「ジェシカお嬢様、おはようございます」
マリーの声が聞こえる。
カーテンが開かれ、肌にまばゆい朝日を感じた。
「ん……。おはよう、マリー」
私は仕方なく、体をおこす。
(ほんっと、勝手に部屋に入ってこられるなんて、プライバシーの侵害よね)
と思いながら、笑顔をつくることを忘れない。
衝撃の仮眠の日からもうすぐ3か月が経つ。
夢だと思いたかったけど、そうじゃなかった。
まさかの、異世界転生。
その残酷な現実に、なんど脳みそが沸騰しそうになったことか。
何度も、これは夢の続きだって思った。思おうとした。
今度こそ、目覚めたら、いつもの世界に戻ってるはずだと。
そう思いながら1週間が過ぎ、私は覚悟した。
もしかしたら、これは何らかの異常事態で、本当に違う世界に来てしまったのかもしれないと……。
勿論、最初の1週間も、用心はしていた。
起こりうる様々な未来を予測し、最悪の事態に備える。
ビジネスにおける、リスクマネジメントは必須だ。
何事も備えあれば憂いなし。
私は自分の状態について、周りにこう説明していた。
一、どうも熱のせいか、過去の記憶があいまいな時がある
二、夢の中で『あらゆる事を学ぶべし』と神託を受けた、ような気がする
三、過去の言動を悔い改め、神のお言葉通り、勉学に勤しみたいと思う
何度もその事を伝え、都合が悪い時はとりあえず気絶してみた。
もしくは、空を見つめ、聞こえないふりをした。
医師が検診にやってきた。
両親のナルニエント公爵と公爵夫人にもお会いした。
お兄様のアーシヤ様やお姉様のジュリエット様ともお話した。
マリーとサリュー、そして時々エバンズに世話をされながら、あっという間に7日間が過ぎた。そして、私はこう思った。
(そうよ、いうなれば、これは職場と役職がかわったのと同じ事なのよ)
愛媛から大学に進学し、京都に住み始めた時。
はじめて就職して、大阪で仕事を始めた時。
ワーキングホリデーで海外で生活した時。
再就職、転職、転勤を経験してきた私が、肝に銘じること。
それは
『新しい環境では、まず3か月間は無心で仕事を覚えましょう』
という事だ。
同じホテル業界でも、会社によって、雰囲気が全く違う。
外資なのか日本企業なのか、シティホテルなのかビジネス用途なのか、またチェーンホテルと地元密着のローカルホテルでは、本当にルールやマナーがビックリするほどかわる。
同じチェーンホテルでもそれぞれのホテルで、支配人や過去の歴史によって、やはりカラーは違ってくる。
長く同一のコミュニティにいると、感覚が麻痺してきて、その職場がもつ矛盾や理不尽な点が見えにくくなる。外から来た人間には、客観的な視点があるので、その良いところも悪いところもわりあいハッキリとわかる。
だが、しかし。
わかるからと言って、それをすぐに声にだしてはマズいのだ。
よそから来た新人が、ここがおかしい、これは改善した方がいいと言ったところで、元からいる人達には悪口にしか聞こえない。例え、それが正論だとしても。
人間は、感情の生き物だ。
まずはその場に慣れるまで、黙々と仕事に励み、業務とルールを学ぶ。
誰がキーパーソンで、誰が話が通じるのか、誰が危険人物なのかを、人々の話の中からこっそりあぶりだす。
仕事が出来る人、実力がある人の仕事ぶりをみて、どの部分が他の人と違うのかを分析し、できる限り彼らの仕事のやり方を真似する。
新しい職場のルーティーンワークを覚えて、そのコミュニティの人々に慣れ、ちょっとした信用を得るまで、3か月は必要だ。
勿論、人によって、職場によっても違うので、この考えが全ての場所で当てはまる訳ではないのはわかっている。まあ、ヤラシイと言われればそれまでだけど。
3か月間は無心で仕事を覚える。
これは、私にとっては転職した時のおまじないというか、儀式のようなものだ。
だから、今回も私はじっと耐えていた。
大人しくしていた。
このとんでもない状況下で。
「今日はいよいよ、私だけの剣士を選ぶ日よね?なんだかドキドキするわ」
私は鏡台に腰かけ、鏡に映るマリーに確認するように話しかけた。
彼女は、私の髪の毛を美しくデコレーションされた櫛で梳きながら、苦笑した。
「ええ、ご希望通り、今日の午後からと伺っておりますよ」
この世界に来て、もうすぐ3か月が経つ。
もうそろそろ、動き出してもいい頃だ。
私は今日、この世界での『武道活動』をスタートする。