すみません、とそいつは言った。
濡れネズミになった俺は、腕組みをし、そこに現れた奴に口を歪める。
歌姫が正気になり、頭の上から水をひっかぶせられたところで、俺はようやく辺りを見渡す余裕ができた。
天井のさほど高くない部屋だった。コンクリートの打ちっ放しの壁に、窓はない。暗い部屋ではなかった。ごくごく当たり前の、蛍光灯の照明が、煌々と部屋中を照らしている。
スプリンクラーが急に作動したらしい。
見上げた天井には、シャワーのノズルのようなものから、さあさあと水が音を立てて降り注いでいた。
一体何が起こったのか、という顔をしていたのは歌姫も同じだった。
乾いている時には、あっち向きこっち向きしていた奴の銀色の髪も、しっとりと濡れて、重力に従い、水を滴らせている。俺は俺で、濡れた重い髪をざっとかき上げた。
そこへ、扉へ開けて、そいつが入ってきたのだ。俺は無意識のうちに、そいつと歌姫の間に立って腕を軽く広げていた。
ところが、そいつは扉を開けるなり、ぺこんと頭を下げた。そして、言った。
「すみません」
見た所は、青年と言うところだろうか。
奇妙に特徴の無い、整った顔。ブラウンの短い髪、ブラウンの目、高すぎも低すぎもしない背、太りすぎでも痩せすぎでもない身体。
ただ妙に声にも顔にも表情がない。
「少し試すつもりが、どうにもこうにも、こちらまで身動きが取れなくなってしまいまして… 止めて下すって感謝致します」
だが言葉だけは流暢だ。俺は言葉じりを捉えて、問いつめる。
「止めて… って、お前がやったのか?」
こんな、神経拷問の機械を。
「ええ。すみません。程度の資料が少なかったので」
「そういう問題じゃないだろ!」
危うくそいつにつかみかかるところだった。だが歌姫が後ろから袖を引っ張ったので、それは未遂に終わった。
「すみません。お二人に危害を加える気はなかったのです。ただこの方の、声の特性を確かめたかったのです」
ぴく、と俺の服を掴む歌姫の手が震える気配がする。
「…こいつに、用があったのか?」
「はい。メゾニイトの、『歌姫』の方なら、きっとそれはできると私共は思いました」
複数かよ、と俺は思い、口をとがらす。
「どうしても、かなえていただきたい願いがあるのです」
「願い?」
背後で声がする。
「ええ。おそらくあなたならできるでしょう。…いえできなくても、仕方ないのです。駄目もとなのです。ただ、我々には、もうそれをここにあるもので試す術がない…」
何だかこいつの言っていることの意味はさっぱり判らなかった。こちらに向かって言っているというよりは、自分自身のつぶやきの延長の様だ。
「…ごちゃごちゃとややこしいな」
ぶつぶつと勝手に納得されているのは、面白くない。俺は腰に両手をあて、目の前の奴に向かって言う。
「とにかくあんたは、俺達に危害を加える気はなかったというんだな」
「もちろんです」
顔を上げ、そいつは間髪入れずに、答える。
「そういう意味で言うなら、あなた方は、客人です。大変申し訳ないことをしたと思います」
「だったらな」
俺はぐっと顔を突き出す。
「客人に対する礼って奴があるんなら、とりあえず俺達に着替えと風呂と食事をくれ」
「着替えと、風呂… ですか?」
相手は無表情をようやく崩す。言われるとは思わなかった、という顔だ。俺はそれを見てようやくにやりと笑った。
「これを見てそれが必要だって、思わないのかよ?」
かき上げた髪からは、まだ水が滴っている。
*
先に「着替え」を受け取ってから、俺達はそこから早足で移動した。
この中は暖かかった。だが、かと言って、暑いという程ではない。そのままでは風邪をひく。風邪のビールスがこの地にあれば、の話だが。
案内され、その水浸しの部屋の外に出た。薄暗い廊下がそこにはあった。
何やらひどく人気の無い廊下だった。
いや人気が無い、というよりは、人間無しで長い時間が経っていたような気配だ。
時間が、建物そのものに染みつかせるにおい。少なくとも、そこには長い時間、誰もいなかったような。
だが、何かの気配がある。それは歌姫の方が強く気付いていたようで、気がつくと、奴は俺の左の腕を強く鷲掴みにしていた。そんな掴み方されてはさすがに俺も痛いのだが…まあ仕方がない。
「…もうずいぶんと使われていなかったのですが、コントロールは可能です。先ほどの部屋を出る時に起動するように呼びかけましたから、もうそろそろ使える筈です。…かつての職員が、利用していました」
二重の扉を開けると、いきなり熱帯雨林のような大気が押し寄せてきた。歌姫はややむっとした顔になる。何これ、とでも言いたそうだ。
「…その昔閉じたままですから、中のものが果たして使えるのか、私には判りませんが」
「あんたは使ったことはないのか?」
案内人は湯気をまといつかせてゆらりと振り向いた。
「私は端末です。この姿はどのくらいぶりでしょう。ここは私には必要はないのです」
「た」
端末?! そう口が動く俺に、案内人ははい、とうなづいた。
「私は、この小規模都市管制コンビュータの端末です。あなたがたの生体反応が私のレーダーに反応したので、私はこの身体を起動させました。長いことこの身体は眠っていたので、なかなか表情が安定しません。不愉快でしたら謝ります」
「…や、…いやそれはいいが…」
「ねえ、人間はいないの?」
背後で歌姫が訊ねた。
「俺は全くその気配を感じなかったけど」
「はい」
案内人… 端末はうなづいた。
「人間は、存在しません。ここは、そういう惑星なのです」
「静かだった」
「はい」
「だけど人間以外の気配はする」
「はい」
端末は歌姫の問いに一つ一つうなづく。
「そうです。この惑星は、かつて人間がひしめいていました。しかし今では、一人もいないのです」
誰一人として。その時俺の頭に、一つの記憶がひらめいた。学生時代。歴史の授業。
「おい… あんたもしや… ここは…」
「何でしょう」
あくまで冷静に、端末は問い返す。
「ここは、もしかして、地球なのか?」
そうです、とあくまでも冷静に、端末は答えた。