西方世界には、どこの国にも属さない小さな町や村もあった。
なぜ国に属さないのかの理由は、場所によってさまざまだが、そうした町や村も、街道に沿って位置する限り、聖女のもたらす実りの恩恵を得ることができた。
というのも、街道には西方世界の国全ての聖女らが、祈りを込めた守りの石を置く祠が等間隔に設置されているからだ。
西方世界の各都市を走る街道を提案したのは、最初の聖女ウルスラだと言われている。
彼女はアルベヒライカの王に、その構想を話した。当時のアルベヒライカの王はそれに感銘を受け、当初は国の事業として国内にのみ、街道を敷くつもりで始めたのだという。
だが、次第に工事は大規模になり、やがて西方世界の全ての国を巻き込み、何十年何百年といった単位で行われることとなった。
そうやって出来上がった街道には、これもウルスラによる提案で、聖女らが祈りを込めた石が小さな祠に収めて置かれた。それらはどこの国にも属さない場所であっても、街道筋であれば豊かな実りをもたらした。
それを知った人々が集まって、街道筋に小さな集落ができ始めたころ、その噂は東方から来る商人たちの耳にも入るようになった。
かくして街道は、西方世界の者たちばかりではなく、東方から来る人々にも使われることとなったのである。
ちなみに、西方世界の東端にある東の境界は、切り立った崖になっていた。
崖の下は深い谷になっており、覗き込むと白いしぶきを上げて、急流が流れているのがはるか下方に見えるという。
はるか昔は、世界はここで行き止まりだった。
崖からは向こう岸がかすかに見えはするものの、そこを渡るすべはなく、ここまでたどり着いた者の多くは、そこから崖の縁を移動して北か南へ向かうのが常だった。
だが今は。
崖から向こう岸に向かって、広くて頑丈な橋がかけられ、人々はここを渡って行き来する。
とはいえ、西方世界は昔と同じ、崖のところで終わっていた。
西方の国々と聖女の協力で敷かれた街道はここで終わり、橋とその向こうの世界は厳密には東方である。そう、かつて西方は悪魔の世界だと信じて疑わなかった東方の人々が、崖の向こうの豊かな緑に目を惹かれ、橋をかけてまで訪れるようになったのである。
橋ができる以前にも、東方からは商人たちが訪れてはいた。彼らは西方世界にはない魔法やら、空を飛ぶ乗り物やらでもって、崖を渡ってやって来ていたのだ。
ただそれは、東方の者全てが使える方法ではなかったのだろう。
橋ができて交易が盛んになると、橋の向こう、馬で一日ばかりの距離の場所に、交易を主とする都市ができた。それが交易都市ミルカである。
一般的には、このミルカが、東方世界の玄関口であるといわれていた。
さて、エーリカの東の国境門から国を出た聖女ルルイエと女騎士ジャクリーヌの二人はというと。
まだ、西方世界の東端の一画を、のんびりとたどっていた。
二人は一般的な旅人がそうするように、日のあるうちは街道を進み、日没前に街道沿いの町や村におちついてそこで宿を取るといった日々を送っている。
街道沿いの町や村は、旅人が行き来することが多いためか、どんな小さな村であっても宿泊施設が一つはあった。それらは居酒屋兼宿屋であったり、村の集会所だったり、時には村長や長老の家だったりしたけれど、ともかく旅人を泊めることを念頭に置いた場所となっていた。
国を出て、半月ばかりが過ぎたころ。
ルルイエとジャクリーヌは、ある町にしばし逗留することになった。
というのも、数日、強い雨と風で外を移動するのが困難だったためだ。
二人が国を出た時、エーリカは初夏の気候だった。
西方世界は四季があり、西に行くほど気温は低く気候は穏やか、東に行くほど気温は高く変わりやすい気候となる。殊に、この東端の地域は季節ごとに何度か強い嵐が起きる時期があって、ちょうど6月の終わりから7月あたりにかけては、夏の嵐の季節だった。
二人はその夏の嵐に遭遇してしまったのである。
「雨も風もすごいですね。わたくし、こんな嵐を見るのは初めてです」
宿の窓から外を眺め、ルルイエはわくわくしたように言ったものだ。
「わたくしは、幼いころに何度か見たことがあります」
ジャクリーヌはそれへ言う。
「我が家は兄が文系で、わたくしが武系ということで、幼いころ、騎士をやっている叔父の元に預けられていたことがありましたの。その叔父に連れられて、何度かこのあたりにも来たことがありますわ」
「それはすごいですね」
話を聞いて、ルルイエはクスクスと笑った。
二人が泊まった宿は、一階が食事処で二階が宿といった作りになっていた。
日が落ちると二人は、階下で食事をする。
