彼女は少しの間、嫌そうな顔をしたが、やがて、いいだろうと言った。
そんな内容なら、別段構わないだろう、と思ったのだろう。
だが。
今までに見たことの無いほどの、凶悪な笑みを、奴は浮かべた。
そして数歩後ずさる。首を軽く振る。
そして。
…
暗号のように、その低い声は、響いた。
大きな声を出している訳ではない。何を言っているのかもよく判らない。
喉の奥から吐き出すような、低い、低い、声が、その時あたり一面に、響き渡った。
奴はふらり、と首を大きく回す。
声が辺りに散らばる。
彼女の表情が変わる。
小さなつぶやきが、耳に届く。
女の子じゃなかったの!? ―――明確な怒り。
彼女は、焦げ茶色の兵士の手から、銃を奪い取る。
どうしたのですか、と叫ぶ兵士。
だが上官の剣幕に、手はつけられない。
怒り。確実に怒り。
俺が見たこともない、彼女の怒りがそこにはあった。
何で。
つぶやきが、耳に届く。
女じゃないっていうのに。
俺はもがく。腕を離せ。彼女を止めなくては。
彼女は標準を定める。引き金に手をかける。
凶悪な、笑みが。
銃声が、響く。
だが。
白い雪が、散った。
俺は目を伏せた。
だが地を這うような声はまだ続いていた。俺は目を開ける。
雪柱が立っていた。
いや違う。雪が立ったのではない。雪の下にあったものが、雪の壁を大きく突き破ったのだ。
巨大な、葉が、蔓が、彼女の手の銃をはじき飛ばしていた。
声は次第に大きくなる。ゆっくり、だが確実に。
そのヴォリュームに比例するかのように、雪の下の植物が、白い壁を突き破って立ち上がっていた。
拘束する手が緩む。俺は一気にそれをはね除け、飛びついてくる歌姫の身体を抱き寄せると、転がった銃を拾った。
混乱が、兵士の間に広がっていた。当然だろう、と俺も思う。俺だって、混乱しそうだった。この場で平然としているのは、当の歌姫だけだったろう。
その歌姫は、俺の左腕の中で、未だに低い声で歌を続けている。
俺達の周囲で、巨大な蔓が、葉が、うねうねと動いている。
なるほど、大地を揺るがす声か。
奴が少女の声をわざと使っていた理由が判る。
だが判っていても、心臓のばくばくと脈打つ音すら聞こえそうな程、俺が驚いていたことは間違いない。
銃の標準を俺は彼女に合わせた。それでも司令官だ。この事態を目の前にしても、他の兵士と違ってパニックを起こしてはいない。
「撃つのか、ミン」
「撃ちたくはない。時間が無いと言ったろう。そしてお前は撃たれる訳にはいかない筈だ。司令官どの」
彼女はぎり、と歯を噛みしめる。
「女ではないのに、お前はそれが大事なのだな」
「ああ」
彼女は大きく頭を振る。黒い巻き毛が、大きくヴェールのように広がった。
「勝手にしろ!」
*
五本の赤のラインの入った機体が、空高く飛び去って行く。しばらくその飛行機雲は、青い青い空から消える気配はなかった。
「行っちゃったね」
歌姫は落とした帽子をかぶり直しながら、つぶやいた。俺はああ、と短く答えた。
「本当に、いいの? …彼女は」
「いいさ。彼女は強いんだ」
無論彼女には彼女なりにそれを支えるものは欲しいはずだが… それは俺である必要は無いのだ。
「彼女は、強いんだよ」
「そうみたいだね。俺かなり怖かった」
「…お前も、かなり怖かったけどな」
そう? と奴は肩をすくめ、ゆらゆらと揺れる巨大な蔓や葉に向かって、すりすりと顔を寄せる。
「ごめんな、眠っていたとこ、起こしてしまって」
「眠っていた?」
俺は思わず奴に問いかけていた。
「この雪の下にさ、たくさんの何か生き物が居るからさ、ちょっと助けてもらおうと思って呼びかけたんだ。そしたら彼らが出てきた」
「出てきた、って… これ植物じゃ」
「何言ってんの、これの何処が植物なのさ」
こだわりの無い奴はこれだから怖い。ああそうか、と俺はやっと気付いた。
これが、デザイアだ。端末の言った、植物の形をした不定形生物。端末達コンビュータの、メカニクルの同類。
「…ああそう、また眠るんだ。ありがとう。お休み…」
歌姫の言葉に応えるように、するするとまた、デザイア達は雪の下にもぐっていく。そして春が来るまで、また眠るのだろう。…ああ全く。
帰ろうか、と俺は歌姫の背を叩いた。
痛い、と奴は抗議の声を上げた。
ざくざく、と再び雪の音が耳に届く。リズミカルなその調子に気を取られていると、不意に歌姫がこちらを向いた。
「…そーいえばさ、お前、チュ・ミンって名なんだよな」
「へ?」
「名前。お前の名、そういえば、俺ずっと聞いてなかった」
「そうだったっけ」
「そうだよ」
そう言えば、そうだった。別に言う必要もなかったからだと思うが、無くても平気だったことも事実だ。
「変な名だな」
「うるさいよ。これでもちゃんと親が意味を考えてつけたんだからな。祖先の国の言葉でちゃんと書けるんだからな」
「俺だってそうだよ。言葉がどうだか知らないけどさ、生んでくれたひとがつけたんだ。ハリエットって言うんだ」
「ハリエット?」
結構意外な名だ、と思った。だがその響きには、確かに男とも女ともしれないものがある。
「みんなはハリーとかハルとか呼んでた」
「ハル?」
「短いほうが呼びやすいだろ? 何か変か?」
「いや…」
俺は思わず苦笑する。そしてその苦笑は、次第に大きな笑い声へと変わって行った。
「…何だよ一体… そんなにおかしいかよ」
「…や、すまんすまん… けどなあ」
「だから何だよっ」
「…お前、春を探しに行こうって言ったよな」
「言ったよ」
「それなあ、その音。ハルって、あの失われた国の言葉で、春を意味するんだよ」
奴は足を止めた。
「…ホント?」
「本当。お前にここで嘘ついてどーすんだよ」
奴の顔がさっと染まる。それは最初に会ったあたりに、奴が言った言葉だ。俺はそんな奴の手を取って言う。
「ほら、春は、ここにあった」
奴の顔はますます赤くなる。そしてうめくような声で言う。
「お前言ってて恥ずかしくないか?」
ふふん、と俺は口元に笑いを浮かべると、奴の手をぐいっと引っ張り、そのまま肩に担ぎ上げた。
「何やってんだよ、下ろせってばっ!!」
わめけわめけ。俺はこいつを離す気はなかった。
端末は俺に言った。
それに、あなた達は増えませんから。
増えないから、彼らは俺達を見逃してくれるだろう。
この惑星の上で生きてくことを。お前の故郷での欠点は、ここでは美点だ。
でもまあ、そんなことはどうでもいい。
そして俺は言った。
「ほら行くぞ、ハル」