結局その日は行くのは止した。
だけどそうそう昨日と同じコースをたどるだけというのは面白くない。
それでも早々に家に帰るのだけは…… 気が進まない。
とりあえず俺達は図書室へ行った。カバンで席を確保し、本を求めて奴とは別行動を取る。
俺は高い本棚が並ぶところへと探索に出かけた。本棚の向こうには、高い窓が丸い曲線を頭に描いている。夕方の光。
三十年四十年くらい前に出たミステリやSFが当たり前のように棚に並んでいる。最初にこの図書室に来た時、この当たり前さに感動したものだった。
借りる本ととりあえずこの場で読む本を物色して、とっておいた席に引き返す。
別に家に居るのが嫌という訳ではない。だけど帰ったところで何があるという訳ではないのだ。だがやはり帰るべきところは家しかない。
勉強――― しなくちゃならないのかもしれないが。ただつい持ち上がりを中学高校とやってきてしまうと、どうも勉強というものに対する緊張感というものが無くなる。そう悪くもないからよけいに。
べらべらと数ページを読んでいたら、机の向こう側に気配があった。顔を上げると、見覚えのある奴。
「帰らないの?」
サエナが目の前に立っていた。
「何か用ですか? 先輩」
「幼なじみにそういう言い方ってないでしょ」
「先輩は先輩でしょ。今は同じ学校だし」
そういうと彼女は両手を机についた。
「電話してもいつもいないし。おばさまの話じゃ、最近あなた帰り遅いんですって?」
「まあね」
「あまり誉められることじゃあないわよ」
うるさいな、と俺は本を閉じる。お前に誉められたくて行動してる訳じゃないんだ。いくら生徒会長さまさまと言っても。
「で、サエナお前、何の用なの? 本当に。用がないなら、俺帰るよ」
「え……」
彼女はやや戸惑ったような声を上げる。
「さっさと帰る。それなら問題ないだろ?」
「……ええまあ…… テストも近いんだし……」
それじゃ、と俺は「先輩」に向かってさよならをすると、本を閉じ、貸し出しにさっさと向かい、図書室から出た。
金属の、塗装のはげた古めかしい丸いノブを回すと、軽くぎい、という音がした。途端に目に夕陽が飛び込む。
悪い人じゃないのだ。それは知っている。
サエナは幼なじみだ。家が近かったし、親同士が元々仲がいい。小学校に上がる前から度々遊んでいた。面倒見のいい年上の彼女に、俺はその昔、ただくっついていた分だった。
だが俺はこの学校に小学校から入ってしまい、彼女は普通の公立へ行った。
まあそれはそれでいいのだ。学校違っても遊ぼうね、で済む次元なのだ。楽しい優しい頼もしい女友達。自分の学校で起きた厄介な問題も、結構一つ上ということから自分なりの解決法を考えてくれる優しいお姉さん代わり。それはそれで良かったのだ。
それだけだったら、俺はずっと彼女を姉のようにして楽しくつき合っていられただろう。俺には兄貴しかいなかったから、頼りになる女のきょうだい(のようなもの)は居心地の良い存在だった。
だがそう思っていたのは、俺だけだったらしい。
彼女がうちの高校を受験すると聞いた時には驚いた。反射的に俺は、嫌だ、と思った。何か判らないけど、ひどく、嫌だった。
だがサエナは優秀だった。うちの外部入試に、おそらくはトップで入っている。その後の成績も、内部も含めてトップを通しているのだから、間違いないだろう。
あの性格だから、教師達のおぼえもめでたく、何かと先頭切って走ろうとするだろう。そんな性格のおかげで生徒会長。……この学校では、女子では初めての。
そして彼女は俺が高等部に上がってから、わりあい気軽に声をかけてくる。持ち上がりのようなクラスメートの大半は、意外というように目を向ける。良くも悪くもない。それ自体は。だけど、何か、嫌だったのだ。
彼女の向ける言葉、視線、仕草の一つ一つが、昔とは違う。確かにまだ姉さんめいてはいたけれど、何かが違ってきている。
無言の、メッセージ。……俺に向ける、何かしらの感情。
あなたは弟じゃない。私はあなたの姉じゃない。
……そんなことをつらつらと考えていたら、後ろから頭をはたかれた。夕方の光に、その髪がいつも以上に明るく透けて見える。苦笑する顔。
「ひどいじゃないですか。置いてくなんぞ」
「あ、ごめん」
そういえば、一緒に来ていたのだった。コノエはおどけた顔をして肩をすくめる。
「ふくはら会長さまとお友達なんですかね。なかなか意外な」
「ねーさんみたいなものさ」
「サエナ嬢、美人ですな」
「そうなのか?」
「そうですよ」
あっさりと奴は答える。珍しいことだ。クラスの中の誰もそういうことを言ったことはないのに。
「ああいうね、流行を全く気にしないのに美人ってのは珍しいんですよ」
「へえ。そういうのが趣味?」
「いや別に。彼女は客観的に見て美人。ワタシの趣味は一人しか居ませんから」
そんなことを言って、やや芝居がかった調子でうっとりと目を閉じて両手を胸の前で交差させる。
「……本当に好きなんだなあ」
「ん?」
「タキノのこと」
「そりゃあまあ。あれがいなかったらワタシは生きてはいけないですからね。それを好きというならワタシは彼女がとても大好きなのでしょう?」
……俺は頭を抱えた。何か論法が変な様な気がするんだが……
「ま、それはそれとしてね、カナイ君や。ライヴ行く気もなくぶらつく気もないんなら、うち、来ますかね」
「……お前んち?」
「そう、ワタシんち」
ふらり、と明るい髪が揺れた。
「ワタシんち」は、学校最寄りの駅を真ん中にはさんで、点対称くらいの場所にあった。わざと蔦をからめてある、十五階建てのケーキのクリーム的な壁のマンション。
カードキーを通して、パスワードを押して入り口が開く。ちょっとばかり時代がかった感じを心がけてるのかと思ったら、中はハイテク。何かアンバランスだ。
「三階ですからね、歩いてきましょうな」
「エレベーターがあるのに?」
「好きじゃないんですよ」
何だかなあ、と俺は思う。そう言えばこいつは学校以外のところ――― エスカレーターや動く歩道があるような所でも、そういうものには近づこうともしていない。
毛嫌いするような言動は見せたことがないが、やや俺は不思議に思ったことがある。
扉の前まで来たら、今度はポケットからじゃらじゃらと音をさせて、金属の鍵を取り出した。幾つかついたそこから一つを選び出し、やや重たげな扉を開けると、そこには女もののサンダルが転がっていた。
「……ああまた脱ぎ散らかして」
え?
それをきちんと揃えるコノエを見ながら、それが誰のものだか、俺は記憶をたどっていた。