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第15話 「カナイは誰かを好きになったこと、ない?」

 俺? と奴は目を大きく拡げる。


「笑ってごまかすんじゃねーぞ?」


 奴は苦笑する。唇の片側だけ上がる。言っていいものかな、という表情だ。


「驚かない?」

「驚かない」


 だって俺は。ただ。


「BELL-FIRSTのトモさん」


 奴の口からその言葉はするりと飛び出した。何の迷いもなく。

 俺は五秒ほど動きを止めた。答えに驚いた訳じゃない。だって俺はその答え自体は初めから知っている。驚いたのは、その答えが奴の口からこうも簡単に出てきたことだ。

 そして俺の口からは。こんな台詞しか出てこない。


「冗談はよせ」


 奴を軽くこづく。口が乾いて仕方がない。俺はブリックのコーヒーを含んだ。


「だってカナイ、お前もRINGERのギタリストさんが凄いとか言ってなかったっけ?」

「馬鹿やろ」


 吐き捨てるように、俺は言う。それとこれとは別だ。―――別だと思う。


「別にからかってなんかいないよ」

「あのなあ。俺は単純に憧れてんの」


 奴の目が意味深に動く。


「そりゃ俺は、ギター弾きじゃあないから、ギターだけじゃないなあ。楽器弾きじゃないから、歌うことしかできないけれど―――」


 そして俺はほんの少し、考える。俺は、どうなりたいんだろう。憧れている。だけど。


「俺はね、あの人と対等に話せるようになりたいんだよ」

「対等」

「そうだよ、対等。俺いつも思うもの。……あのさ、ライヴハウスに来る女どもって居るだろ?」


 うん、と奴はうなづく。


「あれってさ、結局、別の次元に居るって感じ、しねえ?」

「別の次元?」

「うん。そりゃさ、例えばファンでも、コアなファンでさ、追っかけって類?……打ち上げとかついてきて、結局寝てしまうこともあるっての、あるじゃん」


 俺は慎重に、言葉を選ぶ。あるね、と奴は答えた。


「でもそれって、結局、スターとファンの関係に過ぎないだろ?」

「スター――― ってお前、その言い方……」

「うるせーっ! どうせ俺はボキャブラリィが少ないよ!」


 俺はやや赤面する自分を感じる。言葉を選んでいる時に、そう指摘されるのは、なかなか辛い。


「とーにーかーくー、バンドの奴は相手をファンとしか見ないし、ファンは相手をバンドの人とかしか見ないだろ? もし寝たとしてもだよ?」


 言ってからしまった、と思う。この例えだとちょっとまずいかも。とにかくまとめに入ろう。


「俺、そういうのは嫌だから」

「でもファンから本当に深い仲になる場合だってあるだろ?」

「あることはあるさ」


 だって、お前は。


「だけど俺は、嫌なの、俺はね」

「カナイは、嫌なんだ」


 奴は真顔で訊ねる。


「お前はいいの?」


 慎重に訊ねる。

 だって俺は知っている。奴がそのものだ、っていうことは。


「俺は――― 別に。双方結局好きならいいんじゃない?」


 そして終わりよければ全てよし、と何処かの国の作家のようなことを言う。少しばかり奴は視線を空に飛ばした。俺は何か奴にもう少し聞きたいような気がしたが――― 何を聞いていいのだか、判らなかった。

 そして逆に。


「あのさあ、カナイは、誰かを好きになったこと、ない?」


 心臓が、飛び跳ねた。俺はえ、と問い返した。


「憧れじゃなくて、欲望つきの奴」


 急な質問に、返す言葉が無くて、黙っていたら、奴は無いんだろ、と決めつけた。

 さすがに俺も少しばかりかちんと来た。


「お前はあるのかよ」

「あるよ」


 マキノは即座に言い返した。


「今年初めてだけど、俺はあるよ。欲しくて、欲しがって」

「あ、そう……」

「そういう時まで、そんな建て前守っていられる?」


 建て前? 建て前と言うんだろうか。

 時々考える。決して間違ったことは言っていない、考えてないと思う。それは自分の本心だと、思う。なのに、それは時々、人からしたら、建て前のように聞こえるらしい。

 建て前。そうかもしれない。俺が口に出すのは、だいたいにおいて、俺の努力目標みたいなもんだ。こうなりたい自分。こうしたい自分。そういうものが、口をついて出るのだ。嘘ではないが、確かに建て前なのかもしれない。

 だとしたら、俺には、それを越えてしまう瞬間というのがあるのだろうか。

 この一見大人しそうな奴が、あのベーシストさんにそうしたというのだろうか。


「判らん」


 思わず俺はつぶやいていた。奴への質問への答えだけではない。自分自身に対しても、俺はそう言っていたのかもしれない。


「でもその時は、その時だ」


 奴はそれを聞いて、くくく、と笑った。俺は何だよ、と顔をしかめる。


「で、どうなの?カナイ」

「何が」

「サエナ会長。彼女、お前のこと好きなんでしょ?」


 俺は思わず頭をかきむしる。


「あのなあマキノ…… さっきのその、お前の話の流れで行こうか。俺はサエナは嫌いじゃない。だけど、欲望は持てない」


 ああ、と奴はうなづいた。


「いい人なのにね」

「いい人だよ」


 全くだ。それについては、異論のはさみ様がない。何せ、判ってしまうのだ。例えば、何気なく見せる姿。嬉しそうな表情。彼女なりの、アドバイスという奴。あちこちから、彼女の思いという奴はこぼれていく。

 だけど、やはり哀しいかな、俺としては、彼女に対して、そういう目で見ることはできないのだ。

 サエナの腕も、細くて白いのかもしれない。だけど、きっと俺は、その白さには心を動かされることはないのだ。

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