目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第10話 年明け

 空からひらり、はらりと落ちて来るそれを、ルルイエは思わず手を広げて受け止めた。

 けれどそれは、手のひらに触れると、たちまち溶けて消えて行く。

(冷たい……)

 手のひらにわずかに残る感触に、そっと胸に呟き、彼女は空を見上げた。

 空はまだ暗く、吐く息は白い。


 西暦1025年の最初の日を、彼女はミルカからイーリスへと向かう途中の小さな町で迎えた。

 宿の一室で、中途覚醒してしまい、眠れないまま寝台を出て、宿の屋上へと出て来た。

 西方世界ではあまり見られないが、東方世界の宿には屋上がある所が多い。そこでは、雨期が始まる前とあとや、祭の日などに、特設の居酒屋が造られるのだという。

 この宿でも、新年にはここで特別な宴が開かれるというが、夜明け前だからか今は人の姿はない。

「なんだか不思議ね……」

 ルルイエは、改めてあたりを見回しながら、ふと呟いた。

「去年の新年には、わたくしはエーリカの城にいたのに……」

 そうなのだ。彼女が国を出てから、まだ一年も過ぎてはいないのだった。


 前年の西暦1024年の新年には、ルルイエはエーリカの城にいた。

 聖女は一年の最後の日は、早朝から禊を行い、最後の一日が無事に終わるように終日祈る。それから新年の訪れと共に再び禊を行い、今度は新たな年の実りや国の安泰、民の平穏などを祈るのだ。

 もちろん、聖女は国のために毎日祈りはするが、年の終わりと始めの祈りは最も大切なものとされており、国の新しい一年がどんな年になるかを決めるとも言われていた。

 ルルイエは、先代聖女だった伯母から聖女を受け継いで以来、毎年、精魂込めて祈って来た。国のため、民のため、豊かなエーリカの実りを失わないために、ただ一心に。

(……王妃となったあの方は、年の終わりと始めの祈りを、誰かに教えられただろうか……)

 ルルイエは、ふと左大臣からの手紙にあった、王の側室が王妃になり、聖女となったことを思い出して、胸に呟いた。

 宰相の娘であるその人と、ルルイエは直接話したことはなかった。

 聖女は、エーリカでは王妃であるとはいえ、聖女の役割の方が大きかったし、そもそもルルイエはまだ正式に王と婚姻を交わしていなかった。

 それもあって、城で行われる催し物に出席したこともなく、言葉を交わすような機会もなかったのだ。

 聖女が年の終わりと始めに特別な祈りを行っていたこと自体は、ルルイエに仕えていた者たちは知っていた。禊の用意や、祈る際の衣装に着替える手伝いは、全て彼女たちがやっていたことだからだ。もしかしたら、先代のころから仕えていた者の中には、聖女が何を祈るかを知っていた者もいたかもしれない。

 ただ、彼女たちを宰相の娘が傍に置いているかどうかは、わからなかった。

 誰を側仕えにするか、護衛にするかは、全て聖女自身に任されているからだ。

 ルルイエ自身はエーリカの生まれではなかったし、次の聖女として見いだされた時にはまだ幼かったため、傍に仕える者の選別は全て、先代がやった。その後、先代が亡くなって正式に聖女となった時も、左大臣らの勧めを受け入れ、先代の元にいた者たちの中で自分に仕えたいと望む者たちを雇い入れた。

 それもあってか、彼女の周辺では人間関係の揉め事も少なく、また特段彼女が命じなくとも年嵩の者たちが采配してするすると用意が整って行くような部分があった。

 なので、宰相の娘がルルイエの傍に仕えていた者たちをそのまま雇っているなら、ある程度は問題なく儀式は進むだろう。だが、そうした者が傍にいない場合は。

(……ここで、わたくしが気を揉んでいても、しかたがないのかもしれないけれど……)

 再度胸に呟き、ルルイエは深い溜息をついた。

(わたくしは、今でもまだ、エーリカの聖女なのかもしれないわね……。国を追われた時、これで誰のために祈るのも自由だと思って、なんだか肩の荷が下りたような気がしたものだけれども、聖女として染みついた習慣や心は、そう簡単には変わらないということなのかも)

 小さく口元を苦笑にゆがめ、彼女は再び空をふり仰ぐ。

「毎日の祈りを欠かしてはならない。けれど、もしなんらかの理由でどうしても毎日祈れなくなったとしても、年の始めに魂込めて祈っておけば、その祈りは一年は国を守り、豊かに実らせてくれる。だから、何があっても、年の始めの祈りだけは怠ってはならない」

 彼女は、先代からそう教えられた。

 幸い国を追われるまで、彼女は日々の祈りを欠かしたことも、欠かさざるを得ないようなこともなかったけれども。

(わたくしは、そんな話を誰かにしたことがあったかしら。……先代から教えられたことは、人に話してはいけないこともあったから……でも……)

 彼女は胸に呟き、思う。せめて自分の元女官の誰かが、こうしたことを知っていて、宰相の娘に伝える機会を得てほしいと。あるいは、そうした者が宰相の娘の傍にいてほしいと。


 彼女が何度目かの溜息を吐き出した時。

「ルルイエ」

 背後から声をかける者がいた。ジャクリーヌだ。

「眠れないのですか?」

 ジャクリーヌは、横に並ぶと尋ねる。

「ええ。なんだか、目が冴えてしまって……」

 言って、ルルイエは一度はジャクリーヌに向けた視線をつとそらした。白いものが舞い落ちて来る空へと再び目を向ける。

「国のことを考えていたのです。新しい聖女となった方は、年の終わりと始めの祈りのことを知っているのだろうかと。誰かに教えてもらっただろうかと」

「それは……」

 ジャクリーヌは軽く目を見張ったあと、少し考えて肩をすくめた。

「それは、彼女とその父である宰相次第でしょう。あなたと先代の両方に仕えたことのある者ならば、ある程度は聖女がすべきことを知っています。それぐらいは気づくでしょうが、問題はその者たちをどうしたかということです。傍に置いたか、遠ざけたか……宰相が聖女をただの飾りと考えているならば、命を奪った可能性もあります」

「そんな……!」

 彼女の恐ろしい予想に、ルルイエは思わずふり返る。

「宰相ならば、やりかねません。彼は、あなたをも亡き者にしようとしたのですから」

 それへジャクリーヌは、冷静に返した。

「あ……」

 それを聞いてルルイエは小さく身を震わせる。

 西方世界で誰もが尊ぶ聖女の価値を、一顧だにしない者の無慈悲さを、今更彼女は恐ろしく感じた。

 ジャクリーヌはそちらに歩み寄ると、そんなルルイエを宥めるようにそっと肩に腕を回す。

「愚かなことです。人の気も知らず……宰相もあの女も、そして彼ら親子に欺かれている王も、ただ国を危うくしているばかりだというのに」

「ジャクリーヌ……」

 ルルイエは悲しげに目を伏せ、ジャクリーヌの肩に額を預けた。

 だがすぐに顔を上げ、彼女から身を離すと、ルルイエは西の方角を向いて空を見上げた。姿勢を正し、両手を組み合わせると、低く祈りの言葉を唱え始める。

 それは、聖女が年の始めに祈る、聖なる言葉であった――。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?