一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ったので、俺達は教室に向かった。ざわつく部屋の中をざっと見渡したら、懐かしい顔があった。
「コノエ」
「おはよーございます。二時間目からとはなかなかキミも」
冬服を着た、奴の姿が、俺の席の後ろにあった。何となく、少しばかり頬の感じが鋭くなっている。少し痩せた?
俺は奇妙に目頭がつん、と痛くなった。一ヶ月だった。コノエが姿を見せなくなってから。席につくと、くるりと後ろを向く。何となく気だるげな笑いがそこにはあった。
何かひどく嬉しい。胸の奥底から、じわじわと熱いものがわき上がってくるような感覚が起こる。
そのままぼんやりとしていたら、不意に奴は、指を伸ばした。そしてもう片方の手で俺の頬をくっと掴む。
「な」
「ああじっとして。まつげに虫が」
まつげに虫!? 何ってものを見つけるんだ。
「蚊柱なんかもういないぞ」
「んなものここいらにありますかって。単なる羽虫でしょ」
真剣な目が、目の前にある。じっとしてというものだから、目を閉じることもできない。
はい取れました、と指を見せて、黒い点が確認できた時、俺はほっと息をついた。そしてその様子を見ながら、コノエはどことなく、いつもより穏やかな笑みを浮かべていた。
「何だよ、じろじろ見て」
「いや、元気そうで何よりと思って」
「何やってたんだよ、一ヶ月も」
「病欠ですよ。とりあえずそうなってたんじゃないですか?」
嘘だ、と俺は反射的に思った。
確かにそんなこと、担任も言っていたような気がする。だけど俺は、そんなこと全く信じていなかった。根拠は何処にもない。ただあの日の、最後に見た奴の姿が、俺にそれを信じさせなかったのだ。
「どうしました? ワタシの顔に何かついてますかね」
俺は黙っていた。何を言っていいのか、判らなかった。何を言っても、何かそれは、俺の言いたいこととは違ってくるような気がする。
だけど何か、言いたい。言いたいことがあるのだ。
奴はちょっとばかり困ったような顔をして目を伏せた。そしてとん、と次の時間の教科書を立てた。そこで俺ははっと我に返る。そうだここは教室だ。言いたいことがあるにせよ、それはここで言うべきことではない。
「カナイ君や」
コノエは乾いた声を立てた。
「タキノが、またキミにも会いたいって言ってましたよ。……今日暇ですかね」
思わず俺は、うなづいていた。
バンドの練習も、マキノのピアノも、何もかも放っておくだけの価値が、そこにはあった。
チャイムが鳴る。だけど授業も何か、手につかない。何度も時計を見る。時間が経つのが遅い。もどかしい。
そして、時々後ろから、奴はシャープでつつく。
振り向きそうになって、困った。
*
「あ、カナイ君だ」
扉を開けると、タキノが笑顔で出迎えた。だが俺は、目を疑っていた。
俺の頭の中の彼女のイメージは、短い髪に、ほっそりした腕や足を元気よく出した、子供っぽさを大いに残した姿だった。それでいて、コノエとの関係は関係で、何かしら生々しいものがそこにはあるのだな、というものを感じさせるあたりが、実にアンバランスで不思議だったのだが。
だが。
そこに立っていた彼女は、俺の知っている彼女とはやや違っていた。
秋になったからだろうか。あの腕も足も、長い袖の大人しめのブラウスや、足首近い程の長さの、濃い色のスカートに隠されてしまっている。見ないうちに、髪も少し伸びている。
「どうしたの? 早く上がればいいのに」
そう言って彼女は手をひっぱる。そういう所は実に彼女らしくて、俺は何となくほっとする。だが部屋の中に入ってみて、再び俺は驚いた。
何も無い。
元々その広さの割には、物がある部屋じゃなかった。なのにそれどころではない。
確かにまだ寝床は残っている。その上に敷く物も。食事をするためのテーブルもあった。だがその他のものは、見事な程に、そこから消えていた。
替わりにあったのは、大量の段ボール箱と、丸められたカーベットやら、バッグの類。
「引っ越すのか?」
俺は素直な感想を口にする。まあそうですね、とコノエはさらりと受け流した。
「また新しい所に落ち着いたら、キミも来てほしいですがね」
「こんな時に、俺呼んで、いいのか?」
「こういう時だからこそ、来て欲しかったんですよ」
ね、と奴はタキノの方を向く。彼女はいつもの半分の笑顔でうなづいた。
何かあったんだ、と俺は思った。無論何かあったから、あの時二人は俺を追い出したのだろう。そしてそれが、この引っ越しにつながっている。それは俺にだって判るのだ。
だけど、二人はそれを言いたがってはいない。少なくとも、今この瞬間は。
「とにかく、お腹空いてない?今日は、ちょっと腕を奮ったんだよ」
「そうそう。冷蔵庫にはワインとかビールとかもあるし」
「……わいん…… かよ」
コノエはにっと笑う。そういうことに、慣れている顔だ。ライヴハウスで、俺につきあってノンアルコールのドリンクを頼んでいるのとは違う。
「呑めない?」
「判らない」
素直ですね、と奴は再び笑った。
だってコノエ、お前にそんなところで嘘ついても、見破られてしまう。だったら、本当のことを言ってしまった方がいい。
がらんとした部屋の中、真ん中に残されたテーブルの上に、次々と、これまた冷蔵庫から出された料理の数々が並ぶ。よくこんなに入っていたもんだ、と俺は思った。
暖かい料理は殆ど無かった。よく冷えたサラダが数種。特にパスタの入った奴の味は、隠し味のスパイスがよく効いている。薄く切ってひらひらと花のように盛ってあるローストビーフ、そしてこれだけは暖かい、ゆでソーセージとスープ。果物の盛り合わせ。
「本当にこれ全部、タキノが作ったの?」
彼女はうなづく。コノエもそれに続けて言う。
「タキノは料理は得意ですよ。とっても」
そして氷を入れたバケツ? に、ワインが数本。赤いの白いのロゼ、と揃っている。何やら読めない言葉でずらずらとラベルに名前が書かれている。
奴はその中の赤をがら、と音をさせて取ると、三つのグラスに注ぎ入れた。綺麗だな、と俺は軽く泡を立てるその様子に目を奪われた。
はい、とその中の一つを奴は俺に手渡した。そしてもう一つを彼女に。彼女は目を伏せる。長いまつげ。何かがちくり、と俺の胸を刺した。
「それでは、乾杯」
慣れた手つき。俺はそれに精一杯合わせて、グラスを合わせる。彼女も一緒に。―――と、ガラスの微かな音が、がらんとした部屋に一瞬響いた。
一口含む。全くアルコールを口にしたことが無い訳ではないが、かと言ってそう機会がある訳ではない。それに、選ぶ目の無いガキが手に入る類は、たかが知れている。
だがこの時、俺は本気で、このワインが美味しいと思った。口当たりがいいせいかもしれない。苦みが少ないせいかもしれない。だが甘すぎることはない。ただ、爽やかだった。本物のオレンジジュースとかの持つ爽やかさとはやや違うが、俺は確かにその時、そう思ったのだ。