この時期、宿は二人と同じように旅の途中の者たちで賑やかだ。
旅人は商人や吟遊詩人、傭兵といった者たちが多い。
このころにはすでに、エーリカの王が聖女を追放したという話も噂になっていて、時おり商人たちがそれについて話していたり、吟遊詩人が歌にしてうたっているのを二人も耳にするようになっていた。
「ルルイエは、魔法は使えないのですか?」
ある時、夕食を食べながらジャクリーヌが尋ねた。
東から来たらしい商人らが、魔法について話しているのを耳にして、ジャクリーヌは王がルルイエを追放した時の言葉を思い出したらしい。
「残念ながら」
ルルイエは小さく肩をすくめる。
「魔法の才はあるらしいです。母がわたくしを連れて東方を出たのは、そのせいだと聞いたことがありますから。ただ、魔法を教わったことがないので、使えないのです。ああでも……」
言ってふと思い出したように、彼女は肩から斜めに提げたカバンをさぐって、中から長方形のカードを束ねたものを取り出した。
「占いならば、少しばかりできます。小さい時に、母から教わりましたから」
「そういえば、以前占っていただいたことが、ございますね」
ジャクリーヌもうなずく。
その二人のテーブルの上に、つと影が差した。
「お嬢ちゃん、占いができるのかい?」
声をかけて来たのは、さっきまで吟遊詩人の演奏に合わせて踊っていた中年の女だった。派手な赤いドレスを着て、踊り子だという。
「ええ、まあ……」
ルルイエが曖昧に答えると、「この嵐がいつ終わるのかを、占っておくれよ」と言う。
それはルルイエ自身も知りたかったことなので、うなずくとテーブルの上の食器を片寄せ、そこにカードを広げた。
カードの表には色のついた絵と数字が書かれていて、それぞれに意味があるらしい。
ルルイエはテーブルの上でカードを混ぜ、慣れた手つきで再び一つにまとめると、束の中から三枚ほどを順番に取って並べた。
残った束をテーブルの隅に置いてから、彼女は三枚のカードを順番に広げていく。
カードの絵を見て、彼女は軽く眉根を寄せた。
「嵐はしばらくは終わりそうにありません。……少なくとも、あと一週間は続きそうです。そして、嵐が終わるころに、思いがけない出来事が起こる……」
「思いがけない出来事?」
問うたのはジャクリーヌだったが、周囲にはいつの間にか踊り子以外にも人が集まって来ていて、皆が同じことを問いたげに、ルルイエを見つめている。
「死者がよみがえる……? わかりませんが、何か人の生死に関わる知らせが訪れる……のではないかと読み取れます」
ルルイエは、眉根を寄せたまま、三枚のカードのうちの一枚を見つめて、呟くように言った。
人々も、その視線を追って、カードを見やる。
その先にあったのは、黒いマントをまとったガイコツが馬にまたがっている姿だった。
それから一週間が過ぎ、毎日吹き荒れていた嵐もようやく去る気配を見せていた。
空は相変わらず低く垂れこめる灰色の雲におおわれてはいたが、雨は止み、強い風のせいで時おり雲間が切れて、その向こうに空の青がちらりと覗く程度にはなっていた。
「どうやら、明日明後日ごろには晴れてくれそうだな」
旅慣れた者たちや、宿の主らはその空模様を見てそんなふうに言い合う。
その日の昼のことだった。食事処に、一人の男が現れた。
男は白いフードとマントといった姿で、東方からアルベヒライカにある聖女ウルスラの廟へと向かう巡礼のように見えた。
そう、東方の者たちから見て、聖女はひどく神聖なものと見えるらしく、殊に最初の聖女ウルスラを女神のように崇拝する者たちがいるのだ。彼らは白いフードとマントをまとい、聖女ウルスラの廟に参拝することを目的に、東方から来て西方各国の聖女ゆかりの地を巡ったあと、目的地へと向かう。
その男も、そうした巡礼の一人と見えた。
しかし――。
男は宿の扉をくぐった途端、その場に膝から崩れ落ちたのだ。
「おい、大丈夫か?」
ちょうど入口近くにいた宿の主が、慌ててそちらに駆け寄る。だが、倒れた拍子にはずれたフードの下の男の顔を見た途端、宿の主は大きく目を見張った。
「ロゴス……!」
その口から漏れた叫びに、その場にいた者たちの何人かが、同じように目を見張った。
だが宿の主はそれにさえ気づかないまま、男の両肩をつかむ。
「ロゴス、無事だったのか! いったい、十年も何をやっていたんだ!」
「ああ……俺は、ようやく帰って来れたのか……」
自分の肩をつかんでゆすぶる宿の主に、男は安堵したような呟きと共に、乾いた笑い声を漏らした。
そのあと、宿はちょっとした騒ぎとなった。
