何気なく彼女は話題を振ってみる。
「どうって」
「ディフィールド教授が、戦線に参加するって噂よ」
「ああそのこと」
「ああって」
「俺が参加するかってこと? する訳ないじゃん」
やっぱりね、とほっとする自分を彼女は感じる。しかしその一方で、不安も顔を出す。
「でもキュア、もし教授が参加して、研究発表までに帰還しなかったらどうするの?」
「そんなことはないだろ? 仮にも彼は教授だよ」
それは甘い、と彼女は思う。
どうして他星系出身なのに、キュアはそういうところは甘いのだろう、と時々思うのだ。
例えば彼が入室する前の嫌がらせにしてもそうだった。反撃すれば、何かしらの別の反応があったかもしれないのに、あの時は周囲を超越する様な態度で、誰にも文句を言わせずに入室を許された。
だがその態度によって、彼は更に敵を増やしたと言ってもいい。予科出身の彼女としては、「敵」の気持ちは嫌という程判る。自分がキュアと専攻が違って本当に良かった、と彼女は思う。
もし同じ専攻だったらたまらないだろう。こんないつも余裕で周囲を飛び越えてしまう奴は。自分が一歩退いた位置に居るからこそ、冷静に相手の良い所を探し、そして好きになれたのだ。
もし同じ場所に立っていたら、間違いなく自分は彼を憎むだろう、とエラは感じていた。今現在好きである分の感情が、そのままマイナスの要素として彼にぶつけてしまうかもしれない、と。
「あれ、心配してくれてるの?」
「そうよ、いけない?」
「いけなくないいけなくない」
そう言いながら、彼は衣類をたたむ彼女の背後に回り、きゅっと抱きしめた。ちょっと痛いわよ、と言いながら、その抱きしめる力の強さが、彼女には心地よく感じてしまう。本当に、自分のポリシーとは違うというのに。
自分一人で生きていける、というのが小さい頃からの彼女のポリシーだった。今でもそれは根本的には変わってはいない。だからこそ、婚約者がどうの、と当たり前のように口にする実家から離れて、この総合大学に入って研究をしているのだ。
実家では、やはり現在の自分と同じ様に、小さな頃から婚約者が決められて、「良い上流夫人」なるように育てられた母親が毎日を怠惰に過ごしている。
いや、怠惰そのものはまだいい。何が彼女にとって嫌なのか、と言えば、その怠惰に愚痴をこぼしながら、何もしない―――何もできなくなっている母親の「気持ち」なのである。
小さい頃からその様な生活に慣れさせられ、疑問を持つこともせずに育った母親は、自分の退屈と愚痴が存在することに気付かずに、娘にも同じ道を歩ませようとしている。だがあいにく娘は母親より賢かった。
母親の怠惰の原因を、幼い頃にはもやもやとしか気付いていなかったが、それでも中等学校の頃には、形として見えてきていた。母親は家で何をしている? 何ができるというのだろう? そして何を楽しいと感じているのだろう?
エラはそうはなりたくない、と思った。
だから、ぼんやりと気付いていた基礎学校の頃から、自分の好きなものに関しては、どん欲に取り組んできた。
取り組んでみれば、それが果たして自分が本当に楽しめるものなのか判る。一つ一つ試し、一つ一つ彼女は振り落としてきた。そして残ったのが、建築だったのである。
無論予科に行こうとする彼女に母親は反対した。まるで自分が何もできなかったことを思い出したかの様に反対した。嫉妬しているかのようだ、と彼女は言い出した時の母親の表情を思い出す。予科に二年、本科に七年も居たら、婚期が遅れる、とも言った。
だが不思議なことに、その彼女に助け船を出したのは、当の「婚約者」だったのだ。
ミッド・フォーレンという名の婚約者は、十歳年上の好青年だった。嫌う理由は無かった。ただ結婚する理由が見つからなかっただけで。彼は別に何年待とうが構わない、と彼女と彼女の両親に言った。変わった人だ、とエラは思った。思っただけだった。
許可が出た途端、彼女は勉強の方に夢中になり、しばらくは彼の存在すら完全に忘れていたくらいだった。
自分に婚約者が居ることを思い出したのは、キュアと付き合いだしてからだった。
「ちょっと、くすぐったいってば」
背後からきゅっと抱きしめ、彼はエラをゆらゆらと揺さぶる。この男は、一度慣れた相手にはひどく甘えん坊になるのだ、と付き合いだしてから彼女は知った。
と同時に、自分も甘えることができるんだ、ということをエラは思い出していた。何となく、こう素直にべたべたしてくる相手に気を張ってみたところで仕方がない様な気がするのだ。肩の力を抜いて、楽しいこと楽しもう。そんな気持ちにさせてくれるのだ。
だからそんな彼の側で、体温を感じる距離に居たりなんかすると、自分にはそういえば婚約者というものが居たなあ、と今更の様に思い出して、エラは暗くなる。
せっかく親切から期間延長を申し出てくれた相手だけど、できれば解消してほしい、と彼女は思うのだ。
この背中から抱きしめてくれる男とどうこうなりたい、ということを具体的に考えていた訳ではないが、そんな気持ちのまま、はいそうですかとあっさり結婚するのは嫌だった。
だからこそ、この卒業研究は彼女にとっても大切だったのだ。
そしてその一方、彼女は考える。このひとが、有名な建築家になったなら、両親も納得してくれるだろうか。
それでも簡単には認めないとは思う。ただ、学生の彼よりは、何らかの肩書きがある方が効果的だ、とは彼女も思うのだ。
ゆらゆら、と揺らされながら、彼女はつぶやく。
「ねえ、あたしがもしコヴィエで爆撃か何かに合って死んじゃったら、あんた泣く?」
「泣く」
即座に彼は答える。
「泣くかなあ!? 大の男が!」
「俺は泣くよ? わんわん泣いて、部屋中ひっくり返すかもしれない。だって当然じゃねえ?」
エラは何も言わずに、回されている腕をぎゅっと掴む。
「じゃああの部屋が余計にひどい状態にならない様に、無事で帰ってくることにしましょ。おみやげは何がいい?」
「コヴィエだろ? 観光地じゃあるまいし。写真山ほど撮ってくるんだろ? それだけでいいよ」
「それだけでいいの? 本当に」
「うーん、じゃあ帰ってから、丸々一日、独り占めってのは」
「一日だけでいい訳?」
「いい訳ないだろ」
ふてくされた様に言う彼に、彼女はくるりと振り向くと、腕を伸ばす。そして首を抱え込むと、何度もキスを繰り返した。
そうこんな風に、いつでも。