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第62話 ライガの事情 その⑤

 ふと、ライガは自分の腕の中に何か温かいものがあるのを感じた。無意識にギュッと抱きしめると、微かに甘い花の香りが漂う。


 これは、チカの髪の香油の匂いだ。良い香りだな。

 そう思いながら、ライガはハッと目覚めた。


 一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。


 隣に眠るチカの姿にギョッとした後、ライガは小屋に来ていた事を思い出した。


 二人とも、服を着ていない。

 結婚の誓いの後、ウトウトしていたようだ。


 自身の腕のなかにあるチカの存在に、先程の出来事が夢でなかった事を実感した。

 そして、自分達が現実に結婚したという事実に、あらためて喜びが沸き起こってきた。


 スヤスヤと眠っているチカの寝顔を見つめる。

 我慢できずに、頬や瞼に何度もキスをおとす。


 チカ、チカ、俺のチカ……! 


「……信じられない……。夢みたいだ……」 

「……ん……」

「チカ……大丈夫か? 体は……辛くないか?」


 目を覚ましたチカは、しばらくぼーっとライガの顔を見つめ、それから少しはにかみながらライガに抱きついた。


「ライガ……、ありがと。私は大丈夫。ねえ、これ夢じゃないよね? 私達、結婚したんだよね?」

「ああ。俺も信じられない。こうやって、チカを抱きしめてるなんて。本当に夢みたいだ」


 ライガは、チカを抱きしめながら何度も口づける。


「チカ、愛してる。もう、絶対に誰にも渡さない。離さない。覚悟してくれ」

「ライガこそ。イヤだと言っても、もう手遅れよ。私はライガを手放さないからね」


 抱き合い、お互いに相手の肌の温もりを感じながら。

 愛する人と心が通い合い、体と魂でコミュニケーションをとる、この瞬間。

 こんなにも幸せを感じる事か出来るのかと自分でも信じられない程の、圧倒的な多幸感。


 相手の考えが読めなくても、人はこんなにも気持ちを分け与えあえる事ができるのだと、ライガは今はじめて気づいた。


 ずっと思い続けてきた愛する人との触れ合いは、ライガを戦士でない、ただの恋する青年へとかえる。


「……このまま、ずっとこうしていたい」

「ほんとだね。でも、そろそろ戻らないと……」

「いやだ」

「いやだ、って……ライガ……」

「帰らない。ここで二人きりで暮らす」

「まあね、そうできたらいいんだけど……ん……っつ……」


 チカの言葉を、キスで遮る。


「俺が今、どれほど嬉しいか、チカはわかってない。ずっとずっと、叶わないと思っていたチカと、こうして結婚できるなんて」

「私も、ライガと結婚できて、本当に嬉しいよ」

「違う。俺のチカへの思いは、誰よりも強い」


 ライガはチカを強く抱きしめた。

 絶対に離さないというようなライガの態度に、チカは苦笑する。


「も――ライガってば、何だか駄々こねてる子供みたいだよ」


 そう言いながら、チカはライガの頭を優しく撫でる。

 頭を撫でられる、それだけでこんなにも気持ちが落ち着き、心地良いなんて。


 はじめての事だらけだとライガは思う。


「ライガはもう、私の夫で、私はライガの妻でしょ?」

「チカは、俺の妻……」

「そうだよ。まあ、二人で新婚生活を楽しむ前に、終わらせないといけない仕事が山積みだけど……。二人でがんばっていこう! ね、だんな様」

「妻……チカが、俺の妻か……。ああ、もう、だめだ。幸せ過ぎてどうしていいかかわらない」


 これまでの人生で、こんなにも幸せを感じたことはなかった。ライガは己の内から湧き上がる強い喜びのエネルギーを、もて余す。


「あの、ね。ライガ、聞いてくれる? これだけは言っておきたいの」


 チカが真面目な口調で切り出した。


「……聞いてる……」

「まずは、これまで、本当に有難う。ライガに助けてもらったことを、心から感謝してるわ。そして、これからだけど。私達の事を公にするまでには、まだいくつもの難関を越えなくてはならない。予想外の事が起きるかもしれないけど、でもどんな時も、私を信じてほしい。切磋琢磨し、お互いを高め合いながら、私はライガと生きていきたい。私が間違った事をすればそれを正してほしい。私は……あなたをとても尊敬している。ライガの隣に立つのに恥ずかしくない人間であるよう努力するわ」


 俺は、チカに、尊敬されているのか。

 何故、どこが?


 そう思いながら、自然と目頭が熱くなるのがわかった。


 これまでライガは、人々から北の民であることで蔑まれ、ある時は恐れられた。

 生まれる場所は選べない。その自身ではどうにもならない出自により、常に差別されてきた。

 それ以外の存在の在り方など、想像する事もできなかった。


 その自分が。

 チカに尊敬されている。


 ライガは今、己のなかに、新しい自分が生まれたのを理解した。


 俺は、北の民だ。

 それと同時に、チカの隣に立つ存在となった。


 俺は、彼女を愛し、守り、共に学び、そして彼女からも愛され尊敬される人間なのだ。


「……ライガ、大丈夫……?」


 チカがライガの頬にそっと手で触れ、つたう涙をぬぐう。

 心配そうに顔をのぞき込むチカに、ライガは自分が泣いている事に気づいた。


「……いん……だ」

「……え?」

「……うまく言えないが……たまらなく、嬉しいんだ。チカに出会えた事に。今、こうして二人の時間を過ごせることに……。生きてきて……産まれてきてよかった……」

「……ライガ……」


 再びチカを胸に搔き抱いて、ライガは彼女の温もりを、今この瞬間を、ただ味わった。


 城に戻れば、また慌ただしい日々が待っている。新たなトラブルや、予想外の事件が起こるだろう。


 だが、今は。


 ライガは思う。

 この先、何があっても、俺はこの時を忘れない。


 チカと思いが通じ合い、愛し合い、一つに溶け合ったこの幸せな時間を。俺は絶対に忘れない。


 二人はしばらくの間、無言で抱きしめあったままで過ごした。

 言葉は不要だった。


 ライガは、生まれてはじめて、心から神に感謝した。

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