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第16話 左大臣と聖女

 4月の終わりごろ。ミリエラは、左大臣と会った。

 日時と場所は、件の女官が設定したものだ。

 刻限は、朝の9時。場所は、今は使われていない小宮だ。


 時刻は、女官が左大臣の仕事の手が空く時間帯を考慮したものだろう。

 大臣たちの始業は早朝で、6時には朝の会議が始まる。通常でもそれが1時間程度は続き、そのあと朝の引見と呼ばれる王の謁見とその立ち合いがある。今はこの朝の引見は代理で宰相が行っているが、どちらにせよ、大臣たちは立ち会う必要があった。そしてこれも、1時間程度はかかるもので、そのあとに朝食と休憩が1時間ほどある。

 これらのあと、9時以降、大臣たちはそれぞれ個別の仕事をこなすことになるのだった。

 多くは机に向かう書類仕事で、適宜休憩を取りながら3時間程度の執務を行う。

 午後からは大臣たちの多くは、執務を官吏に任せて自宅に戻ったり、他の大臣らや貴族、あるいは市井へ出て平民の商人らと交流を持ったりして過ごす者が多かった。

 なので、午後からの方が自由が利くといえばそうだったが、上位の大臣が城内に残っているのは怪しまれる原因にもなった。

 それもあって女官は、執務に入る直前の時間を選んだのだろう。

 場所もまた絶妙で、その小宮は聖堂と、今は聖女宮と呼ばれるようになった王妃宮とのちょうど中間地点にある。にも関わらず、使われていないことから庭などの手入れが行き届かず、外からは中に人がいても見られにくいという利点があった。むろん、聖堂に許可のない人間を入れられない点を考慮したためもあっただろう。が、そこは人に知られずに会うための場所としては、とても適していた。


 とはいえ、そうしたお膳立てがあっても、ミリエラは不安だった。

 最初に女官から話を聞かされた時には、仰天してすぐにも城から逃げ出すことを考えたほどだ。

 それに対して女官は、左大臣が宰相とは別の派閥の貴族であること、聖女に対しても以前から気を配ってくれていたこと、彼の娘がルルイエの護衛騎士であり、追放された時にも同行したことなどを告げて、彼と会うよう説得した。

 結局、城から出られない以上は後ろ盾を得るしかないと納得し、ミリエラは左大臣と会うことを承知した。そして迎えた今日である。


 女官が整えた小部屋で、挨拶を交わしたあと、二人は古い木のテーブルを挟んで向かい合って座った。

 ミリエラは、顔を上げるのが怖くて俯いたまま、膝の上で両手を強く握り合わせる。

 左大臣の姿は、王妃の側近女官となってから、時おり宰相や右大臣と共に王妃宮へ来た姿を盗み見る程度だった。実際にどういう人なのかは先日、聖堂の女官から聞かされて初めて知った。

 そんな彼女に、左大臣が口を開いた。

「まずは、会ってくれたことに礼を言う。ありがとう、ミリエラ」

「あ……いえ……」

 まさか礼を言われるとは思わず、ミリエラは俯いたまま、慌ててかぶりをふった。それへ、左大臣は続ける。

「さて、今日の用件だが……率直に言おう。ミリエラ、私と共に聖女として来てはくれないだろうか」

「え……!」

 直截な言葉に、ミリエラは思わず顔を上げた。それへたたみかけるように、左大臣は告げる。

「今の我が国に必要なのは、ちゃんと祈りを捧げて国に実りをもたらすことのできる聖女なのだ。だから、私と共に来て、聖女として国のために祈りを捧げてほしい」

「そ、それは……」

 しばし答えに詰まったあと、ミリエラはふるふると首をふった。

「それは、できません……! 聖女は王女様です。わたくしは、聖女として認められてはおりません。ただの、王妃様の、聖女の代行者です……!」

 悲痛な声で叫んで、彼女は再び俯いてしまう。

「ミリエラ……」

 そんな彼女を見やって、左大臣は痛ましげに顔をゆがめた。

「王や宰相が怖いのだな。だが、このままでは我が国はいずれ荒れ果ててゆくだろう。そもそも予言がどこまで正しいかもわからぬし、たとえそれが正しかったにせよ、赤子の王女には何もできぬ。あの王女が、聖女として祈ることができるようになるには、最低でも2年、いや3年は必要だろう。それとても、幼子が形ばかり祈って、本当に国に実りをもたらすことができるのかはわからぬ。しかしそなたならば、今すぐにでも、聖女として祈り、国の荒廃を止められるはずだ」

