王妃に聖女の仕事をするよう命じられた日から、ミリエラは王妃の側近女官となった。
王妃が王妃宮の礼拝堂で聖女として祈るおり、他の女官たちは全て退けられるが、ミリエラだけは共に礼拝堂に入ることを許された。
また、王妃宮の庭園の隅に位置する古びた聖堂の書庫に、聖女に関するさまざまな書物があることが判明したが、王妃の女官たちの中でその書物に触れることを許されたのは、ミリエラだけだった。
ちなみに、聖堂と書庫の管理には、年の終わりと始めの儀式をミリエラに教えるために呼ばれた聖女の元女官らの中から、三人が選ばれ、常駐することになった。
こうして、何も知らない者の目からは、ミリエラは王妃の寵愛を受けて一気に昇進した、幸運な女官と見えた。
だが実際は。
聖堂の小部屋で、テーブルの上に積み上げられた書物の小山を見やり、ミリエラは小さく吐息をつく。
あの日以来、彼女の日常は、読書と祈りと緊張の日々となった。
王妃の命令で、女官としての業務のいくつかは免除となり、かわりに彼女はこの聖堂で書庫の聖女に関する書物を読んで、聖女としての仕事に精通するよう命じられた。
「わ、わたくしはあくまでも王妃様の代わりにすぎません。……聖女の仕事は、王妃様も覚えられた方が……」
勇気をふり絞って、そう進言してみたものの「あら。わたくしはどちらにしても、中継ぎにすぎないわ。聖女の仕事はおまえが覚えて、必要な時にだけわたくしに教えてくれればよくてよ」と言われてしまった。
(夢の話を、しなければよかったのかしら……)
ミリエラは胸に呟き、つと窓の外を見やる。
このところ曇天が続いていて、まだ夕方には程遠い刻限にも関わらず、外は薄暗く、時々ちらちらと白いものが舞っているのが見えた。
その風景は、なんとなく夢で見た街の景色を思い出させ、ミリエラを不安な心持にさせる。
彼女はもう一度吐息をついて、さっきまで読んでいた書物のページに視線を戻した。
書物は古いものから新しいものまでさまざまで、中には難解な昔の言葉で書かれていて、ミリエラには読めないものもあった。また、祈りの言葉の中には、まったく意味のわからないものもある。
聖堂の管理を任された三人の女官のうち、一人は古い言葉にも堪能だったので、ミリエラは彼女からそれらを教わりながら、読書を進めていた。
読んだ書物の内容は、報告するように王妃からは言われている。
それでミリエラは、王妃が床に就く前のわずかな時間に、他の女官らを排した王妃の寝室で報告を行う。だが、王妃は実際には書物の内容にあまり関心がないようで、いつも彼女の報告をあくび混じりに聞くのだった。
書物の内容は、聖女が行う日々の祈りや食べ物、薬草などに関することから、西方世界とエーリカの歴史を記したものまで、さまざまだった。
「聖女とは、ただ祈ればよいだけのものではないのですね……」
ある日の聖堂で、管理の女官の一人に古い言葉を教わっていたミリエラは、ふと漏らした。
「そうですね。わたくしどもも、長年聖女様にお仕えして参りましたが、こうした書物の存在は知りませんでしたから、驚きました」
女官はそれへうなずき、そして小さく微笑む。
「それにしても、城から使者が来た時には驚きましたが……こうしてまた聖女様に関わることができて、うれしゅうございますよ」
「わたくしは、本当の聖女では……」
ない、と言いかけるミリエラに、女官は小さくかぶりをふった。
「それでもよいのです。少なくとも、先代様の決めた聖女をわけのわからない理由で追い出しておいて、己の役目のなんたるかを理解していない王妃様よりは、勉強しようという意志のあるあなたの方が、よほど聖女に近いとわたくしには思えますからね」
「……ありがとう存じます」
ミリエラは、少しだけうれしくなって、それへ礼を言った。
そんな日々の中、ミリエラは奇妙なことに気づいた。
年の終わりと始めの儀式より前のことを、思い出せないことがあるのだ。
最初は、他の女官と話していて、相手の言う出来事に覚えがなく、首をかしげる程度だった。
だが、次第にそれはひどくなって行った。
王妃付きになる前どこの宮にいたのかが、思い出せなかったり、城に来る前に働いていた商家の名前も主たちの顔も思い出せなくなっていたりした。
決定的だったのは、久しぶりにかつて上役だった女官に会った時だった。
相手は、彼女が城に勤め始めて最初に配属された洗濯場の監督官だったという。そもそもミリエラは、商人であるその女官の親族の伝手で、城に勤められるようになったのだ。漠然とそんな記憶はあるのに、女官が何くれと自分を気遣ってくれたことなどは、まったく覚えていない。
それでも必死に相手に話を合わせて、ようやく別れたあと、彼女は愕然としたものだ。
(いったい、わたくしに何が起こっているの?)
