「それで?」
と閉じた目の向こう側でコノエは訊ねた。
「それでって…… 別に。時々は帰るか電話してやってくれないか、って頼んだだけ。だって、今の俺にはそれ以外できることはないから」
「ですよね」
俺は目を開いて、少しばかり視線を横にずらし、視界に入る天井の染みを見つめる。
あの時マキノと別れてから、俺は西に住む親父のところへ電話をかけた。家の電話からでは駄目なのだ。あの人が、それに気付くようでは。
数回のコールの後、出た人は、何だいきなり、と受話器の向こうで言った。久しぶり、と言うと、そうだったかな、と言った。まあそんなことだろう、と俺は思った。
「たぶん、親父は、忘れていたんだよ。そういう人なんだ」
「うん」
「悪い人じゃない。だけど、自分の仕事に没頭してしまうと、そうでない部分が、全部どっかに行ってしまうんだ。アニキも同じ」
ふうん、とコノエは興味あるのか無いのか判らないような口調になる。どんなリアクションをしてるかはここからじゃ、判らない。
今俺の視界に入るのは。
前に比べてずいぶんとコンパクトな部屋だった。引っ越して片づけが済んだ、という奴の報告の後すぐに出向いた時には、さすがに俺は驚いた。
最も、決して質は悪くない。2DKくらいだろう。都内の学生の一人暮らしなら充分すぎる程だ。
だけど、前のように広すぎる程のリヴィングはない。以前にもそんなになかった生活感が、更にそこからは消えていた。居心地のいいクッションとか、何げなく置かれたミシンや、使われたけどきちんと片づけられている台所とか。そんなところに、それでも以前は生活感があった。
だけど今は。
あのマットレスは今は一つしかない。捨てたのか、と聞いたら奴はええ、と答えた。適度な固さが心地よい、一人にしては広い大きさの。
ぶぅ…… ん、と耳に機械の音が飛び込む。奴の部屋ではずっと何台かのPCの電源が入っている。
ずいぶんなオフィスだよな、と皮肉を込めて訊ねたら、奴は笑ってこう言った。
「経費で落ちますから」
経費だ。誰の、とはあえて聞かなかった。
時々ぴ、と音がする。メールが来る音だ、と奴は答えた。見なくてもいいのか、と俺が問うと、今はこっちの方が大事、と答えた。
俺は腕を伸ばした。その手を取って、奴は指を絡めた。
あれから時々、俺はコノエとそういうつきあいをしていた。
奇妙なもので、最初に予想外のことが起きたせいか、大した戸惑いもなく、俺は遊びに来ると、なりゆきまかせのこの関係を結構楽しんでいた。
最も、お互い強くそれを求めている訳ではない。
何となく、という言葉が一番よく似合う。何となく立ち寄り、何となく話し込み、何となくお勉強なんかもし、そして何となく。
そしてそんなことをするたびに、そこに居ない誰かの気配が感じられる。
いや逆だ。お互いに、そこに居ない誰かの気配を感じ取りたくて、そんなことをしているのかもしれない。
少なくとも、俺はそうだった。だから、今していることは、あの夜の記憶を呼び起こしたくて、そうしているだけなのかもしれない。
とはいえ、時々ふっと、何をしているのか、と冷める瞬間もある。
遊びと割り切るには、俺達の間には、共通の記憶があった。かと言って、お互いに本気になれないのは知っている。好きは好き。相変わらずそれは認める。
コノエのことは今でも好きなのだ。だけどそれは、例えばマキノの言うような、欲しくて欲しがって、という何か熱病なようなものとは違っている。だが単に友達というには、一歩踏み込んでしまった。
冷める瞬間、思う。
……俺はこういう奴だったか?
そして答える。
そうだよ。
自分がこういう奴だということは、何となく予想がついていた。
俺は歯止めを取れば、何処までも転がれる奴なのだ。それを知っているから、普段はきっかりと歯止めをしなくては気が済まないだけなのだ。
確かに外側からの理由なんて色々あった。
母親も、サエナも、皆、確かにそうだ。母親を不幸にしているのに、自分が楽しむことはできないと思っている自分。だけど結局は、それを理由にしているにすぎない。俺は、それを理由にして、自分に嘘をずっとついていた。
奴はそれを見抜いていた。俺をばらばらにして、一つの壁をぶち壊して、そして、その奥の壁を見せつけた。
だったら隠す必要はない。
会った当初はひどく短かったコノエの髪は、あの帰ってきたあたりから、ずっと切っていないらしい。手を差し入れると、ふわ、と柔らかくまとわりつく。
「伸ばすつもりなのかよ?」
何となし、聞いてみた。
「いや、切るのが面倒なだけですよ」
「美容院へ行くくらい手間じゃないだろ」
「美容院なんてこっちで行ったことないですからね」
切ってもらっていたのだ、と奴は暗に含める。
「だから、しばらくは、切りませんよ」
そう、と俺は答えて、奴の背中の骨の継ぎ目を一つ一つ数えだした。そんな動作に気付いたのか、コノエは少しばかり手に加える力を強めた。俺は喉の奥で漏れる声を押しとどめる。
「お前さ、何処でこんなこと覚えたんだよ。彼女だけ、なのにさ」
「彼女だけだから、こんなこと覚えたんですよ」
生唾を飲み込む。
「留学していた時に、向こうの女の子からはなかなか可愛がられる機会がありすぎましてね」
「それはよろしいことで」
「あいにくワタシは、彼女以外の女と寝る気はなかったですから、むしろドミトリーの友達と一緒に居ることを選んでいただけで」
「へえ」
「気楽でしたしね。別に無用なことは聞かなかった。ワタシも言う気はなかった。ただそれでも何となし淋しい夜というものがあるではないですか。そんな時に、何となく手を出していたんですよ」
「へえ」
それはそうかもしれない。遠い海を越えた国で、彼女は向こう岸にいて。
だけどやっと手にしたものも、それはわずかな休暇の間のものに過ぎなくて。奴はまた、その時に戻ってしまったのだろうか。だとしたら哀しすぎる。
胸に感じる体温。俺よりはやや熱い。
「キミこそなかなか妙ですよ。別にそういう素質があるようには見えなかったのに」
「だって俺はお前のこと好きだよ」
「ワタシもキミのことは好きですよ」
だけどそれは、半分が嘘だ。半分は本当だが、半分は嘘。
言葉に引きずられたように、目を閉じる。
呼吸が止まる。時々呼吸のためだけのようにそれを離し、そしてまた閉ざされる。
目を閉じたまま、俺はプールの中をふと思い出していた。
腕が脚が身体が、水の中で、自由になる瞬間。
腕を大きく伸ばして、前へ前と進もうとする。脚を動かして、前へ前へと進もうとする。背には脇腹には水の冷たい感触。ぐるりと取り囲んで、離さない。
遠くにはゴールが見えるんだろうか? だけど水の中、視界はぼんやりとして、決してそれをはっきりとは映し出さない。
だけど泳ぎ続ける。腕を伸ばして、水をかき分けて。クロール。
そして呼吸だけが苦しくなり、必死で顔を上げ、酸素を入れて。苦しいのに、自由になる瞬間を求めて、また水に身体をまかせて。
幾度かの息継ぎの後、俺は、その瞬間を、求めていた。