「それは……」

 切々と訴えられて、ミリエラは唇を噛む。

 ややあって、彼女は小さくかぶりをふった。

「わたくしに、本当にそんな力があるかどうかは、わかりません。わたくしも、ただ教えられたとおりにやっているだけです。もうこの国に、先代から正しい導きを受け、聖女がどういうものか何をすればいいのかを知る者は、おりません。ですから、わたくしが祈っても、国は荒れて行くだけかもしれません」

「だが、夢を見たのだろう? 夢の中で新たな聖女だと啓示を受けたと聞いたぞ」

「はい。でも……」

 左大臣に問われて、ミリエラは再び唇を噛む。

「夢に出て来た女が、何者なのかもわかりません。あれは、人をたぶらかす魔物だったのかも……」

「そなたに啓示を与えたのは、女だったのか。どのような者だったのだ?」

 左大臣は、夢の内容に興味を持ったのか、問うて来た。

 それで、ミリエラは答える。

「白い髪と白い肌をして、黒いドレスに身を包んだ女でした。黒いヴェールで隠れていて顔は見えませんでしたが……まるで女王様のような、尊大な物言いをなさる方でした」


 彼女の答えに、左大臣は一瞬、眉根を寄せて考え込んだ。

 その脳裏に浮かんだのは、昔どこかで見た肖像画だった。

 あれは、どこで見たのだったか……と考え、思い出す。

(そうだ。王妃宮だ。……王妃宮のエントランスにあった肖像画だ)

 そう、ルルイエの前の代の聖女が王妃だったころ、王妃宮のエントランスの一番目につく場所に、大きな肖像画が飾られていた。

 白い髪を長く伸ばし、黒いドレスに身を包んだ女は、最初の聖女であるウルスラだと説明された。

 ウルスラの出身は大国アルベヒライカだったが、西方世界ではどの国でも聖女の住まいにはかならず彼女の肖像画が飾られているのだそうだ。その例に漏れず、エーリカでも聖女の住居である王妃宮に飾られていた。

 いや、そのはずだったが。

(そういえば、亡くなられた王妃が宮に移ったあと、肖像画を見なくなった……)

 思い出して、左大臣は胸に呟く。

 もとより王妃宮は、頻繁に大臣らが出向くような場所ではない。

 後宮の内にあり、聖女の住まいでもあることから、男性の出入りはあまり喜ばれず、大臣らも大抵は自らの妻や娘を通してやりとりする者が多かった。公に使者を送る場合も、使者は女官か成人前の男児にさせるのが普通だった。

 以前は左大臣もそうした慣習にならっていたので、王妃宮にはさほど多く出向いたことがなかったのだ。それもあって、肖像画のことも、今の今まで気づかず、思い出しもしなかった。

 ちなみに、宰相の娘が王妃になってからは、宰相をはじめとする派閥の大臣らが頻繁に出入りするようになった。また、王の公式訪問の際には、宰相と共に右大臣、左大臣が同行するようにもなった。ミリエラが左大臣を見かけたのは、そうした訪問の際のことだろう。

 だがなんにせよ、左大臣はこれで、ミリエラが本当に聖女だという確信が持てたと思った。

「その女はおそらく、最初の聖女ウルスラだ」

 彼は、ミリエラに告げる。


 それを聞いて、ミリエラは弾かれたように顔を上げた。

 ウルスラのことは、ミリエラでも知っている。

 西方世界に最初に現れた聖女。そして、大国アルベヒライカの王と周囲の国々を動かして、街道を造り、その街道にまで聖女の祈りと実りを届けた女性。西方世界の聖女の礎を築いた人物だ。

「あの方が……ウルスラ様……」

 低く呟き、両手で口元をおおう。

 夢でとはいえ、そんな崇高な者と相対したことと、自分が本当に聖女に選ばれてしまったのだということに対する畏れと。その両方が、今更のように足元から全身に這い上がって来る。

 震えが止まらなかった。

「わ、わたくしは……どうすれば……」

 自分で自分の肩を抱き、震えを抑えようとしながら、ミリエラは呟く。

 エーリカの都の路地裏で生まれ育った自分が、城の女官にまでなったことさえ望外の幸運だと思っていた。なのに、聖女だなどとは、恐れ多すぎるし、荷が勝ちすぎる。


 左大臣は、そんな彼女をいささか哀れに思いながら、見やった。

 彼女に何も後ろ盾がないことは、会見前に調べてわかっていた。平民の出で、伝手を頼って城に勤め始め、最初は洗濯場の下働きだったことも、知っている。

 そんな娘にとっては、自分が聖女になるなど、考えられないことかもしれない。ましてや今は、誰も聖女を導く者がいないのだ。

(せめて、ルルイエ様が西方世界を出られる前ならばな……)

