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第8話 子供のころ

 子供のころの記憶があるせいだろうか。

 ミルカに滞在し始めて何日目かの夜。ルルイエは、母とこの街に来た時の夢を見た。


 夢の中でルルイエはまだ六つの子供だった。

 夢の中のミルカの街は、今実際に見るよりも賑やかで華々しくて、不思議で、本当におもちゃ箱をひっくり返したような場所だった。

「お母さん、あれ見て! きれい!」

「お母さん、あれすごい!」

「あのキラキラしたのは、何?」

 夢の中のルルイエは、そんな街の見るもの全てが珍しく、目をまんまるくして母の手を引いていた。

「ルルイエ、そんなに興奮したら、眠れなくなってしまうわよ」

 そんな彼女に、母は苦笑と共に言ったものだ。

「平気よ。それに、眠れなくなったら、ずっと起きているわ。朝までだって」

 満面の笑顔で、ルルイエはそれへ返す。

 六つの子供にとって、夜更かしはちょっとした冒険のようなものだ。

 旅の間も、子供の彼女は早い時間に床に就くことが当然だったから、この街では遅くまで起きていたいという気持ちもあった。

「あらあら、悪い子ね」

 母はからかうように、笑って言った。

「悪い子でもいいもん。ううん、悪い子にして。そしたら、これからもずっと夜更かしできるし、キライなものは食べなくていいし、それから……それから……」

 小さく頬をふくらませて、子供のルルイエは言い募る。

「はいはい。……そろそろ、宿に帰ってご飯にしましょう」

 母は笑ってうなずくと、ルルイエの手を取って歩き出した。

「お母さんってば、わたしの話、ちゃんと聞いてないでしょ」

 ルルイエは、ますます頬をふくらませながら、それでも母について歩いて行く。


 目覚めた時、ルルイエは胸の奥が少しだけ痛むのを感じた。

 かつて母とこの街に滞在したのは、ほんの三日ばかりのことだった。

 今にして思えば、女と子供の二人きりの旅路が、よくもここまで平穏に過ぎたと思う。

 ミルカを出て、西方世界へと続く橋を渡り、ナーラの町にたどり着く寸前で、二人はならず者に襲われた。幸い、エーリカから伯母が出迎えの者を送ってくれていたおかげで助かったものの、もしその者たちがいなければ、どうなっていたかわからなかった。

(考えてみれば、あれがわたくしが母との旅で初めて感じた恐怖だったのだわ)

 ルルイエは、ふとそう思う。

 とはいえ、今感じている胸の痛みは、それゆえではない。

 あの時この街の賑わいを見て共に笑い合った母は、もういないのだという事実に関する痛みだ。

 母と彼女の旅は、エーリカに到着することで、終わった。

 そののちルルイエは、伯母でもあった先代聖女に次の聖女として見いだされ、城の一画に部屋をもらって暮らすことになった。そしてそれは、母との別離をも意味した。

 エーリカでは、聖女はいずれ王妃となることから、次代の聖女も城内でくらすことになる。とはいえ、その待遇は身内にまで及ぶことはない。もちろん、身分が変わることもない。

 つまり身内とはいえ、相応の身分がなければ城内に入ることは許されず、元の身分が平民ならば平民のまま変わらないのだ。

 『特別な存在』となるのは、聖女の後継者となった娘だけなのだった。

 それは、その者たちの出身がどこであろうと、変わらなかった。

 なので、ルルイエは次の聖女として城に住み、特別な扱いを受けることになったが、母は異国から来た平民の女のままだった。城の外の、伯母が用意した質素な家にくらし、娘に会いたければ煩雑な手続きを踏んで王の許可を得るしかない。そしてその許可が下りることは、とても稀なことだった。


 母を城に住まわせる方法も、なくはなかった。

 それは、彼女をルルイエが部屋付きの下女として雇うことだ。

 だが、子供のルルイエには、自分の母を使用人として雇うなど、考えただけで恐ろしく、実行できなかった。

「お師匠様、わたくし、母に会いたいです。どうすれば、会えるのでしょう」

 城でくらすようになって、数ヶ月が過ぎたころ、ルルイエはとうとう耐えきれなくなって、聖女である伯母にそう尋ねた。

「彼女を下女にするのは嫌なのでしょう? ならば、あなた自身が正式な聖女となる時を待つ以外にはないでしょう」

 伯母はそう言って、そっと幼いルルイエの髪を撫でた。

「正式な聖女となり、この国の王妃となれば、ほんの少しの権力と自由を得ることができます。それでもって、彼女を自分の元に呼ぶことや、手紙のやりとりをすることぐらいは、できるようになりますよ」

 それは、今にして思えば、おそらく伯母もたどった道なのだろうとルルイエには思える。


 そもそも、東方世界の住人だった伯母が、なぜ西方世界の王国エーリカの聖女となったのか。

 ルルイエは今なお詳しい事情を知らなかった。

 ただ、伯母自身やその周囲の人々から漏れ聞いた話から推察するに、伯母はエーリカの商人に見初められ、もともとは嫁入りのためにその国を訪れたらしい。だが、嫁入りはならず、次の聖女に決まり、そのまま祖国には戻らず、エーリカの人となったようだ。

 伯母がエーリカを訪れてからも、ルルイエの母はずっと手紙のやりとりを続けていた。

 それもあって、母はルルイエと共にエーリカへの旅を決行したのだろう。

 とはいえ、母が自分を連れて国を出た理由も、実のところルルイエは知らなかった。

 いくら聖女とはいえ、伯母が顔も見たことのない自分を最初から次の聖女と見込んでいたとは思えないので、母の方になんらかの事情があったには違いない。

 だがどちらにしても、わざわざ東方世界からやって来た実の妹とその娘を、城に――自分のくらす王妃宮に共に住まわせることはできなかったのだ。エーリカの王妃には、王族としての権力はさほどなく、実際には聖女という特殊な存在でしかないということが、よくわかる。


 結局、ルルイエが母に会えたのは、エーリカに来て一年後、母の最期の時だけだった。

 それも、伯母が周囲に無理を言って母の見舞いに出向き、その際にルルイエを同行させてくれたおかげでしかなかった。

 ろくに言葉を交わすこともできなかったし、その傍に駆け寄って、手を握ってやることもできなかった。むろん、母のために祈ることも許されていない。

 それでも、ルルイエは母の姿を目に焼き付けようと、ただ見つめた。

 母もまた、こと切れる寸前まで、ルルイエを見つめていた。

 二人にできることは、それだけだったのだ。


 エーリカの王が亡くなったのは、ルルイエの母の死後、間もないころだった。

 母の死の悲しみを胸の奥深くに沈めて、ただ聖女の後継者として過ごすルルイエの周辺で、多くの人々が王の死を嘆き、同時に次の王がまだ九つの子供でしかないことへの不安を漏らしていた――。

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