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第11話 「ねえカナイ君、それって、レクイエムだよ」

「何してんの?」


 マキノは初めて俺に声をかけた。

 俺はその時焦っていた。追いかけてくるサエナから逃げていた。

 いや、逃げる必要は何処にもなかったのかもしれないけれど。

 とにかく、俺はその時、窓からピアノ室の中へと飛び込んだ。

 古い建物の窓は、押し上げる形のものだ。俺はぐい、とそれを開けると、そのままピアノのずるずるとしたカバーの下へと身体を潜り込ませた。

 放課後四時過ぎ。俺は一つの決心をもって職員室へと向かっていたら、彼女に見つけられた。

 別に、知らん顔をして職員室へ入れば良かったのに、ついぱっと背を向けてしまった。それがまずかった。いや別に悪いことをしようとしていた訳じゃない。ただ、文化祭にバンドをやろうとしていただけだ。

 その届け出を出すべく職員室へ向かっていたのだ。

 ところが。

 つい背を向けてしまったので、職員室が遠くなってしまった。

 彼女がそれをこころよく思っていないことを俺は知っていた。会うとちょくちょく彼女は漏らすのだ。文化祭を盛りあげよう、と言っているくせに、俺には教師の心証が悪くなる、と注意する。

 そう言われると、つい意地でもやりたくなってくるのだ。

 やがて、ピアノの音が再び流れ出した。下で聞くと、いつも聞くのとはやや違った音に聞こえる。だけど上手い。少なくとも、途切れなく弾いている。

 だがその音色は。

 何だったろう。これは。

 何か、記憶にあるのだ。何の曲だったのだろう。誰の、ではなく、何の。クラシックには違いないのだけど……

 やがてがらり、と戸の開く音がした。入り口からは聞き覚えのある、よく通る声が。


「お邪魔してごめんなさい。こっちに男子生徒が一人やって来なかったかしら?」

「さあ……」


 マキノは素っ気なく答える。その素っ気なさのせいか、彼女は少し見渡したのだろうか? すぐにピアノ室から出て行った。俺はピアノの下から這い出すと、苦笑を向ける。


「助かった、ありがとう」

「それはどうも」


 ピアノを弾いたまま、奴は素っ気なく答える。そのあまりにも徹底した態度には、俺としては正直な感想を述べねばなるまい。


「素っ気ないなあ…… ま、その素っ気なさのおかげで助かったんだけどさ。……それにしても、お前上手いなあ」

「うん?」


 奴は手を止めた。


「ピアノがさ」

「……ああ…… 小ちゃい頃からやってはいるから」

「へえ…… すげえの」


 そう言いながらも、奴の目は、何かを探っているかのように、どうも落ち着かない。やっぱりな、と俺は再び苦笑しながら訊ねた。


「もしかしてマキノ、俺のこと、忘れた?」

「ごめん」


 素直に奴は謝る。おや意外。


「覚えていてくれよなあ。クラスメートなんだからさあ。カナイだよカナイ」

「あ、……ああ、そぉか。仮名のカナイ君だったよなあ」

「そ、仮名文字のカナイ君でもいいのよ」

「OK、記憶した」


 奴は手を挙げた。ああ、そういうことなんだな、と俺は思った。

 どうやら、意識しない限り、奴は人を覚えたくはないのだ。少なくとも、この学校の中では。

 何となく話題に困る。仕方ないから俺は、さっき気にかかったことを口に出していた。


「……何って言ったっけ、その曲? 何かひどく重いけど」

「さあ……タイトルまでは。忘れた」


 譜面は置いてはいない。どうやら暗譜してはいるらしい。


「そういうもの?」

「まあね。結構手が覚えてるものだし」


 素っ気ない態度。どうやらそれ以上会話を続けようとする意志は奴にはないらしい。そういう時には、下手に続けても無駄なのだ。


「……ま、いいさ。とにかくかくまってくれてありがと」

どう致しまして」


 俺はひらひら、と手を振った。



「……それって、レクイエムじゃないの?」


 背中を向けたまま、タキノが言った。

  いつものようにコノエの部屋に来たら、珍しく彼女が料理をしていた。


「夕食?」

「じゃなくて、作り置き」


 作り置き、ということは、普通の料理はできるということになる。全く普通の料理もできない奴は、作り置きのものを作るという発想すらできない。


「タキノ」


 奴に呼ばれて彼女は振り向いた。その笑いに俺ははっと息を呑む。何だろう。この表情は。笑っている、はずなのに。


「作り置きをしなくてはならない?」

「しなくちゃ、いけない」


 彼女は目を細める。そしてくるりと再び背を向けて、塊の肉に、凧糸をぐるぐると巻き付けていた。そして背を向けたまま、さっきの言葉の続きを俺に向かって投げる。


「ねえカナイ君、それって、レクイエムだよ」


