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第三十二話

「俺より、アルカの方がすごい怪我じゃないか?」


「別にこんなのどうってことないわよ。ちょっと喧嘩したってだけ」


こちらへと近寄ってくるアルカは全身が傷だらけで今にも倒れそうな様子だった。


その姿は決して、彼女自身が言い張るように喧嘩のあとには見えない。どちらかといえば、大事なものを賭した決闘から帰ってきた戦士のようだ。


しかし、アルカはまるでどこも痛んでいない素振りで自然に俺の横へと腰掛ける。強がりももはやここまでくると芸術的だった。


「向こうで一体何があったんだよ?」


「心配しなくても解決したから大丈夫よ」


シイナたちの方で起こったであろうトラブルについて詳しく聞きたいところだったが、にっこりとサムズアップしているアルカを信用することにした。


まぁ、きっと何かしらのいざこざがあってそれでも何とか対処してくれたということなのだろう。


「それより、その腕であいつを倒せるの?」


「どうだろうな」


アルカの指摘を受けて、改めて切断した左腕を眺める。傷口は塞がっているものの、やはり元に戻る気配はなさそうだった。


彼女が不安げな表情で腕へ触れてくる度に、じんわりとぬるい熱が伝わってくる。


こうして柔らかな体温を感じながら話をしていると、さっきまでニルガルと戦っていたことさえも忘れてしまいそうだ。


「なぁ、一つ質問してもいいか?」


「改まってどうしたのよ」


俺がアルカをちらりと見ながらそう訊ねると、彼女は困惑しているようだった。


「もしさ、俺がアルカのこと綺麗さっぱり忘れちまったら嫌かな」


「そんなのわざわざ聞くまでもないじゃない。絶対に嫌よ」


アルカは『何を当然のことを』とでも言いたげに呆れたような表情でそう返す。


「まぁ、そうだよな。奥の手を使えば、あいつにはどうにか勝てると思う。だけどその代わりさ……」


少し間が空いて、ダンジョンの中とは思えないような爽やかな風が通り抜けた。


ふわりと風に乗って柔らかい薔薇の香りが漂う。


「理屈はわからないけれど、奥の手を使うとあたしのことを忘れちゃうって言いたいわけね?」


俺が続きを言い淀んでいると、彼女の方が先に質問を投げかけてくる。


そういえば暮らしている時からいつもこんな調子で、アルカには俺の考えていることなんて何でもお見通しのようだった。


「話が早くて助かるよ。不死の力の代償は『記憶』なんだ。何があっても死なない代わりにこの力はゆっくりと俺を内側から蝕んでいく」


「アキラ、震えてるの?」


アルカに指摘されて、自分の身体が小刻みに震えていることに気がついた。そうか、俺は忘れることが怖いんだな。


彼女はそんな情けない俺のことをそっと抱きとめてくれる。


「あたしの気持ちなんか別にどうだっていいじゃない。あんたはそれでいいの? 奥の手を使ったら、他の大切なことだって忘れちゃうんでしょ?」


その問いかけに、俺は静かに首を横に振った。


「本当は逃げ出したいくらいだよ。だって、もう死んだ父さんのことさえ上手く思い出せないんだ。いや、忘れてしまうこと自体はいいさ。段々と忘れることに慣れてそれを怖いとさえ感じられなくなることが怖いんだ」


「あんたは今までずっと一人でそんな恐怖と戦ってきたのね」


慰めるような言葉と共にアルカの抱擁が少しだけ強くなる。


そこから伝わってくる温もりだけが、今もしっかりと自分がここに存在することを教えてくれた。


「正直なところ、何を覚えていて何を忘れたのかさえ確かじゃないんだ。ニルガルもきっと元々は優しい男だったんだと思う。それでも不浄の力に蝕まれて、全てを呪う怪物に変わってしまった。俺もいつか同じように……」


「ならないわ。だって、アキラはアキラだもの。色んなことを忘れても、あんたはあたしをここまで見捨てずに助けてくれたじゃない。もし、そんなあんたが怪物になっちゃうんだとしたら、それは世界で一番優しい怪物よ」


俺の不安をかき消すように、アルカははっきりとそんなことを言う。


『世界で一番優しい怪物』か。


彼女が大真面目なものだから、俺は少しだけ笑ってしまった。


それはまるで、何処かの自治体が町おこしの為に作ったゆるキャラみたいな設定で何となくシュールな感じがする。でも、その響きは決して悪くない。


「そんな風になれるかな。結構やばい見た目だと思うぞ」


「もし人前に出られないような姿になっちゃったら、その時は山奥に大きな家でも建ててこっそり暮らせばいいわ。夏は川辺で、冬は雪遊びをして……あんた一人じゃ寂しいだろうから側にいて面倒を見てあげる」


そのアイデアに乗っかって、全てを捨てて山奥にこもって暮らすことを想像してみた。楽しそうではあるが、それはそれできっと大変なんだろうとは思う。


虫対策だったり、雪かきだったたり、他にも都会暮らしの元ニートには思いつきもしないような色々な苦労があるんだろう。


それでも今までの人生の煩雑さに比べれば越えていけないものでもなさそうだ。


「でもさ、きっと俺はいつかアルカのことを忘れたことさえ忘れちゃうんだぜ。忘れられるはきっと考えてる以上に辛いことだよ。その時がきても同じことが言えるか?」


そうやって彼女に優しい言葉をかけてもらう度、心の中にちくりと小さなトゲのような痛みを感じる。


どうしてアルカは俺なんかの為にここまで優しい言葉をかけてくれるんだろう。


過去も未来も無い自分のために、限られた彼女の心や時間をわけて貰うことははたして正しいのだろうか。


「あのね、あたしがそのくらいで諦めると思う?」


アルカは小さな両手で、俺の右手を包み込みながら語り始める。その声色は聞き分けのない子供を諭すような柔らかなものだった。


「あんたは一々難しいことを考えすぎなのよ。たとえば、毎日あたしのことを忘れちゃうとするわね。それなら何回でも初めましてをすればいいじゃない。百回忘れたなら、百一回刻み込んでやるわ。あたしにかかれば童貞を口説きおとすなんてチョロいもんよ?」


