと山裾を回って南にある国に行き、その国内を南の端まで移動するしかない。
どちらにしても、イーリスの貧民街に住む家族が行ける場所ではなかった。
そもそも、ルルイエが海というものを知ったのは、エーリカに行って聖女としての教育を受けてからのことだ。エーリカでは聖女は王妃でもあったから、国の内外のことや東方世界のことまで、教養として教えられた。その中に、海についてもあったのだ。
(お父さん……)
夢の内容を反芻し、ルルイエはつと胸に呟く。
父の掴めない手は、まるでその人の存在の希薄さを示すもののようだと思う。
明るくまぶしい海の風景は、白昼夢のようでもあった。
(お父さん……)
ルルイエは、もう一度胸の中で父を呼ぶ。だが、母のことを思う時のような懐かしさや慕わしさは、湧き上がって来なかった。
(わたくしにとって、父親がいないことは、ごく普通のことだったのかもしれないわね)
ふと思い、彼女はそのことを少しだけ悲しく思う。
それでも彼女は、ひどい死に方をした父の魂のために祈ってから、再び横になった。今度は夢も見ずに眠れたが、耳の奥にはずっと、なぜか潮騒の音が響き続けていた。
翌日。ルルイエは、どういうわけか動く気になれず、一日部屋でぼんやりとして過ごした。
ジャクリーヌたちは、父親の思いがけない悲惨な死を知ったせいだろうと考え、そっとしておこうと思ったらしい。特別それについて、何か言われることもなかった。
ただ、ルルイエの方は気遣われているのがわかって、少しだけすまない気持ちになっていたけれど。
父の死にまつわる話の衝撃が、残っていなかったとは言わない。とはいえ、この日動く気になれなかったのは、どちらかというと、昨夜の夢のせいかもしれなかった。
その翌日は雨が降り、外に出るには向かないと、やはりルルイエは宿の部屋で過ごした。
ただ、昨日と違い、頭はすっきりしていて、これからどうしようかと考えを巡らせる。
(この国で、ずっとくらす?)
まずは自分にそう尋ねてみたが、返った答えは否だった。
人の命を救ったにも関わらず、魔法使いだという理由で父を処刑した国。そして今も、魔法と魔法使いを忌み嫌い、犯罪者と同じように見る国。ルルイエにはそんな国で、自分が生きていけるとは、思えなかったのだ。
ヘグンが言ったように、もしも聖女が魔力持ちと同じ扱いを受けるならば、その時点で彼女は命の危険にさらされる。というか、すでに子供のころに、魔力持ちではないかという疑いをかけられて、監視の対象になっているのだ。
ルルイエは、その日の夕食の席で、言った。
「明日、ここを出て、アイラへ戻ろうと思います」
「それは、きっと王が喜びます」
ヘグンがホッとしたように返す隣で、ラスも笑顔でうなずく。ジャクリーヌも、安堵した顔つきになった。
「元気が出て、よかったです。……出立の前に、どこかへ立ち寄られますか?」
「リゼおばさんに、もう一度会ってご挨拶したいです。それと、もしできるなら、父の墓にも詣でたいのですが……」
ジャクリーヌの問いに答えて、ルルイエは尋ねるようにヘグンを見やる。
「墓参りの方は、無理だと思われます」
ヘグンはそれへ言った。
「東方世界では、処刑された者は墓を作ってはならない決まりです。そして、イーリスでは魔力持ちや魔法使いも同じ決まりだと聞いています」
「処刑された者たちの遺体は一つ所に集められ、焼かれて灰は川に流されます。東方世界共通の慣習ですから、イーリスも同じだと思われます」
ラスが、ヘグンの言葉を補足するように続ける。
「つまり、墓は存在しないということですか……」
ジャクリーヌが、愕然として返した。ヘグンとラスが、すまなそうに目を伏せてうなずく。
彼らの話に、ルルイエは小さく吐息をついた。
「何から何まで、徹底しているのですね、この国は……」
呟くように言って、彼女は気分を変えるように肩をすくめる。
「なら、しかたありませんね。墓に詣でるのは諦めます。おばさんにだけ、ご挨拶したら、この街を出ましょう」
「わかりました」
ジャクリーヌたち三人が、うなずいた。
翌日。雨は上がり、四人は宿をあとにした。
別れの挨拶のために、再びあの狭い小路にある長屋を訪ねる。
この街を去ることを告げると、リゼライエは笑って訊いた。
「しかたがないね。ここは、あんたにはきっと居心地が良くないだろうからね。だが、行く宛てはあるのかい?」
「いえ」
とりあえずはアイラに行くというのは、さしさわりがあるかもしれないと、ルルイエはかぶりをふって、続けた。
「でも、せっかく東方まで来たのですし、他の国々にも足を延ばして、いろいろ見て回りたいと思います」
それは、嘘偽りのない気持ちだった。
「そうかい。そういうのもいいね。あんたはまだ若いんだ。好きにおやり」
リゼライエは、笑ってうなずく。
その彼女に見送られて、ルルイエたちはイーリスの都を旅立った。仮の宿りである、アイラとの国境を目指して。