目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
心労病
夏城燎
文芸・その他純文学
2024年10月19日
公開日
3,087文字
完結
私はね、死にたいんですよ。

内容がいつもにましてネガティブなので注意です

心労病

 私はね、死にたいんですよ。

 いや厳密にいえば、死にたいけど死ねない気がするんです。死にたいなとか、逆に生きたいなと思う事もあって、何となくですけども、未来幸せになる事はなくて、未来に陥る状態としては、『ほどほどに死にたい』時と『ほどほどに生きたい』と思う時くらいなんだと思うんです。

 もちろん厳密にいえばそれは想像ですが、でも、まだ二十歳にすらなっていないというのに、人生と言うのが苦しいんです。苦いんです。誰かに見られて、誰かに言われて、私は苦味を覚えるんです。それはもう、心の中心に大きな虚空が出現したみたいに、めっきりと表情筋が動かなくなるんです。とても苦いです。


 私は繊細です。そして、繊細であると気が付かずに生きてきました。親も私が繊細であるのを明確に理解していませんし、他人も私は表面上繊細であるのを出さないから、理解がありません。理解を求めている訳ではないのですが、だからこそ、私は日常の些細な一幕ですこぶる傷つき、体調が悪くなるんです。


 皆さんを責めている訳じゃないんです。私はね、一時期自分が繊細だと思っていなかった。だから、繊細じゃない側の気持ちがわかるんです。軽い気持ちで言いたくなる。私の人間性に物申したくなる。分かります。過去の自分も今の自分が目の前に居たら、きっと同じことを言うと思うんです。故に私は、板挟みです。弱音を吐露できない訳ではない。信頼できる友達もいます。でも、私は繊細かつ、面倒な人間なんですよ。私は社会不適合者なんです。

 働くことができません。学校へいくこともできません。


 働くことができないとは、私は不登校時代の嫌な習慣を引きずり、毎週一度は昼夜逆転が起こります。もちろんゲームのやりすぎでーだとかの理由ではないです。私は考え事をしてしまうのですが、それが一番活発的になるのが、布団に入った瞬間だったというだけなんです。


 だから眠れない日があるんです。他人に言われたことがあるのですが、「寝るまで目をつぶるんだよ」や「スマホやパソコンを見ちゃいけないよ」とか言われたことがあります。なので私なりに、自分なりに努力をして、試行錯誤をして睡眠の質や睡眠の導入を頑張ってみたことがありました。でも虚しく、それはうまくいかなかった。あまつさえ『寝たいときに限って寝れない』というのは本当に苦しくて、最初は「今日は寝れなかったな」程度なのですが、数日それが続くとついに吐きそうになるんです。とにかく気持ち悪くなって、頭痛に苛まれます。きっと『寝れない』が、ストレスになるんです。


 私は苦しんでいました。

 前置きをしておきますが、別にこれは他人を非難している訳ではありません。ただ自分にとって、当時の自分にとってはその言葉が、とても辛かったというだけです。

 「寝れないんだ」と言い、御託で睡眠薬をくれなかった先生がいました。あくまでくれない理由として、若いころから睡眠薬は推奨されないという理由だったので、別にそれはいいです。だが、私にとってその答えは、『病院に行っても苦しみを否定される』という僻んだ思考に繋がりました。


 悩みを言いました。「最近こういう事をしているんだけど、これについてどう思う?」すると誰かが言いました。「向いてないよ」「でもそれってなんか違うよね」「僕は君の将来が心配だ」私はまた、否定されました。分かりますよ。きっとこれは当然の回答だ。他人からしたら私の苦しみや、私が出来ない理由が分かる筈ないんです。それもそうだし、なにより私は私が常に正しいとは思っていません。私阿呆なので、それなりに馬鹿なので、やはり間違えることがあります。自分でもそれを知っています。だから毎度「ああ、僕が間違っていたんだな」や「向いてないんだな」とか「彼は僕の将来を心配してくれているんだな」と思うのです。

 普通の方からしたら何のことのない普通の一幕ですがね。私は結果的に、自分を抑圧する手段しかしていないんです。魂の救済を行えていないんです。結局、「ああ、僕が間違えていたんだな」で終わります。そういう自責や、どうして自分が悪かったのか等を思考することで、私は今、それなりの客観的な理屈をこねて、感情論を振りかざすようなことはなくなりました。

 でもそうなったことで弊害があります。それは、繊細である自分の存在でした。


 私はね。自分が知っている自分と、他人が見ている自分と、自分がなりたかった自分。

 その違いが、温度差が、すごく苦いんです。


 こうあるべきだ。それはあります。でも同時に、自分の感情を抑え込み、結果的に救われないんです。あれが始まったのは、理不尽な理由で大人に傷つけられ、そして泣かされて、その末に、一番悪かった奴が特に反省しずに今も笑いながらヘラヘラしているのを、理解したときです。私は私なりに、私がこうあるべきだと思う姿になろうとしました。出来るだけ感情論は振りかざさないよう、相手の事を考えて、発言をしていました。でも相手は違い、感情論でものを語ります。理不尽に怒られ、理不尽にキレられ。でも私は、まだその人が好きだった。結果的に怒ってばかりだったという書き方になっていますがね。彼とは趣味が合うし、ノリが合うし、喋っていて楽しい人だった。だからこの人がそう思うのなら、私はそれを尊重したかった。

 でも結局、彼が私を拒絶して終わりました。

 私は深く傷つきました。会話しながら泣き出してしまうくらいに傷つきました。でも彼は、結局私視点で、目立った反省もなくのうのうと生きています。

 ここからが、私の辛い人生です。それは、根底に『私が悪かった可能性』をどうしても入れてしまうことでした。繊細な私は、自分が悪かった可能性に怯え、前向きに前向きにと自分の気持ちに嘘をつきながら生きてきました。でも結局ポジティブシンキングは嘘でしかなく、自己暗示の粋を出ませんでした。いくら理屈で納得して、「ここは僕が悪かった」「ここは相手が悪かった」と思うようにしてもそうはなりません。理屈で生きても、気持ちはついてこないんです。

 私は、その一連の出来事から、他人と話すと無意識に疲れるようになりました。

 うつ病ってあるでしょ。あれすら疑ったことはあります。統合失調症ってあるでしょ。あれすら疑ったことがあるんです。椅子に座って一時間ぼうっとしていたことがありました。過去の嫌な出来事が脳裏にフラッシュバックして布団で静かに泣きました。無気力に包まれて、前向きに生きようとしても、動けなくなりました。

 でも病院には行きません。だって、どうせ否定されるから。もう怖いんです。他人の「こうなんじゃない」と「疲れたわ」と、低音の相槌が。

 私はもう普通にはなれません。自分の気持ちに嘘をついて、一時的に「良い人」であることでしか、だめなんです。だから、ほどほどに死にたくなって、ほどほどに生きたくなるんです。


 多分。私は自分がやりたいことを終えたら。静かに死ぬ気がします。


 それは絶望的な自殺ではありません。ただ生きづらいこの世界で、自分の目標を成し遂げたとして、幸せになる為の、成就の死なんです。

 私にとってこの世界は、生きているだけで辛いものですから。

 その苦しみの解放が、やっぱり必要なんです。

 まあそうならない可能性もあります。案外素敵な人をみつけて、結婚して、幸せになるのかも。でもその先でも、恐らく私の思考の呪縛は猛威を振るうでしょうが。


 この話が、どこまでフィクションなんでしょうね。

 フィクションだったら、よかったのにと、常々思いますよ、まったく。


 ……私は今日も他人の前だけ、良い人になります。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?