「やっぱりお前、忘れてたんだ」
降り出した雨の中、俺はマキノに言った。
「……やっぱり?」
マキノは声を荒げて俺に問い返す。信じられない、と何で、が混じったような口調だった。
俺達は文化祭が終わった時から、バンド仲間になっていた。それはお祭り用のバンドメンバーではない。もっと上を目指すバンドの、一緒にやっていく戦友としての仲間。
文化祭の時、奴は、クラス展示の時にケガをした木園の代わりを自分から言い出して、その腕を披露した。
思った以上の出来だった。それどころではなかった。俺は驚いた。冗談じゃなく、驚いた。
ナナさんからたびたび、奴が結構上手いということは聞いていたが、奴がこんなに力強いベースを弾けるとは思ってもいなかった。
俺はその時、自分の中で、何かが切れた音を聞いた。
確かにそれまでも、歌は好きだし、だから文化祭でもバンド組もうなんて考えた。だけどそれを、お祭り以上に発展させようとは思ったこともなかった。
気付いたのは、あの夜だ。
コノエとタキノにはさまれた夜。境目の無い夜。
その時に上げた声。何もかも忘れて、俺はただ、自分の感覚に溺れて、声を上げ続けた。
それ自体は、決して心地よいとは言わない。
だってそうだ。その時には、俺の頭の中は、自分の最悪な記憶を引き出しては繰り返し、自分を笑い、自分を責め続けるのだから。
だけど、それをそうと、それは事実なんだ、どうしようもない事実なんだ、と認めた上で放つ声は、何って心地よいんだろう?
背筋を走って、首筋をはい上がって、その感覚は、脳天まで突き抜けた。
俺は背をがくがくと揺らしながら、がくりと頭を後ろに倒しながら、その瞬間、大きく声を上げていた。
それは聞いたことの無い声だった。
口元はだらしなく開いて、笑っていたに違いない。
目隠しされた目は、頭の中に浮かぶ、光に満ちる寸前の夜明け間近の空を思い描いてたかもしれない。
自分の声だというのに、俺に鳥肌を立てさせた。
そんな強烈な声だった。
その中には、何が含まれていただろう?
少なくとも、今まで俺は、その声を聞いたことは、なかった。
隠していた訳ではないが、俺が、その出し方を知らなかった、声。
喉が枯れるまで、出し続けても、決して後悔することのない、声。
頭の中が澄み渡り、そこにある全てのことが、それまで感じたことの無い、身体を突き抜ける感覚と一緒に、頭をぶちぬき、そのまま空へと駆け上っていくようだった。
気持ちいい。
どうしようもなく、俺はそう感じていた。
俺がそれまで、絶対に表に出せなかった部分。
そしてこれからも上手く出して行けないだろう部分。
そんなものを、俺の声は、全て一緒に、空へ放ってくれる。気持ちいい。どうしようもなく、気持ちいい。
あの夜が終わってからも、俺は、無意識にそれを探していた。
上手く空へ放つ方法。
俺が少しでも楽に生きていけれるように。どんなことがあっても、手放したくない、何か。
マキノのベースを聞いた時に、その正体に、やっと気付いた。
思わず右手が、自分の左の肩を強く掴んでいた。
高鳴る動悸を、少しでも押さえようとするように。
動悸。高まる予感。
全身に走る、寒気にも似たふるえ。
見つけた、と思ったのだ。
だが、奴は見つけてなかった。
奴はその時、自分がとても大切なことを忘れていることに気付いていなかったのだ。
「やっぱり?」
奴は問う。何を知ってるんだ、と言いたげに。あの猫の様な瞳を大きく広げて。
「変だと思ったんだ。あの時」
「……いつ」
「ピアノ室で、サエナの話してた時。文化祭の前。お前、自分のタイプはあの人だって言ってたろ?」
ベルファの、トモさんだと。それは確かに事実だった。
「……ああ」
「あの時俺、おかしいと思ったんだ」
「……」
奴は足を止めた。
俺は肩に引っかけた奴のベースがずり落ちるのを直し、ジーンズのポケットに手を突っ込む。奴は奴で、行きつけのスタジオの店員から、トモさんの形見のベースを肩にかけている。
立ち止まる。
雨の音が次第に大きくなっていく。
奴が黙っていれば、いるだけ、その音は俺の耳に大きく響く。
濡れるアスファルトの匂い。
車の音。
何処かの店から流れる有線の音楽。
「お前、最初に俺とピアノ室で会った時、何弾いたか覚えてるか?」
いや、と奴は首を横に振る。だろうな、と俺は思った。
「レクイエムだよ。モーツァルトだかシューベルトだかベートーベンだか俺には判らないけど……」
