エーリカは、西方世界の東にある国だ。
そこまで大きくもないが、小さいというわけでもない。
国名をエーリカとしてからは、千年ちょっとで、西方世界の国々の中では中堅といったところか。
ちなみに、西方世界で最も古い国は、建国二千年を誇るアルベヒライカだ。
アルベヒライカは、最初の聖女ウルスラが現れた国であり、現在の西暦を制定した国でもあるという。
それはともかく。
エーリカの現在の王は、十九歳とまだ若い。
彼の父である先代王が即位したのは三十を過ぎてからだったし、そもそも他の国の王たちはみな、若い者でも四十代なので、彼がいかに若いかが察せられるだろう。
彼が王位に就いたのは十年前、まだ九歳の時である。
九歳の子供が王などと、冗談のような話だが、どこの世界でもまったくないという話ではない。
先代王には彼の他に子供はなく、また中継ぎにふさわしいような兄弟もいなかった。なので残された大臣たちは、彼を即位させると、自分たちの手で政を行った。
当時の宰相は、他の大臣からの信頼も厚く、政治的手腕にも長けた者であった。
なので、王が子供であっても、国は問題なく運営されて行った。
さて。西方世界の国々には、どこも聖女という存在がいる。
聖女は祈りによって国に実りをもたらす者として、最初の聖女ウルスラの出現より千年以上、この世界の国々を豊かにして来た。
現在のエーリカにも、他国と同じように、聖女がいた。
聖女は、十七ぐらいであろうか。
黒い髪と暁のような金茶色の目をして、小柄でおとなしやかな少女だった。
エーリカでは、聖女は王妃となるのが、習わしだった。
ただし、子供を産むのは聖女の仕事ではないとして、王妃は常に飾り物でしかなかったけれど。
そう、先代王の王妃も先代の聖女ではあったが、王の母ではなかった。
王の母は、先代王の側室だった女性だ。
つまり、王の方が代替わりした時に、聖女が代替わりしていなくとも、王妃に迎えることはできるというわけだ。
とはいえ、王が即位したころ、先代の聖女はまだ生きていて彼の母より年上だったので、周りの者たちが王妃にはさせなかった。
聖女が代替わりしたのは、五年ほど前のことだ。
それと同時に、新しい聖女は王の婚約者となった。
即座に王妃とならなかったのは、王がまだ成人年齢である十五に達していなかったためだ。
もっとも、すでに王が成人して四年も経つにもかかわらず、聖女は婚約者のままではあったけれど。
それについては、代替わりした宰相の企みだろうとひそかに噂する者が多かった。
王が即位したころ宰相だった男は、聖女が代替わりする一年前に病死した。周囲はその息子が後を継ぐだろうと考えていたが、ある夜、息子の家は強盗に襲われ一族郎党皆殺しにされたのだ。
そののちにその地位に就いたのが、今の宰相である。
宰相は、王が成人するとすぐに、自分の娘を彼の側室とした。
周囲は聖女を妃とする方が先だろうと口にしたが、宰相は頓着しなかった。
「どうせ王妃は飾り物だ。王には実質的な妻を持って、早く世継ぎを作っていただく必要がある」
彼はそう言って、自分の娘をごり押ししたのだった。
周囲がそれに強行に反対しなかったのは、先王のことがあったからだ。
先王は情の深い男で、最初の側室が若くして亡くなったあと、なかなか新しい側室を持とうとしなかった。周囲が無理に進めてようやく側室を持ったものの、それも一人だけとあって、なかなか子供が生まれなかったのだ。
子供の数が多すぎて王位争いが起こるのも困るが、少なすぎるのも困る。
なので周囲は、宰相を強く諫めることができなかった。
そんなこんなで、聖女は婚約者のまま、月日は過ぎた。
そして。西暦1024年6月。事件は起こった。
「我は、そなたとの婚約を破棄し、そなたを国から追放する」
王の謁見の間にて、玉座に座した王は、そう高らかに宣言したのである。
居並ぶ家臣たちは、なんの冗談かと顔を見合わせ、玉座の前の一段低い場所にて王と対峙していた聖女は困惑したように、目を見張る。