「……童貞ちゃうわ」


その弱々しい反論に彼女が笑い出し、つられて俺も一緒に笑った。


深い自己憐憫のような感情が笑い声と共に何処かへ飛んでいって、心がふっと軽くなる。


難しく考えすぎか、そうかもしれない。『百回忘れたなら、百一回思い出せばいい』。この世の全てはきっとそういう簡単な仕組みで出来ているのだ。


「ありがとう、なんか勇気がわいてきたよ。どのみちあいつをこのダンジョンの外へ出すわけにはいかないんだ。きっと不浄の力は、世界を憎悪で包みこんでしまうだろうから」


「あたしは別に世界なんてどうなろうと構わない、アキラとの思い出の方が大事だもの。でも、あんたがそう決めたのなら応援する。……絶対勝ちなさい」


アルカは何かを言いたげにして、押し留めるように悲しげに笑った。


「ちょっと痛いだろうけど、我慢してね」


彼女はより深く俺を抱きしめるような姿勢をとり首筋に牙を立てた。


ちくりとした痛みの後、採血の時に血液を吸われているようなぞわりとした感覚がする。


「これがあたしの秘密、他人の血を吸って回復したり自己強化したりできるの。そもそも血を扱う魔術自体がヴァンパイアみたいで気持ち悪いでしょ? だから普段はなるべく隠してるの」


「俺は吸血鬼っておしゃれだと思うよ」


口元の血を手の甲で拭うアルカに俺は正直な言葉をかける。実際、厨二病的には憧れしかないし……。


「不思議な感性ね。まあいいわ、今の吸血であんたの身体の中に混じってた不純物を全部吸い出した。これで立派に戦える筈よ」


呆れたような表情で、彼女はにこりと笑った。


そう言われてみると、少しずつ不浄の力に蝕まれていた腕が治り始めていくのがわかる。身体の倦怠感みたいなものもすっかり無くなっていた。


一方で吸い出したアルカを不浄の力が蝕み始めているようで、彼女は苦しそうに咳をする。


「大丈夫なのか?」


「あたしのことなら心配ないわ。あんたの血をいっぱい飲んだもの元気いっぱいなくらいよ。ちょっと疲れちゃっただけ、少し寝れば元通りになるから」


彼女はそういうと俺の腕に身体を預けるように脱力してまぶたを閉じてしまった。


こうして、人間一人分の重みをしっかりと受けとめていると『世界を守る』なんて漠然とした目標にくっきりとした輪郭がついていく。


世界は俺のとってのアルカであり、誰かにとっての大切な人たちの集合で出来ているのだ。


だからこそ、その灯りを恨みに消されてしまう訳にはいかない。


「なぁ、目を閉じたままで聞いていてくれるか」


「まだ何か言い残したことがあるわけ?」


独り言のような俺の言葉に、か細い声で彼女が返事をする。


「次に顔合わせる時には忘れてるかもしれないから、先に伝えておきたいことがある」


「なによ、この土壇場で告白でもするつもり?」


冗談めかしたようにアルカがいうので、思わず俺は面食らってしまった。


なんでコイツはいつもいつも俺の考えていることが先にわかるんだ、エスパーなのだろうか。


「え、もしかして本気なの?」


たぶん、俺の動揺が伝わったのだろう。確かめるように彼女は問いかけてくる。


「本気だよ、俺はアルカのことが好きだ。もっと適切にこの気持ちを表す言葉があるかもしれないけどさ。これまでのことを全部忘れてしまったとしても、アルカに側にいて欲しいと思ったんだ」


「ねぇ、やっぱり目を開けてもいい?今ので目が覚めちゃった」


思いの丈を伝えきると、彼女が上体を起こそうとするので慌ててその両目を手のひらで塞いだ。


「いまは見られたくない、醜い姿だから」


覚悟を決めた全身を少しずつ不死の力が覆っていき、既に戦うための姿に変わっていきつつある。


もうすっかり俺の姿は醜い怪物のようになっているだろう。


「見た目がどうのなんて、あんたからの『好き』に比べたら些細なことだわ。そういう大切なことはちゃんと目を見て言いなさいよ」


「帰ってきたら、そうする」


「だって、言ったことも忘れちゃうかもしれないんでしょ!?」


答えに窮して、逃げるようにそんなことを言うともっともな返事が返ってきた。


「その時は、またその時の俺に文句を言ってくれ」


「ちょっと! あんたは気持ちを伝えられて満足かもしれないけど、あたしはどうすればいいのよ。言い逃げするつもり!?」


俺が優しくアルカの身体を地面に寝かせようとすると、彼女は最後まで力のこもらないであろう身体で抵抗していた。


「ごめん」


「ほんとに勝手なんだから! 覚えてなかったら、殴るからね!!」


「大丈夫、すぐに戻るよ」


俺はそれだけ伝えると、段々と腐敗し始めていた薔薇園を後にする。


忘れずにいられるように、アルカとの会話を一つ一つ刻み込みながら。



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