そして俺も足を止め、奴の方に向き直る。
「お前、気付いていると思っていた。だから弾いているんだ、と思っていたよ、俺は。あの事故のニュースが入った次の日だったし」
これは嘘だ。
俺はあの日がいつだったかは、後で照らし合わせた。
「お前、ベルファのファンだって、あれからちょくちょく言ってたろ?だから……だけどACID-JAMの方にお前は行ってる様子なかったし、……ナナさんも心配していたし」
大粒の雨が、不意に目に飛び込んだ。そのせいか、奴の顔が、ふと歪んだ。
俺は空を見上げる。
真っ白な空。青空ではないのに、ただただ、光だけを残して、白い。
その中から、水滴がぼつりぼつりと顔に落ちてくる。白すぎて、俺は目を細めた。
「カナイ…… ACID-JAMに今から行ってもいいか?」
俺はうなづいた。奴の手を引っ張ると、走り出していた。そうしたほうがいい、とその時、思った。
俺達はびしょ濡れのまま駅に飛び込んだ。
切符を二枚一度に買って、奴をひきずるようにして電車に飛び乗った。
ACID-JAMのある最寄りの駅まで、ずっと俺は奴の手を握ったままだった。
人目は気になる。気にならない訳がない。
ちら、と横に目をやると、俺達と同じくらいの歳の女の子や、もう少し上くらいの女性が、ちらちら、と見ないふりをしながら、それでも見ているのが判る。
勝手にしろ、と俺は思う。
奴はそれをどう思ってるのか、じっと凍り付いたまま動かなかった。
目的の駅につくと、すかさず外に出た。入った時と同じように、改札を出た。
雨はここでも降っていた。傘もささずに、俺達は走った。
大粒の雨。シャワーのようだ。
台風のような?
いや違う。これはシャワーだ。
小学校の時、プールに入るまえに皆で浴びた、強烈な勢いのシャワーだ。
跳ね返る、アスファルトの表面が白い。
ビルが青い。
頭上の濃い灰色の雲、……これはにわか雨だ。
遠くの空が白い。雲が裂けてる。
いずれは上がる。待ってもいい。でも。
今でなければ、駄目なような気がする。
水たまりに足を突っ込んでしまう。ジーンズの裾、靴の中までずぶぬれだ。髪からぽたぽたと雫が落ちる。
俺は奴の手を引っ張ったまま、裏口へと回った。
この時間、誰かが居るとは限らない。いなかったら、空いてなかったらいい。それはそれで。
誰かが来るまで待つ?
それもいい。とにかく、ここまで俺達は来た。
運は良かったらしい。扉は開いていた。
奴は俺の手からするりと逃げた。やっぱり猫の様だ。
そのままするりするりと奴は、細い廊下を小走りに抜ける。俺はその後を追いかける。
店に通じる扉を開けた時、奴は立ち止まった。ゆっくりと足取りを進める。木の床が、軽く音を立てる。
「ナナさん……」
居るのだろうか。居るのだろう。奴の視線は真っ直ぐ、カウンターの方を向いていた。
「……猫ちゃん!」
「……ナナさん……」
肩に掛けていたベースを指すと、奴は彼女の居るカウンターの方へふらふらと近づいて行った。俺もその後からついていく。
奴はたどりつくと、脱力したように、立ったままカウンターに手をついた。
慌てて俺は手を伸ばした。
そのまま崩れ落ちそうな勢いだった。支えた華奢な身体は、震えていた。
俺はそのまま奴をカウンターの椅子に座らせる。すると奴は何か言いたげにナナさんの方へ顔を上げた。
だが何を口にしていいのか判らないらしい。ただその大きな瞳で彼女を見つめただけだった。
俺ははっと目を見開いた。
彼女の手が、奴の濡れた頭に触れた瞬間、奴の大きな目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「……よく来てくれたわ猫ちゃん……」
ぽんぽん、と彼女はその白い腕を伸ばして、優しく奴の背を叩く。
そのまま奴はカウンターにつっぷせた。その背が時々けいれんするかのように震えている。
「猫ちゃんがもう、ここには来ないんじゃないかって、あたし達ずっと心配していたのよ……」
ナナさんは優しく言う。
「ナナさんやっぱり、こいつ、今の今まで忘れてましたよ」
「……そうね。そうじゃないかって、思ってたわ。カナイ君ありがとう。君が教えてくれなかったら、またあたし達はトモ君の二の舞をするところだったのね…… 同じ間違いを繰り返すところだったのね」
彼女は半ば独り言のように言った。
何か、昔あったのだろう。だから彼女は、マキノのことをずっと心配していたのだ。
不謹慎かもしれないが、少しばかり、妬けた。