 これって何って曲だったかな、と俺は二人にメロディだけを口ずさんで訊ねていた。


「れくいえむ?」

「鎮魂歌。お葬式の曲。知られてるよ、そのメロディ」


 葬式の曲。


「何処かで聞いたんですかね」


 そう言いながら奴は、タキノに近づくと、ゆっくりと後ろから腕を回す。彼女はじっとしたまま、作業を続けている。きゅ、と音がしそうなくらい強く、肉の塊に巻き続ける。

 だけど言葉は。言葉の調子はまるで変わらない。

 その変わらなさが、何となく、変な気がする。だけど何が変なのか、俺には判らない。何か、おかしい。何かが。

 だけど。


「……そういう曲って、何となく弾くもんかなあ」


 俺はとりあえず質問の続きを投げ返す。言葉だけが、妙に平板だ。


「少なくとも、手慣らしで演奏する曲じゃないと思うけど」


 コノエはそういう俺達の会話など聞いているのかどうなのか。彼女に回した手の力が、強くなっていくのが、後ろで見ているだけの俺にも判る。

 何やら、ぼそぼそと言葉が耳に届く。コノエの口が、微かに動いている。何か奴は言っている。だけどその意味が判らない。判らない言葉。

 やがてそれに、彼女の声が絡む。ぼそぼそぼそぼそ。判らない言葉。判らない発音。判らない単語。何処かの言葉。

 ……何処かの。


「……誰か、弾いていたんですか」


 いつもより押さえたことが判る奴の声が、俺に問いかける。俺はその声の冷たさに、血の気が引くのを覚えた。

 聞いたことのない、口調。


「マキノ君が、弾いていた?」


 いつもの言葉だ。奴のいつもの。言葉だけは。

 だけど。

 口調は、明らかに、出ていけ、と、俺に、言っていた。

 俺はふらふら、と扉に近寄った。帰るの、とタキノの声が、訊ねる。冷えた声。じゃ明日、と奴が言う。身体がすっと冷える。

 いつの間にか、扉を開けていた。静かに開けたつもりだったが、手を放して、吸い寄せられた扉は、大きな音を立てて閉まった。

 判らない言葉を、話していた。

 判らない……


 けど一体、俺は奴のことをどれだけ知っていたというんだろう?


 奴が答えようとしなかったから、聞かなかった。だけど。もう半年だ。半年近く、かなりの時間を一緒に過ごしてきたというのに、俺は奴のことを、本当に知らない。

 タキノがきょうだいだという。だけど血はつながっていないという。だけど一緒に暮らしている。二人は好き合っているらしい。そしてそれが許される。

 どうして、許されているんだろう?

 奴が、彼女を抱きしめる手が、その強さが、妙な生々しさをもって頭の中に浮かぶ。慣れない俺には、思わず赤面してしまうくらいの。

 そして封じ込めていた疑問が、一気に俺の中に押し寄せる。


 何なんだ、奴らは。


 封じ込めていた。封じ込めてでも、あの二人と居るのは、楽しかったからだ。文化祭にバンドをやろうと思ったのも、結局はあの二人の言葉があったからだ。

 いつものように遊びに出た時。

 ―――そうだあれは、カラオケに行った時だ。

 普段はカラオケなんかじゃ見かけない、好きなバンドの曲があったんで、俺は思わずそのナンバーを押してしまった。二人とも何やらきょとんとしていた。だけど俺は嬉しかったから、いつもならしない、立ち上がって台の上で歌うなんてことをしてしまった。

 そうしたら、座っている時よりも声は伸びた。ヴォリュームが壊れているのか、と思うくらい、それはボックス中に響いてしまい、コノエが慌ててマイクのヴォリュームを下げたくらいだ。

 そして奴は言った。何か凄い声してますねえ。

 タキノも言った。カナイ君歌えるんだあ。

 そして二人とも言った。歌ってみればいいじゃない。たくさんの人前でも。

 考えたこともなかった。

 歌うことは好きだった。だけど、人前で歌うことは考えたこともなかった。そりゃもちろん、音楽の授業で人前で歌わされることはあった。だけど、その時、そんな風に、言った奴はいない。

 何となく、胸の中にむずがゆいものが走った。そして何かが背中を押したような、そんな感じがした。訳が判らない、予感がした。

 そう言えば、そうだった。奴らはそうやって、俺の背中を時々押している。

 俺のことを、時々、俺よりよく知っている。知らなかった部分を見つけだして、見えなかった部分をほらこれだよとトレイに乗せて差し出す。ほらこれだよ、どうするかはキミの自由だよ、とばかりに。

 なのに、俺は、奴らのことは、結局何も知らない。

 何で高校生レベルを越えているのか。

 何で血のつながっていないきょうだいとそんな関係で居られるのか。親は何処にいるのか。実家はどこなのか。

 何で判らない言葉を交わすのか。

 奴らは、何なのか。


 頭が、くらくらした。


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