主の命令で、宿の娘が外へと飛び出して行き、しばらくして中年の女を連れて戻って来た。
女はロゴスと呼ばれた男の姿にしばし呆然としたあと、そのまま男を抱きしめると声もなく泣いた。
そして、宿の娘に付き添われるようにして、男と共に宿を出て行ったのだった。
のちにルルイエとジャクリーヌが宿の主から聞いた話はこうだ。
ロゴスはもともとこの町に住む鍛冶屋だった。だが十年前、行商の旅の途中にこの宿に立ち寄った東方の商人から、自分と共に来て東方の国の王の剣を造ってほしいと頼まれたのだ。
もともと、どこかの国で自分の腕を試したいと考えていたロゴスは、その要請に応えて共に東方の国に向かうことになった。
とはいえ、ずっと東方でくらすわけではない。期間は往復の旅を入れて四年ほど。
ロゴスには妻と年老いた母がいたが、商人が前金をたっぷり払ってくれたので、彼が戻るまでの間は充分にやって行けるだろう。
そうして、ロゴスは意気揚々と商人と共に旅立って行った。
最初の二年ほどは、妻と母の元には手紙が届いていたという。
無事に東方の国に着いたこと、商人の紹介で王の御前で挨拶までできたこと、自分のために用意された鍛冶工房のすばらしさなどなど。
だが、いつしか手紙の届く間隔は空き、やがてぱったりと音信は途絶えた。
妻がいくら手紙を出しても、一向に返事は来ない。
そんなおり、東方からやって来た商人が、東方で大きな戦争が起こったことを教えてくれた。戦いには、ロゴスが向かった国も巻き込まれており、国王一家が敵国の者に殺されたという噂もあるとのことだった。
更に、その翌年には同じく東方から来た商人が、ロゴスが向かった国が他の国に併合され、国王の側近やそれに仕えていた者などは、全員が処刑されたと教えてくれた。
王に仕えていたのなら、鍛冶屋とはいえ、無事ではすまなかっただろう……とその商人は口重く言った。
その衝撃に耐えきれず、ロゴスの母は病に倒れ、ほどなく亡くなり――ロゴスの妻は、ただ悲しみにくれながら一人、細々とこの地で生きていたのだという。むろん、ロゴスのことは商人の言葉どおり、処刑されたか、戦に巻き込まれて死んだのだろうと、諦めていた。
だが実際には、ロゴスは生きていたのだ。
音信が途絶えたころ、彼は商人と共に王の不興を買って、投獄されていた。実際にはなんの罪もなく、ただの濡れ衣だったが、商人は処刑され、彼自身もいずれ処刑の日を待つばかりとなっていた。
そこに、戦争が起こったのだという。戦争は、東方の国全てを巻き込むほど大きなもので、当然、彼のいた国も巻き込まれた。そしてそのどさくさに、彼の処刑の日は延期され続け、しまいには城の地下牢にそんな囚人がいたことも忘れ去られてしまった。
もちろん、食事なども満足に与えられず、ロゴスはこのまま自分は飢えて死ぬのだと思ったという。
だが、幸いなことに――というべきなのだろうか。彼のいた国は戦に負けた。
東方からの商人が彼の妻に伝えたとおり、国王一家は敵国の兵士らに殺害され、国はほどなく隣国に併合された。その際に、隣国の兵士たちは城の中をくまなく改め、他の囚人らと共にロゴスも助け出されたのだった。
そのあとロゴスは、他の囚人らと共に隣国の兵士や文官らに取り調べを受け、罪なく投獄されていたことがわかってようやく解放された。それが五年ほど前のことだという。
そのあと彼は、隣国で鍛冶屋として働いて路銀を貯めた。当然だが、元いた国で彼が稼いだ金は投獄されたおりに没収されており、それが戻って来ることはなかったからだ。
とはいえ、彼の鍛冶の腕は隣国の者たちにも評価された。なので、稼ぐこと自体はさほど難しくなかったのである。
「でも、それなら奥さんに手紙ぐらいは出してもよかったのではないですか?」
話を聞き終えて、ジャクリーヌがつけつけと訊いた。
「それが、ロゴス自身は手紙を書いて出していたらしいんだが、その手紙がこっちにはまったく届いてなかったということらしい」
宿の主は小さく肩をすくめて返す。
「戦のどさくさで、届かなかったと?」
「さあな」
問い返すジャクリーヌに、主はまた肩をすくめた。
そして主はふと、ルルイエを見やる。
「そういや、あんたが言ったんだよな。『死者がよみがえる』って」
「わたくしは、カードが語ったことを口にしたにすぎません」
小さくかぶりをふって言うルルイエに、主は笑う。
「カードが語った……か。ま、なんにせよ、めでたいことだ」
彼につられたように、ルルイエとジャクリーヌも、顔を見合わせ笑った。
その翌朝。
雲一つなく晴れ渡った空の下、ルルイエとジャクリーヌは、宿の者たちに別れを告げて、東に向かう街道へと足を踏み出したのだった。