彼女は俺とマキノに紛い物のオレンジジュースを渡すと、そのまま開店の準備を始めた。
やがて客が入りだし、空調が入ったようだった。
空気の流れが、雨に濡れた俺達の服を冷やす。その冷たさに気付いたのか、マキノはゆっくりと顔を上げた。泣いて泣きまくった目は、すっかり腫れていた。俺は黙って、氷のほとんど融けたオレンジジュースを奴に突き出した。
奴はそれを口にすると、初めは軽く、だったのに、そのまま止まらないように、ぐっと一息に飲み干してしまった。そしてコップを置くと、右手で自分の左の肩を抱いた。
そうしてやっと、奴は俺の方を向いた。小さな小さな声で、こう言った。
「……ごめんな」
周囲は騒がしくなっていた。今日のバンドが何なのか、何気なく聞いていた客の会話から判る。
俺は何気なく、奴のまだ濡れた頭をくしゃ、とかきまぜる。少しばかりの意地悪のつもりだったが、奴は奇妙に気持ちよさそうにそれを感じ取っていた。
「……彼のことが好きだったんだ」
奴は口を開いた。
「知ってたよ」
「……カナイお前、そういう顔、全然しなかったくせに」
「お前には見えなかっただけだよ」
今だってそうだ。お前は一体、何を思い出していたんだ?
「見ようとしてないものが見える訳ないだろ?」
奴はふっと目を伏せる。そう。そうやって目を逸らすから。
「何で好きだったの?」
俺は訊ねた。
「……判らない」
奴は即答する。きっとこれは本当。
「そうだよな。好きなことに理屈なんていらないよな」
頭の中を、あの二人の姿がかすめた。サエナをそういう意味で好きになれないのに、理屈はつくけれど、あいつらを好きなことに俺は理由をつけられない。それまでの、モラルや何かを飛び越えてしまった部分。俺はコノエもタキノも好きなのだ。
背後から歓声が聞こえた。この日のバンドか出てきたのだ。
「……あれ、お前このバンド……」
マキノは顔を上げる。聞き覚えのある音。かき鳴らされるギターの音。
「うん。RINGERだ」
「……フロアの方、行ってこいよ」
ちら、と俺はマキノの方を見る。奴は俺がこのバンドを好きだということを知っている。そしておそらくは、自分がベルファを好きだった部分と、重ねている。少しばかり。
だが俺は。
「いーや」
するりと、それは口からすべり出した。奇妙な高揚感が、あった。
「俺はあそこにたむろしてる女どもと同じ所にいる気はないから」
奴はびっくりしたような目をして、俺をまっすぐ見た。名を呼ぶ。ようやく、俺の方を、真っ向から。
「いつか、あの人と、肩を並べてやる」
口に出してしまうと、それは考えていた以上の快感を俺にもたらした。首筋から背中に、寒気にも似た刺激が一気に駆け抜けた。
それは宣言。俺は何杯目か判らないドリンクのコップを掴んで、ステージに向かってそれを掲げた。
「絶対」
ギターとは違うけど。音楽。バンド。俺の中で、俺自身に絡み付き離さない何かから、俺自身を解放するこの声で。
ドリンクを飲み干して、マキノの方へ向き直ると、奴はまだ目を猫のように丸くしたままだった。俺はコップをカウンター置くと、奴の肩を掴むと、真っ向から見据えた。マキノはびく、と身体を奮わせる。
だけど、逃げるな。
「引きずりこまれるなよ」
言葉に力を込める。俺には、それだけの力なら、あるんだ。
「お前は、やっとみつけたメンバーなんだから」
雨が上がった街中を、ぶらぶらと俺はマキノと喋りながら駅まで歩いた。
奴の話す故郷の空は、もっと星が綺麗らしい。見てみたい、と言ったら、冬ならいいよ、と言った。その時までに、そんな風に俺達はもっと今より仲のいい仲間になっているだろうか?
それとも?
それじゃ、と言って奴は駅の階段を降りて行った。
俺は手を振ると、ふと思い立って、財布の中身を確かめる。そしてその中に入れてあったアドレスも。
電話ボックスに飛び込む。カードの度数が半分くらいしかないから、急がなくては。
五回のコールの後、相手は出た。俺は軽く緊張する。
「あ、もしもし、……親父さん?」