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第11話 エーリカの新たな聖女

 エーリカの城の一画にある時計塔の鐘が、朝の四時を告げる。

 その音に、娘は小さく肩をふるわせ、顔を上げた。

 体は固く強張り、胸元で組み合わせた両手は、なかなか離れようとはしなかった。

 そこは、王妃宮の一画に造られた聖女のための礼拝堂である。

 だが、娘は聖女――ルルイエが追放されたあと、王の妃となり聖女となった宰相の娘ではなかった。娘は、王妃に仕える女官たちの一人で、名をミリエラという。

「ミリエラ、休憩の時間です」

 鐘が鳴り終えるのとほぼ同時に、女官が二人、部屋を訪れ告げた。

 ミリエラは小さくうなずき、ようやく組み合わせた手をほどく。

 小さく吐息をつく彼女に、女官の一人が盆に載せた器を差し出した。器の中身は、ほとんど具のないスープだ。それでも、温かいことがありがたく、ミリエラは器を手にした。


 年の終わりと始めに聖女が祈りを捧げる――という話を、最初に王に奏上したのは、左大臣だった。

 それはこれまで、毎年行われて来たもので、実際の儀式の内容はともかく、それが聖女の大切な役目であるということは、ある程度の地位にある貴族なら皆知っていることだった。

 だが、今年は例年とは勝手が違う。

 先代が認めた聖女は役立たずとして追放され、何やら怪しげな予言の元に、王の側室だった女が王妃となり、聖女となった。

 彼女が宰相の娘だったため、誰も大きな声では言わないが、実のところ、本当に彼女が聖女の役目を全うできるのか、皆は不安に思っていた。

 なぜなら、聖女が追放された時、彼女はまだ王妃でも聖女でもなく、だから何もその役割について教わっていなかったからだ。

 左大臣をはじめ、幾人かの大臣らが、王や宰相にせめて聖女に仕えていた者を彼女の傍に置くよう進言した。聖女に仕えていた女官ならば、多少は聖女が毎日行っていた祈りなどについて知っているはずだと、彼らは考えたのだ。

 だが、王も宰相もその進言に耳を貸さなかった。

 王は、「役立たずの聖女に仕えていた者など、役に立つはずがない」と考えていたし、宰相は「彼女たちは自分や娘を恨んでいて、危害を加える可能性がある」と思っていたからだ。


 だが、左大臣の奏上には国中の大臣らのほぼ全てが賛同した。

 宰相の派閥の者たちでさえ、聖女がいなければ国が荒れるという話を信じており、年の終わりと始めの祈りを大切なものと考えていたためだ。

 これには王も宰相も、折れるしかなかった。

 ただ、王妃自身は難色を示した。

 というのも彼女は身重である上に、つわりがひどく、とてものことに真冬の二日間にわたる儀式に耐えられそうになかったからだ。これには医師も同意を示し、赤子と母体の無事を優先するなら、儀式はやめる方が良いと、王と宰相に告げた。

 そんな中、宰相お抱えの東方のまじない師が提案したのが、王妃の女官たちの中から代理を立てることだったのだ。

 代理は、王妃と同じ髪と目の色の、近い年頃の娘であることを条件に選ばれた。

 その条件に当てはまる王妃付きの女官は、実際にはミリエラを含めて三人いたが、一人は宰相の甥の娘で、もう一人は宰相が懇意にしている商人の娘だった。一方ミリエラは、身寄りがなくて生きて行くため幼いころに城に上がり、貴族らの覚えが良かったために運良く女官になった娘だった。つまり、何か問題が起きても、簡単に切り捨てることが可能な者だったわけだ。


 ミリエラに儀式について教えるために、先代聖女に仕えていた年嵩の女官たちが呼び寄せられた。

 彼女たちは、自分たちが知る限りの儀式の内容をミリエラに教え、ミリエラもまたそれを必死に覚えた。そうして迎えた年の終わりと始めである。


 祈りの間は、聖女はなるべく食物を口にしてはならないとて、薄いスープでわずかに腹を満たすと、ミリエラはしばしの休息に入った。

 礼拝堂の隣にある小さな一室で、彼女はソファの上に横たわった。

 慣れないことの連続で、疲れていたのだろうか。彼女はそのままうとうとと眠りに落ちた。


 その眠りの中でミリエラは、夢を見た。

 夢の中で彼女は、城の鐘楼に立って街を見下ろしていた。

 夜なのだろうか、それとも明け方だろうか。

 あたりはぼんやりとした光に包まれており、通りも立ち並ぶ建物の屋根も全てが白く見えた。

 そして、街のどこにも人の姿はない。

(誰もいない街……)