 左大臣はふと、年が変わる前に娘から届いた最後の書簡を思い出して、胸に呟く。

 エーリカ内では彼だけが聖女の生存を知っているわけだが、連絡のつけようがないのは同じだった。娘と聖女が今、東方世界のどこを旅しているのかは、彼にも知りようがない。また、下手に動いて宰相に聖女が生きていることを知られるわけにもいかなかった。

 だがなんにせよ、ミリエラに聖女として名乗りを上げてもらう以外ない。

 なにより、彼女は「本物」なのだ。少なくとも、東方から来たまじない師の予言よりも、彼女の夢に現れたウルスラの方が、彼にとっては――いや、西方世界の者にとっては信じられる。

(だが、それを言っても、宰相は受け入れはすまい)

 左大臣は、再び胸に呟いた。

 聖女について何も教えられていない王に、誤った知識を植え付け、娘を王妃に据えて王の外戚にまで収まった男だ。娘が亡くなったのは誤算だったかもしれないが、王太子と聖女の祖父であることは、宰相にとってはけして手放したくない強みだろう。

 そこに「本物の聖女」が現れれば、誰もが懸念するとおり、その聖女を亡き者にしようとするに違いない。だが、国のためにも、けしてそれをさせるわけにはいかなかった。


 左大臣は、あれこれと考えを巡らせ、口を開く。

「ミリエラ、そなたが本物の聖女であることは、よくわかった。だが……それは諸刃の剣だ。そなたが何者かを知れば、そなたを亡き者にしようと考える者は、かならず出て来よう。だから、こうしようではないか。そなたは、王妃がおいでだった時と同じく、その代行を務めるのだ」

「え……」

 ミリエラは、驚いて目を見開き、そちらを見やった。

 それへ左大臣は安心させるように、笑いかける。

「聖女ではない。聖女の代行だ。王女が赤子にすぎないことは、いかに宰相とてどうにもできぬ。ゆえに、そなたがかわりに祈り、学ぶのだ。そなたは新年のおり、身重の王妃にかわって見事に聖女の役割を務めた。また、その役割にそなたがふさわしいと認めたのは、聖女だった王妃や王や宰相だ。であれば今、赤子の聖女のかわりに祈る役割にもふさわしいということだ」

 一旦口を閉じると、左大臣は改めてミリエラを見やった。

「そのあたりの交渉は、私がやろう。おそらく、宰相は否やとは言わぬはずだ。……それと、そなたの後ろ盾には、私がなろう。そなたをあの聖堂から引きずり出したのは、私だ。ならば、それぐらいはせねばな」

 ミリエラは、彼の言葉を目を見開いたまま、聞いていた。

 だがやがて、うなずく。

 彼女にも、それが最良だとわかったからだ。

 自分が聖女だなどと、恐れ多いし、荷が勝ちすぎる。その気持ちは今も変わらなかったし、この先への不安や恐怖は変わらずある。それでもおそらく、聖堂にずっと隠れてはいられないことも理解できたし、宰相や王に自分が聖女だと知られれば、殺されるに違いないこともわかっていた。

 聖女の力は、祈ることで国に実りをもたらす以外は、何もない。

 かつて王がそれを理由にルルイエを追い出したように、聖女には病人を回復させたり、海水を真水に変えたりするような、奇跡的な力はないのだ。それはつまり、聖女になってもミリエラはただの女にすぎないということだった。幼いころはすばしこい足を持っていた彼女も、今はごく普通の運動能力しか持たなかったし、剣や弓などを使えるわけでもない。

 誰かに庇護され、同時に権力者たちに自分は無害だと主張する、それしか己の命を守るすべはないのだ。

「承知いたしました。わたくしは、左大臣様に従います。ただ、住まいは今までどおり、聖堂に置いていただけるよう、お願いいたします」

 彼女は震えながら、そう承諾の言葉と共に願いを口にする。

 さすがに、聖女宮でずっとくらすのは、生きた心地がしないと思ったのだ。

「わかった。それも、交渉してみよう」

 左大臣が、うなずく。


 数日後。

 聖堂を、宰相の使者と共に訪れた左大臣は、ミリエラが正式に聖女の代行者として認められたことを告げた。

 そしてその日から、彼女の聖堂と聖女宮を行き来する生活は始まったのだった。

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