ミルカで過ごした最後の夜。
ルルイエとジャクリーヌは、不思議な話を聞かされた。
ミルカから、東方世界の一番西に位置する国イーリスへと向かう街道のどこかに、呪いのかかった村があるというのだ。
村の周囲はぐるりと背の高い木々に囲まれていて、たどり着いたのがたとえ晴天の昼間であっても、村の門をくぐった途端、夜になるのだそうだ。
見上げる空には星はなく、月の影すらない。そして、あたりはただ、しんと静まり返っているのだという。
「静まり返っている? つまり、人が住んでいないのか?」
ジャクリーヌが問うと、その話を口にした男は、かぶりをふった。
「いや。人はいる。だが、みんな、眠ってしまっているんだ。それも、道端や木陰に座り込んだり、横たわったりしている者もいるそうだ」
言って、男は続ける。
「それがいつ、どうやって、どんな曰く因縁があってかけられた呪いなのかは、知られていない。まあ、いろいろ噂はあるがな。ただ、とにかく、村人たちは突然呪いをかけられて、逃げるひまもなくその場で眠り込んでしまったらしい、ってことだ。そして、面倒なことに、この村に迷い込んだ者も、その呪いにかかって眠ってしまうらしいってことだな」
「らしい? つまりは、はっきりそうとわかってはいないのか?」
ジャクリーヌが眉をひそめて問うと、男はうなずいた。
「ああ。村に足を踏み入れかけて、気づいて回れ右して助かった者もいる、なんて話もあるし、その村らしい所に入ってそれっきり、って奴もいるって話もある。そもそも、村の正確な場所もわかっちゃいない。ただこういう村があるから気をつけろっていう話があるばかりさ」
男は言って、小さく肩をすくめて話をしめくくる。
その時には二人とも、奇妙な話もあるものだと、噂の一つとして受け取ったのみだった。
ミルカの街を出て三日後。
二人は突然の雨に降られて、雨宿りの場所を探していた。
当初は、街道脇に生えた樹木の下にでも入れれば、しのげるだろうと考えていたのだ。しかし雨は一向に止む気配もなく、それどころか雨脚はひどくなる一方で。
そこで、せめて建物の陰か軒下にでも……と足を早めたのだった。
そんな中、遠くにぼんやり浮かぶ灯りが見えた。
街道筋にある町や村の多くは、旅人のために門や出入口には松明やカンテラなどを吊るしている所が多い。なので二人はその灯りを、そうしたものだと考えた。
「急ぎましょう」
ジャクリーヌが促し、ルルイエもうなずく。
やがて二人は、小さなカンテラが吊るされた、古びた木製の門の前へとたどり着いた。
門の前には人の姿はなく、ただ、風にあおられてカンテラが揺れているばかりだ。
馬の手綱を引いたまま、ジャクリーヌが門に手をかけると、それは抵抗なく開いた。
「ルルイエ、中に入って、雨宿りを頼みましょう」
「ええ」
ふり返って言うジャクリーヌに、ルルイエもうなずく。
だが、門の中に一歩踏み込んだ途端、二人は思わず目を見張った。
先程から、あれほど強く降っていた雨が、いきなり止んだのだ。
いや、止んだというより、突然消えたと言った方がいいかもしれない。
足元の地面は乾いていて、門から続く道の周囲に生えた雑草も少しも濡れていないのだ。
だけでなく、あたりは暗い夜の闇に包まれていた。
たしかに、門の中に入る前も暗かった。
だがそれは、真っ黒な雨雲が一面空をおおってしまったせいであり、雨が降り出す前はまだ明るかったのだ。
けれど今、周囲を包んでいるのは、明らかに夜の闇だった。
ルルイエが、つと空をふり仰ぐ。
そこにはただ、星のない空が広がるばかりで暗く、月さえもない。
彼女の視線を追って、ジャクリーヌも頭上を見上げた。
そして、目を見張る。
「これは……!」
「わたくしたちは、ミルカで聞いた呪いのかかった村に入ってしまったのでしょうか」
ジャクリーヌをふり返り、ルルイエが問うた。
「わかりません。けれども、これは……」
かぶりをふって、ジャクリーヌは再度、空へと視線を向ける。
それから彼女は、聞かされた話を思い出し、周囲へと視線を巡らせた。
あたりはしんと静まり返っている。
暗闇の中、家らしい建物の影は見えるものの、男の話にあったような道端で眠る住民の姿は見当たらなかった。
この村が、本当にミルカで聞かされた話の村なら、長居するのは危険だとも思う。
だが、外に出ればまた雨をしのげる場所を探さなくてはならなくなる。
雨宿りできる場所がなく、そのまま本当の夜になって、しかも雨が更に激しくなれば、命の危険も充分あり得る。
(これは……どちらを選んでも、なんらかの危険はあるということか……)
眉をしかめて考え込むも、ジャクリーヌはどちらとも決めかねて、唇を噛んだ。
そんな彼女に、ルルイエが声をかけた。
「ジャクリーヌ、この先へ行ってみましょう。あの、一番奥に見える建物は、おそらくモスクでしょうから、村とは違う空間になっている可能性もあります」
言われて、ジャクリーヌは道の奥へと目を凝らした。
他の建物同様、影しか見えないものの、たしかに一番奥にそびえるものは、他の建物よりも大きく、そして特徴的な丸い屋根を持っているようにも見える。
モスクとは、東方世界における祈りの場だった。
聖女のいない東方世界において、超常的な力を持つ存在として敬われるのは魔法を行う魔法使いたちである。中でも、二千年前に現れ、魔法を体系立てたと言われる大魔法使いアイン・ソフ・アウルは、東方世界では神のように崇められている。
