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第31話 春はここにあった

 彼女は少しの間、嫌そうな顔をしたが、やがて、いいだろうと言った。

 そんな内容なら、別段構わないだろう、と思ったのだろう。


 だが。


 今までに見たことの無いほどの、凶悪な笑みを、奴は浮かべた。

 そして数歩後ずさる。首を軽く振る。

 そして。


 …


 暗号のように、その低い声は、響いた。

 大きな声を出している訳ではない。何を言っているのかもよく判らない。

 喉の奥から吐き出すような、低い、低い、声が、その時あたり一面に、響き渡った。

 奴はふらり、と首を大きく回す。

 声が辺りに散らばる。

 彼女の表情が変わる。

 小さなつぶやきが、耳に届く。

 女の子じゃなかったの!? ―――明確な怒り。

 彼女は、焦げ茶色の兵士の手から、銃を奪い取る。

 どうしたのですか、と叫ぶ兵士。

 だが上官の剣幕に、手はつけられない。

 怒り。確実に怒り。

 俺が見たこともない、彼女の怒りがそこにはあった。


 何で。


 つぶやきが、耳に届く。


 女じゃないっていうのに。


 俺はもがく。腕を離せ。彼女を止めなくては。

 彼女は標準を定める。引き金に手をかける。


 凶悪な、笑みが。


 銃声が、響く。


 だが。


 白い雪が、散った。

 俺は目を伏せた。

 だが地を這うような声はまだ続いていた。俺は目を開ける。


 雪柱が立っていた。


 いや違う。雪が立ったのではない。雪の下にあったものが、雪の壁を大きく突き破ったのだ。


 巨大な、葉が、蔓が、彼女の手の銃をはじき飛ばしていた。


 声は次第に大きくなる。ゆっくり、だが確実に。

 そのヴォリュームに比例するかのように、雪の下の植物が、白い壁を突き破って立ち上がっていた。

 拘束する手が緩む。俺は一気にそれをはね除け、飛びついてくる歌姫の身体を抱き寄せると、転がった銃を拾った。

 混乱が、兵士の間に広がっていた。当然だろう、と俺も思う。俺だって、混乱しそうだった。この場で平然としているのは、当の歌姫だけだったろう。

 その歌姫は、俺の左腕の中で、未だに低い声で歌を続けている。

 俺達の周囲で、巨大な蔓が、葉が、うねうねと動いている。

 なるほど、大地を揺るがす声か。

 奴が少女の声をわざと使っていた理由が判る。

 だが判っていても、心臓のばくばくと脈打つ音すら聞こえそうな程、俺が驚いていたことは間違いない。

 銃の標準を俺は彼女に合わせた。それでも司令官だ。この事態を目の前にしても、他の兵士と違ってパニックを起こしてはいない。


「撃つのか、ミン」

「撃ちたくはない。時間が無いと言ったろう。そしてお前は撃たれる訳にはいかない筈だ。司令官どの」


 彼女はぎり、と歯を噛みしめる。


「女ではないのに、お前はそれが大事なのだな」

「ああ」


 彼女は大きく頭を振る。黒い巻き毛が、大きくヴェールのように広がった。


「勝手にしろ!」


   *


 五本の赤のラインの入った機体が、空高く飛び去って行く。しばらくその飛行機雲は、青い青い空から消える気配はなかった。


「行っちゃったね」


 歌姫は落とした帽子をかぶり直しながら、つぶやいた。俺はああ、と短く答えた。


「本当に、いいの? …彼女は」

「いいさ。彼女は強いんだ」


 無論彼女には彼女なりにそれを支えるものは欲しいはずだが… それは俺である必要は無いのだ。


「彼女は、強いんだよ」

「そうみたいだね。俺かなり怖かった」

「…お前も、かなり怖かったけどな」


 そう? と奴は肩をすくめ、ゆらゆらと揺れる巨大な蔓や葉に向かって、すりすりと顔を寄せる。


「ごめんな、眠っていたとこ、起こしてしまって」

「眠っていた?」


 俺は思わず奴に問いかけていた。


「この雪の下にさ、たくさんの何か生き物が居るからさ、ちょっと助けてもらおうと思って呼びかけたんだ。そしたら彼らが出てきた」

「出てきた、って… これ植物じゃ」

「何言ってんの、これの何処が植物なのさ」


 こだわりの無い奴はこれだから怖い。ああそうか、と俺はやっと気付いた。

 これが、デザイアだ。端末の言った、植物の形をした不定形生物。端末達コンビュータの、メカニクルの同類。


「…ああそう、また眠るんだ。ありがとう。お休み…」


 歌姫の言葉に応えるように、するするとまた、デザイア達は雪の下にもぐっていく。そして春が来るまで、また眠るのだろう。…ああ全く。


 帰ろうか、と俺は歌姫の背を叩いた。

 痛い、と奴は抗議の声を上げた。

 ざくざく、と再び雪の音が耳に届く。リズミカルなその調子に気を取られていると、不意に歌姫がこちらを向いた。


「…そーいえばさ、お前、チュ・ミンって名なんだよな」

「へ?」

「名前。お前の名、そういえば、俺ずっと聞いてなかった」

「そうだったっけ」

「そうだよ」


 そう言えば、そうだった。別に言う必要もなかったからだと思うが、無くても平気だったことも事実だ。


「変な名だな」

「うるさいよ。これでもちゃんと親が意味を考えてつけたんだからな。祖先の国の言葉でちゃんと書けるんだからな」

「俺だってそうだよ。言葉がどうだか知らないけどさ、生んでくれたひとがつけたんだ。ハリエットって言うんだ」

「ハリエット?」


 結構意外な名だ、と思った。だがその響きには、確かに男とも女ともしれないものがある。


「みんなはハリーとかハルとか呼んでた」

「ハル?」

「短いほうが呼びやすいだろ? 何か変か?」

「いや…」


 俺は思わず苦笑する。そしてその苦笑は、次第に大きな笑い声へと変わって行った。


「…何だよ一体… そんなにおかしいかよ」

「…や、すまんすまん… けどなあ」

「だから何だよっ」

「…お前、春を探しに行こうって言ったよな」

「言ったよ」

「それなあ、その音。ハルって、あの失われた国の言葉で、春を意味するんだよ」


 奴は足を止めた。


「…ホント?」

「本当。お前にここで嘘ついてどーすんだよ」


 奴の顔がさっと染まる。それは最初に会ったあたりに、奴が言った言葉だ。俺はそんな奴の手を取って言う。


「ほら、春は、ここにあった」


 奴の顔はますます赤くなる。そしてうめくような声で言う。


「お前言ってて恥ずかしくないか?」


 ふふん、と俺は口元に笑いを浮かべると、奴の手をぐいっと引っ張り、そのまま肩に担ぎ上げた。


「何やってんだよ、下ろせってばっ!!」


 わめけわめけ。俺はこいつを離す気はなかった。

 端末は俺に言った。


 それに、あなた達は増えませんから。


  増えないから、彼らは俺達を見逃してくれるだろう。

 この惑星の上で生きてくことを。お前の故郷での欠点は、ここでは美点だ。

 でもまあ、そんなことはどうでもいい。


 そして俺は言った。


「ほら行くぞ、ハル」

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