「あの……陛下、それはいったい、どういうことでしょうか?」
ややあって、聖女が問うた。
「言葉どおりの意味だ。役立たずの聖女など、我が国には無用だ。そなたのような者を王妃とするいわれも、国に住まわせるいわれもない」
対して王は、きっぱりと答える。
今度は、家臣たちの間に、驚きを含んだざわめきが起こった。
「役立たずとは……陛下のお言葉の意味がわかりかねますな。彼女は立派に聖女としての役割を果たしていると、私には思えますが」
言ったのは、左大臣だった。
「役に立っておらぬではないか。そこな聖女は、病人を回復させることもできず、海水を真水にすることもできぬ。なんの奇跡も起こせぬ者を聖女などと、片腹痛いわ」
尊大に返す王に、誰もが困惑したように顔を見合わせた。
それは左大臣も同じで、彼は再び口を開こうとする。
だがそれよりも早く、玉座の傍らに立っていた宰相が口を開いた。
「まことに王のおっしゃるとおり。我が国に、このような聖女など不要です。側室様もご懐妊なされ、王の覇気はいよいよ天下に轟くというおりに、このような者を婚約者として傍に置き、いずれ王妃にされるなど、むしろ王の御威光に傷をつけるようなもの」
側室の懐妊についてはつい先ごろ発表されたばかりのことで、彼の言葉にその場の者たちはなるほどと、宰相の意図を理解する。
宰相は、娘とその腹の子の立場を確たるものにしたいのだろう。
もしかしたら、側室たる娘が王妃の地位を望んだのかもしれない。
とはいえ、聖女の力がなくば、国は立ち行かないに違いない。
その場の者たちは、困惑する。
西方世界の者なら当然知るはずのことを、王はなぜに知らないのかと。そしてなぜ、このような暴挙を許そうとするのかと。
そして彼らは気づく。
王は、それを教えられていないのだと。
世継ぎに聖女のことを教えるのは、王の仕事だった。だが、そうした教育が始められるのは、早くとも十歳を過ぎたころからだ。そして今の王は、九歳で父王を亡くしている。
(誰も、聖女について教えなかったのか……)
(王としての教育は、万全に施したはずだ……なのに……)
家臣たちは半ば呆然と、胸に呟く。
そんな彼らを嘲笑うかのように、宰相が口を開いた。
「聖女がおらねば国が立ち行かぬというのは、ただの妄言ではないのかな。そも、聖女ウルスラが出現するより前は、どの国にもそのような者はおらなんだ。それでもかのアルベヒライカは、千年もの月日を国として存続しておったのだ。それに、そこな娘が本当に聖女かどうかも、怪しいものだ」
言葉を切って、宰相は聖女を嘲りを含んだ目でねめつける。
「そこな娘は、東から来た者だと言うではないか。その黒い髪を見よ。我が国にも、この西方世界にもあまり見られぬ穢れし色だ。そのような者を、聖女というはいかがなものか」
「宰相殿、それはあまりな言いようではありませぬか。この娘を聖女とさだめたは、先の聖女様ですぞ」
左大臣が思わず反論したものの、宰相は小さく鼻を鳴らして肩をすくめた。
「その先の聖女も、先王の死をどうにもできなかったではないですか。そのため陛下は九つという幼さで王位に就き、国を治める試練を受けることとなった」
「それは当然でしょう。聖女とは、そういう者ではない」
左大臣が返すが、宰相はもはやそれを相手にしようとしなかった。
そんな中、ずっと黙っていた聖女が顔を上げ、口を開いた。
「承知いたしました。わたくしが、王と国の役に立たぬとおぼしめしならば、わたくしは王の御命令に従い、役目を退き、国を出て行くことといたします」
左大臣たちが、驚いてそちらをふり返る。
それへ聖女は、穏やかに微笑みかけた。
「みなさまが、わたくしのために抗弁して下さるのは、とてもうれしく思います。ですが、王のおぼしめしに反対し、みなさまにまで累が及んではいけません。どうぞ、わたくしのことは、捨て置いて下さいませ」
言って彼女は王の方へと顔を向ける。恭しく一礼すると、彼女は優雅に踵を返して、そのまま謁見の間を出て行ったのだった。