もっと厚いものだった。熱いものだった。そして彼女のようにゆるゆると舐めるようなものではなかった。
俺は、考えることを忘れていた。
普段の奴からは想像のつかない。強引に、その舌が、俺の中に入ってくる。慣れない感触に、俺はどうしていいのか判らなくなっていた。
さっきのように、もがいて逃れられるのなら、そうしていたかもしれない。だけど、今度は違う。背中はコノエに抱えられ、足の上に、いつの間にかタキノが乗っている。身動きができない。
ようやく解放された口で、俺ははあはあと息をする。肩が上下に動く。だけど奴の手が、そのままあごの下を動く。耳の下まで走る。くすぐったさと不快感と混じった、奇妙な感覚が走る。
何をやってるんだこいつは。
頭の半分が、そう叫んでいる。タキノならともかく、コノエだ。男。野郎なんだよコノエは。何で俺にキスするんだ?
何で、俺は、それで、本当に嫌がったりしていないんだ?
塞がれていたせいで、ややぼんやりとする視界の中に、彼女がブラウスを取る姿が映った。そして、後ろの手が、俺の制服のネクタイを取るのが。シャツのボタンを外しだすのが。
「……何考えてるんだよ……」
俺はようやく、それだけの言葉を思い出したようにつぶやいた。
「キミはそれがどういう気持ちになるのか、自分自身に判らないようにしてるから」
「……どうしてそんなこと、判るんだよ……」
「判るよね」
「判りますよね」
前と後ろからのステレオ放送だ。同じ意味の言葉が、違う音で流れている。
「何でか知らないけど、キミはそこから逃げてる」
「俺が何から」
「セックスと。それに絡む現実から」
「俺が、逃げてるって……」
「気持ちいいことから、逃げてる。マキノ君は、それをそのまま受け止めてる。キミはそれが気持ちいいと認めるのから逃げてるのじゃなく、それが気持ちいいことだと知ってるから、逃げてるんだ」
いつもと違う口調。耳元で、コノエの声が響く。いい声だ。俺より低い。気持ちいい声。外されるボタンの数が増えていく。
「でも、一度やってしまえば、キミは逃げる口実を無くすの」
タキノまでが、いつもとは違う、何やら神託めいた口調で、俺にささやく。彼女は彼女で、俺のベルトのバックルに手を伸ばす。ボタンを外す。チャックを下ろす。慣れた手つき。
「キミは、壊されたいんだ」
びくん、と俺は低いその声に反応する。奴の指先が、はだかれた胸の上を、首筋を、鎖骨のあたりを。
「キミの中の何かが、キミを責めるから、キミは、気持ちいいことができない。気持ちよくなってはいけないと思っている」
……そうだ。
「そんな資格は、自分にはないと思ってる」
交互に聞こえる声。だんだんどっちがどっちでも、どうでもいいような気がしてくる。
視界がまた、ふさがれる。しゅる、という音が耳に飛び込む。やや冷たい感触が、目に巻かれる。ネクタイ?
別に今まで意識して何か見ていたという訳でもないのに、見えないということ自体が、俺を一気に敏感にする。
「本当は、そんなこと、誰にも無いんだけど」
「だけど自分で自分を縛ってる。キミは自分を責めてる。何に対してか知らないけど、自分が悪いと思ってる」
そんなことが、あっただろうか。
あったかもしれない。胸が痛むことを忘れようとしている、日々の出来事達。電話の前の母親。悔しそうなサエナの顔。俺のせいじゃない俺のせいじゃない、と思いながらも、俺の何処かが、俺のせいだ、と俺を糾弾するのだ。
だって俺は聞いていた。母親は、ついて行きたかったのだ。親父のところへ。決して熱烈にそういう素振りを見せる夫婦じゃない。だからあのひとは、親父の転勤が決まった時にも、物わかりのいい主婦の顔をしていた。親父はそれを信じた。信じたかったのかもしれない。
だけどあのひとは。
電話を待つあのひとは。
あの子が居るから、行けないのよと電話の向こうの遠くの姉妹に話していたあのひとは。
見たことの無いひと。俺の知らない、ただの淋しい女性。
このひとをこうしてしまったのは、俺のせいだ。俺が悪い。俺が悪いんだ。
だから、俺には、自分一人で楽しくなってしまうことは、できないんだ。本当の意味では。気持ちよくなってはいけないんだ。幸せになってはいけないんだ。
俺は。
―――ぐるぐると、閉ざされた目のせいか、思考が回り出す。
いつのまにか、腕に背中に胸に腹に足に当たる、二人の手やら腕やら胸から、布の感触が消えていた。
むきだしになった場所に、前から後ろからタキノとコノエは何やら触れている。どう触れているのか、見えないだけに、触れられているという感覚だけはとんがり出す。
やめてくれ、という気持ちとやめないで、という気持ちが俺の中でせめぎ合う。
やめてくれ。俺にはお前らにそこまでされる価値はない。
やめないで。俺を壊してくれ。自分を責め続ける俺を、お前らのその……
ふっとナナさんの顔が浮かぶ。白い腕が浮かぶ。それはあなたが悩むことじゃないわ。
そうなんだろうかナナさん。俺は楽しんでいいんだろうか。本当に、心の底から、声を張り上げて、いいんだろうか。
ああそうだ。告白するよ。
母さんあんたのその姿を俺は見たくないんだ。あんたのその姿はそれだけで俺を責め続けるんだ。俺のせいで電話線の遠くの自分の夫のもとへ行けないんだと。行けばいいんだ。俺はそれでいいんだ。それがいいんだ。行ってしまってくれ。俺はあの時気付いてしまったんだから。あんたは親父より俺が大切な訳じゃ、決してないんだから。あんたの義務とか対面とかそういうものに、俺はつき合わされたくはないんだ。
マキノ俺はセーブしているんだよ。あのひとの姿を見るたびに。あのひとの口からサエナの誉め言葉が出るたびに。彼女はサエナを誉めながら嫌っているんだ。俺は知ってる。出来過ぎたよその娘。あのひとはサエナが嫌いだ。俺は知ってる。だから、あのひとの前でサエナをどうこう思うことすらできなかったんだ俺は。サエナは嫌いじゃない。もしかしたら、何処かの未来では、俺も彼女にそういう気持ちをちゃんと持てるのかもしれない。欲望も湧くのかもしれない。だけど今は駄目なんだ。あのひとが、サエナのことを話す時の言葉に含まれるものに気付くうちは。
そしてコノエ。俺は。
タキノ。俺は。
すっかりと力の抜けた足が、何となく腰から持ち上がるのを感じる。ずいぶんな力だ…… そのまま引き上げられ、立ちひざにされられた。そこに前からの手が来る。俺はバランスを崩して、前のめりに倒れ込む。ふにゃ、という感触があごのあたりにする。腰を突き出したような間抜けな格好で、俺はタキノの胸に顔を埋めていた。
そしてタキノの手は、片方は俺の首に回され、もう片方は。
そしてコノエの手は、片方は俺の腰を抱え込み、もう片方は。
「壊してくれ……」
口から、そんな言葉が、漏れた。
「壊してあげる」
二人の言葉が、呪文のように重なる。
……揺れる。