得体の知れない恐怖に包まれ、彼女はたまらなくなって、古い言葉に堪能な例の女官に事情を話した。
女官はしばし考えたあと、言った。
「それはあなたが、本当に聖女になろうとしているからかもしれません。……先代様もまだその前の方が生きていていろいろ教わっていたおりに、昔のことが思い出せなくて困ったことがある、と言っていたことがございます」
そして、女官は「失礼します」と断ってから、そっとミリエラの肩に腕を回した。
「え? あの……」
戸惑うミリエラに、女官は告げる。
「先代様はそのおり、当代の聖女様からこのように抱きしめていただいて、慰められたそうです。そして、そのあとから、また昔のことを思い出せるようになったとか」
「そ、そうなのですか……」
戸惑いつつもうなずいて、ミリエラはふいにその腕のぬくもりに気づいた。
(温かい……)
思わず胸に呟き、目を閉じる。
身寄りのない彼女には、ものごころついた時にはもう、こうして抱きしめてくれる父も母もいなかった。貧民街の路地裏の、ゴミ溜めのような所で育ち、残飯を漁ってどうにか生き延びて来たのだ。
今になってみれば、よくもこんな場所にたどり着けたものだと思う。
(わたくしはただ、運が良かっただけだわ……)
子供のころをふり返る時、彼女はそう思わずにはいられない。
あの場所では、たいていの子供は路地裏を取り仕切る組織の下っ端として、盗みや詐欺を生業とする。見目好い男女は酒場や遊郭に売られ、そこで春をひさぐ。
だが、食べ物が足らずやせ細って、実際の年よりも幼く見えたミリエラは、そこではいずれ飢えて死ぬだろうボロ雑巾と見なされていた。だから盗みや詐欺を強要されることも、どこかに売られることもなく、毎日をただそこで生きていた。
彼女に残飯を漁る以外の生きる道を教えてくれたのは、小さな料理屋の女将だった。
女将が落とした財布を拾ってやったのが、きっかけだった。女将は彼女が財布を盗ろうとしなかったことに感激し、礼だと言って食べ物をくれた。
それを食べる間、彼女は女将にいろいろ訊かれ、それに答えていたら、食べ終わった時には女将の店で下働きをすることになっていた。
女将の家は、一階が料理屋で二階が女将の住居になっており、その上に狭い屋根裏部屋があった。
ミリエラはその屋根裏部屋で寝起きしていいことになったのだ。
最初の日、ミリエラは体を洗われ、髪を梳かされ、古くはあるが清潔な年相応の女の子の服を着せられ、その屋根裏部屋に連れて行かれた。
屋根裏部屋には、古い寝台が一つと、古い衣類の詰まったタンスが一つあるきりだったが、当時のミリエラにとっては充分すぎるほどに贅沢な部屋と映ったものだった。
翌日からミリエラは、朝早くから夜遅くまで、料理屋の下働きとして働くようになった。
最初は掃除の仕方もろくに知らず、全て一から女将に教わらなければならない始末だったけれど。それでも、子供の吸収の早さでもって彼女は、一月もすると下働きとしての仕事はひととおりこなせるようになっていた。
それから彼女はその料理屋で、女将が病を患って亡くなるまでの五年近くを、下働きとして過ごしたのだ。
女将は息子と二人で店を切り盛りしていたが、本当はもう一人娘がいて、屋根裏部屋のタンスの中にあった古い衣類は、その娘のものだったのだとミリエラが知ったのは、女将が亡くなったあとのことだった。
死んだ娘と重ねていたわけではないだろうが、女将はミリエラにずいぶんと良くしてくれた。
読み書きや計算を教えてくれたのも、彼女だ。
女将が亡くなったあと、息子は店をたたんで他の街へ行くと言った。
すでに息子には妻も子供もいたので、血縁でもないミリエラが一緒に行くことはできない。「わかりました」とうなずく彼女に、息子は女将の知人だったという男の店を紹介してくれた。
そこでミリエラは、男が営む呉服屋で働くことになったのだが――ここの客の一人に妾になれと、さんざん言い寄られ、逃れるために城で働く道を選んだというわけだ。
つまり、この呉服屋の主が、先日久しぶりに顔を合わせた女官の親族だったのだ。
幸いだったのは、呉服屋の主が彼女に同情的で、言い寄る客から逃れる方法を共に考えてくれたことだった。その過程で、「城の中ならば、そう簡単に追って来られないだろう。私に伝手があるから、城で働けるように頼んでみよう」となったわけだ。
そうした過去をつらつらと思い出し、懐かしい人々の顔を思い出すうちに、ミリエラはどこか虫食いだらけの衣類のようだった記憶が、ゆるりと戻って来るのを感じた。
「ありがとう存じます。……失われたものが、戻って来たような気がします」
目を開けて言う彼女に、女官はそっと身を離して微笑む。
「それはよかったこと。……では、もう少し先まで読み進めましょうか」
「はい」
ミリエラはうなずく。そして、開いた書物のページに目を落とすのだった。