 ミリエラは、ふと胸に呟いて、背筋が寒くなるのを感じた。

 と、ふいに背後に人の気配が立つ。

 彼女は驚いて、ふり返った。

 そこには、黒いドレスをまとった女が一人、立っていた。白い長い髪が風になびいているのが見えるが、顔は黒いヴェールにおおわれていて、見えなかった。

「エーリカの新たな聖女よ。己が役目を全うしたくば、聖堂の書庫へ行け。そこに、汝が必要とするものがあるはずぞ」

 女は低く囁くような声で告げる。

「わ、わたくしは、聖女ではありません……」

 ミリエラは、震える声でそれへ返した。

「では、なぜ汝はここにおる? まことの聖女はどこじゃ?」

「わたくしは……聖女である王妃様の代理に、祈る役目を任された者です。王妃様は、ご自分のお部屋に……。今は身重で、祈りの役目はとても無理だと……」

 女の問いに、ミリエラはたどたどしく答える。

 途端に、女は嘲笑うように鼻を鳴らした。

「身重の女が聖女とは、笑止なことよ。国と民のためにひたすら身心を削って祈らねばならぬ身が、子供とはの。おそらくその女は、身も心も国と民に尽くすことはできまいぞ。母となり妻となった者の心は、我が子と夫のことで一杯じゃ。それ以外の者の入る隙間などなくなろう」

「それは……」

 ミリエラは、言葉に詰まる。

 実のところ、彼女にはそれに抗弁するだけの材料はなかった。

 若い彼女には、これまでの聖女たちがどれだけ身と心を削って国のために祈って来たか知るよしもなかったし、想像もできなかったからだ。一方で、今のあの王妃が、いずれ生まれて来る子や夫である王と、国や民のどちらを取るかなど、彼女には判断がつかなかった。

 そんな彼女に、女はずいっと歩み寄った。

「エーリカの新たな聖女は、汝であろう。……それがいやじゃと言うなら、汝が新たな聖女を見つけるか、先の聖女を連れ戻すことぞ」

「そ、そのようなこと……!」

 思わず一歩下がって、ミリエラはかぶりをふる。ただの女官にすぎない自分に、そんなことができるはずがない。

 女はしかし、彼女の手首をつかむと言った。

「国より民より大事なものを持つ者など、聖女とは言えぬ。そして、聖女の不在が続けば、国の実りは失われる。それがこの世界のことわりじゃ。それをしかと覚えておくがよい」

「は、離して!」

 その冷たさにぞっとして、ミリエラは思わず叫んで女の手をふりほどく。

 反動で、彼女自身がたたらを踏んで後ろに下がった。と思った瞬間、足元がもろく崩れ落ちて行く。

「きゃっ!」

 悲鳴を上げて、彼女は必死に何かつかまるものはないかと、手を伸ばした。


 そこで彼女は、目覚めた。

 体は汗でじっとりと濡れており、背中から嫌な寒気が襲って来た。

 実のところミリエラは、そのあと自分がどうやってその日一日を過ごしたのか、はっきりと覚えてはいなかった。

 なので、儀式が滞りなく終わり、用意された部屋に戻った時には疲れ切っており、最後の沐浴が終わると、彼女は泥のような眠りに落ちた。


 ミリエラが王妃に夢の内容を話したのは、それから一週間後のことだった。

 すぐに話さなかったのは、話したところで信じてもらえるのか、信じてもらえたとしても不敬だと言われて処分されたりしないだろうかと、さんざん悩んだからだ。

 それでも話す決心がついたのは、夢の女が「聖女の不在が続けば、国の実りは失われる」と言ったのを覚えていたからだ。それは西方世界では子供でも知る事実だったし、これまでは宰相の権力を恐れて誰も口にしなかっただけで、実際は誰もが不安に思っていたことでもあったのだ。

 王妃は、つっかえつっかえ話すミリエラの言葉を全て黙って聞いたあと、しばらく考え、言った。

「このあとも、ミリエラ。おまえが聖女の仕事をやりなさい」

「え?」

 ミリエラは、驚いて伏せていた顔を上げる。

 王妃はそれへ続けた。

「その女の言うとおり、この子たちが生まれれば、わたくしはそちらにかかり切りになってしまうわ。乳母はつけるけれど、それに任せきりにするつもりはないもの。……そういう意味では、聖女の仕事をかわりにやってくれる者がいた方がいいわ。ただし――」

 王妃は言葉を切って、つと立ち上がるとミリエラの傍に歩み寄った。床に膝をつき、ミリエラの顔を頬を寄せるかのように、近々と覗き込む。

「聖女はわたくしよ。おまえはあくまでも、わたくしの代わり。いいわね。これは、わたくしとおまえの秘密よ」

「は、はい……」

 爛々と光る緑の目に見据えられ、ミリエラはただうなずくことしかできなかった。


 こうしてエーリカには、公にされることもなく王妃でもない、新たな聖女が誕生したのである。

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