「…おいいつまでもへそ曲げてるなよ」
歌姫は無言。
「寒いんだってば俺は」
さらに無言。
俺達は約200㎞先にあるという都市へと箱形の車を走らせていた。車は都市の端末が用意してくれた。
車だけではない。とりあえず今までよりはずいぶんと暖かくまともな格好をしていた。しっかりした、丈の長いコート、きっちりとした手袋、それに口を覆う防寒用のマスク。
だが大きく窓を開けたままににされては寒い。走っていれば、入る大気は風になって、後部座席を通って、俺の後頭部にまともに当たるのだ。
「おい頼むから」
それでも歌姫は無言だった。
俺は仕方なし、一度ブレーキを踏む。いくら対抗車両が無いからと言っても、この慣れない凍った道を走るのには気を使うのだ。寒いと頭が凍る。思考が凍る。そんな状態では注意散漫になる。事故の元だ。
確かに俺は飛行機乗りだけあって、乗り物に対しての勘はいい。実際この箱形の車にしたところで、故郷では一度も見たことのないタイプだし、やや使い勝手も違う。それでも何とかしてはいる。
だが注意するに越したことはないのだ。前方にぶつかるものはないとは言っても、いきなりひっくり返らないとは限らない。
「おい」
俺は歌姫の肩に手を置く。ふかふかの毛皮が手に当たる。
「何、急がないでいいの」
振り向きもせず、歌姫は素っ気なく言う。
「安全第一だ。いいから窓閉めろよ」
「熱いんだよ」
「熱い?」
そういえば、毛皮のすき間から見える首筋が妙に赤い。
「おいお前、熱でもあるのか?」
「無いよっ」
「…ちょっとこっち向いてみろよ」
「やだ」
「やだじゃないだろ」
無理矢理に、両肩を掴んでこっちを向かせた。
ありゃ、と俺は拍子抜けがする。確かに赤い。元が白いから、面白いくらいにその頬は瞳と同じ色に染まりまくっていた。
「だーかーらー、お前、掴むなってばっ」
歌姫は肩を揺さぶる。何となく、あの時のことを思い出した。地面が沈む直前。そういえばこんな反応だったような。それはまずい。奴のそういう声に、地面が反応した可能性はある。
「…判ったよ離すから。でも俺が寒いの弱いの、お前判ってるだろ?」
歌姫は黙ってうなづく。
「首筋がこう、すーすーすると、どうも気が散って、運転できないんだよ。それじゃ困るだろ」
歌姫は答えなかった。だが黙ったまま、窓を上下させるハンドルを回した。
それにしても、どうしたというんだろう。歌姫は昨夜から不機嫌だった。
まあ原因の一つは判っている。
浴室でのできごとが、感覚として周囲のコンビュータ達に筒抜けだったということは、確かに気恥ずかしい。あれこれ奴にしていた方の俺としても、かなりそれは気恥ずかしいものだ。
寝るための部屋に引っ込んだ時、奴はいきなり枕を投げつけ、端末にほのめかされた時に気付かなかった俺に鈍感、と言葉を投げた。
…まあ機嫌が悪いと言えばそれからなんだが。
手を広げると、そのまま空でも飛べそうな程ゆったりとした、毛皮のコート、平たい筒型の毛皮の帽子をかぶって、奴は助手席で、何やらむっとしている。食料やら何やら当座のものを積み込む時にも、ほとんど口もきかなかった。
しばらくまた、沈黙が止まったままの車中に漂った。
無論それはそれで、悪くない。歌姫はぼんやりと窓の外の景色が移り変わる様を見ている。
どうやら、俺達があの小都市にたどりつくまでの所は、積もった雪のせいだけでなく、やや高い土地だったらしい。そのせいで、見えるものが殆どなかったのだ。
行けども行けども白い大地。これはなかなか気分を消耗させるものだった。
だが今は違う。端末からこう行くと早い、と示された道は、凍り付いてはいたし、ずいぶんとひびも入ってはいたが、もともと舗装されていたような道だった。
その上を、箱形の、車高の高い小型車で行くことを勧められた。
出発してから、俺達の目の前に見える光景は、ひどく綺麗なものだった。
空の色が綺麗だ、とあの朝にも思ったが、それに葉を落とし、とがった枝を空に延ばす高い木々、その向こうの、常緑樹の霧氷、そしてそのまた向こうの空と雲。時間を追うにつれ、光の加減と色を変えていく。
別に何ってことないのかもしれない。
だけど、ただそこにある、ひたすら広い、そして美しい光景というのは、俺の目と心を一度に奪う。
思わず見入って、そのたびに凍った路面にハンドルを取られそうになる。スピードは抑えている。だいたい時速50㎞というところか。そのまま同じ速度で行くなら、単純計算では、四時間だ。でもさすがに慣れない走行だから、俺も一時間おきくらいに止まって、身体を伸ばしたりしていた。
歌姫はぼんやりと外の景色を見ている。
「何か、心配事でもあるのか?」
俺は訊ねた。無いよ、と奴は乾いた声で言って、首を横に振る。
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ」
「嘘だ」
「何でそんなこと判るんだよっ!」
そして、いきなり奴は、車の扉を開けると、外へと飛び出した。俺は慌ててエンジンを切ると、奴が開け放った扉から、やはり飛び出した。