その彼が、祈りの大切さを解いて、人々が共に祈れる場所として建立したのがモスクだった。
モスクは、四角い壁と丸い屋根を持ち、大きなものは周囲にいくつかの尖塔を持つ。
東方世界の街には、こうした建物がいくつもあると言われていた。
また、小さな村や町でも、集会所などの屋根を丸く作り、そこをモスクとして使っていることが多かった。
ミルカの街にも、大小いくつかのモスクがあったので、ルルイエとジャクリーヌもそれを実際に目にしていた。
ルルイエは、そうしたモスクを、聖別された場所であると言っていた。
実際、彼女たちがミルカで足を踏み入れたモスクは、驚くほどに清らかで澄んだ空気に包まれていたものだ。
ジャクリーヌは、モスクらしい影を認めて、うなずいた。
彼女は手持ちのカンテラに火を入れようとしたが、ルルイエがそれを止める。
「灯りは、つけない方がいい気がします。暗闇にも目が慣れて来ましたし、このまま行きましょう」
「わかりました」
ジャクリーヌもうなずくと、そのまま馬の手綱を引いて歩き出した。
ほどなく二人は、モスクへと到着した。
そこまでの間も、あたりに人の姿は見えなかった。
モスクの扉には鍵などはかかっておらず、二人は中へと足を踏み入れる。
そしてそのまま、立ち尽くした。
「これは……」
「すごい……」
二人はただ、目を見張って呟くばかりだ。
そこは、一面に淡い光に包まれていた。
頭上には、満天の星々のような光が輝き、それはまるでヴェールの裾のように壁や床にまで広がっている。
よく見れば、部屋の中央に寝台のようなものが置かれ、そこに人が横たわっていた。
それに気づくとルルイエが、真っ直ぐそちらに向かい始める。
「ルルイエ」
「大丈夫です」
制止の声を上げるジャクリーヌに言って、ルルイエはただそちらに向かう。
ジャクリーヌもそのあとに続き、二人はほどなく、その台の傍へとたどり着いた。
台に横たわっているのは、ルルイエとさほど年の変わらない少女だった。
白っぽい金色の髪を長く伸ばし、白い衣に身を包んでいた。肌の色は白が勝ったクリーム色で、胸で組んだ手には、髪と同じ白っぽい金色の腕輪と指輪がはめられている。
ルルイエが、その腕輪をつと覗き込んだ。
「『君も草木も眠る』……なんだか、呪文のようですね」
腕輪に刻まれた文様を見て、呟く。
「それは、文字なのですか?」
ジャクリーヌが、小さく目を見張って問うた。
「ええ。昔、伯母様……先代様から教わったことがあります。東方世界の古い文字です」
うなずいて言うと、ルルイエは指輪の方も覗き込む。
「『春の光が暁を呼ぶまで』……やはり、呪文?」
彼女が呟いた途端。
周囲に満ちた光が、一斉に少女の元に集まり始めたのだ。
「え!?」
「ルルイエ!」
ルルイエとジャクリーヌが驚きの声を上げた、ほんの刹那。
あたりに光が満ちて、目を開けているのも困難なほどになった。
二人はそれぞれ、たまらずに腕で目をかばう。
ようやく二人が腕を下ろし、目を開けた時、あたりはただの草原となっていた。
「あ……」
「これは、いったい……」
ルルイエもジャクリーヌも、ただ周囲を見回すばかりである。
青い空には夕暮れの色がわずかに忍び込み、雨雲を思わせる黒い雲が幾筋か残っているばかりだ。
足元の地面はじっとりと水を含んでぬかるみ、雑草はどれもしとどに濡れている。
はるか視線の先には、小さな森や林と共に、その間を縫うように走る街道が見えた。
そうそこは、彼女たちが東へと向かっていた街道から少し離れたあたりに広がる草原だったのだ。
「いったい、何がどうなったのでしょう」
ジャクリーヌが、つとルルイエに歩み寄って尋ねる。
「わたくしにも、わかりません。でも……」
言ってふと、ルルイエは微笑んだ。
「わたくしたち、誰かに呼ばれてあそこに行ったのかもしれません」
「え?」
目を見張るジャクリーヌに、ルルイエは続ける。
「ミルカで、呪われた村の話を聞いたのも、突然の雨に降られたのも、そしてあの不思議な場所に迷い込んだのも、誰か……おそらくは、あの少女に呼ばれてのことではないのか、という気がします。あの少女が何者で、なぜあそこにいたのかはわかりません。ですがきっと、あの呪文を読むことのできる者を、欲していたのではないでしょうか」
「はあ……」
ジャクリーヌは、曖昧な返事をする。
正直、彼女には今一つ、事態を理解しきれてはいなかった。ただ、聖女であるルルイエがそう言うならば、そうなのだろう……と改めて思い直す。そして言った。
「わたくしにはよくわかりませんが……あなたがそう言うならば、きっとそういうことなのでしょう。……ともあれ、街道に戻りましょう。そして、日が落ちる前に、今夜の宿を探しましょう」
「そうですね」
ルルイエもうなずいて、歩き出す。
その彼女に、自分も歩き出しながら、ふとジャクリーヌは尋ねた。
「あの時読んだ呪文? を覚えていますか?」
「……いいえ」
少し考え、ルルイエはかぶりをふる。
「不思議ね。ちゃんと読めたはずなのに、なんと書いてあったのか、思い出せません」
言って彼女は微笑んだ。
「きっとあれは、あの時、あの瞬間にだけ必要なものだったのでしょう」
そのまま、街道に向かって歩く彼女に従いながら、ジャクリーヌもまた、なるほどそういうものかと胸に一人うなずくのだった。