「ただいま」
俺が家に着いた頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。
あらかじめ鍵のありかを伝えておいたからか、既に部屋には明かりが着いていて玄関まで料理の良い匂いが漂っている。
「結構遅かったじゃない。おかえりなさい」
当たり前のように狭いキッチンでアルカが夕飯の支度をしていた。一人暮らしの長い俺は、その光景にいまだ慣れずにいる。
やっぱり女の子が自分の家で料理をしているのは不思議な感覚だな。
「そうだ、ダンジョン帰りにクレープ買って来たんだけど食べるか? 苺かバナナか好きな方選んでいいぞ」
「あら、気を使ってくれたの? それじゃあ苺の方を頂こうかしら、ありがとうね」
「なんとなくそっちを選ぶ気はしてたよ」
帰りに桜ヶ丘ダンジョンの外で買ったクレープをアルカに渡して、俺は脱衣所で部屋着に着替える。
……なんだか、棚に見慣れない女性用シャンプーの類いが増えている気がした。それ以外にも買った覚えのない日用品もあるな。
きっとアルカが買ってきたものだろう。
そうすると、彼女は本格的にここに居候するつもりなんだろうか。単なるお泊まりセットって感じではないもんな。
「なんだか色々増えてたけど、いつまでここにいるつもりなんだよ?」
「……まぁ、長くてもひと月以内には何とかするつもりよ。ダメだった?」
俺が何気なく雑談のていで疑問を投げかけると、彼女は手元の作業を一旦止めてこちらを振り返った。
どことなく、自分でも無茶を言っている自覚があるような申し訳のない表情をしている。
これ以上踏み込んだことを聞くべきかどうか悩んだが、考えていてもらちが開かないので少し思い切ることにした。
「なぁ、ひょっとしてお前が家に帰れないのは多摩東ダンジョンで起きたっていう事故と何か関係があるのか?」
「……あんた、誰かに何か聞かれたの?」
俺が話題になっている事件とアルカの関係性について尋ねると、声色が変わった。
俺もそれにつられるように更に言葉を重なる。
「今日、いつも通りに多摩東ダンジョンへ行ったんだ。そうしたらダンジョンは閉鎖されていて、事故を捜査しているっていう刑事から話を聞かれた。お前のこともな」
「それで、あんたは喋ったの?」
「いいや。そんな人間は知らないって答えたよ」
「……そう、それは助かるわ」
俺が何も喋っていないということを聞いて、アルカは心底安心したように深くため息をついた。
それから少しだけ沈黙が生まれ、彼女が包丁で野菜を刻む無機質な音だけが部屋に響く。
「他には、その刑事は何を聞いて来たの?」
しばらくして、今度はアルカの方から質問を投げかけてきた。
彼女は事故について誰が何を知りたがっているのかが気になるらしい。
「アルカを含めて、その日に潜ってたっていう冒険者四人パーティの安否についてを尋ねてきたよ。それから、例のヘルケルベロスとかいうモンスターについて」
「刑事はその件を確かに事故っていってたのね?」
「そうだな」
俺のその返答を聞いて、アルカは何かを考え込んでいるような様子だった。
「なぁ、お前はその事故とどういう関係があるんだ? 出来れば隠し事は無しで話してくれないか」
一方で俺は彼女が一体何を考えているのかすら検討がつかないので、少しやきもきしていた。
それもあって、若干アルカを追い詰めるような語気になってしまう。
「……ッ」
彼女はしばらくどうするべきか悩んでいたようだが、その内に動揺したのか調理する手を滑らせて指を切ってしまった。
その傷口から血が滲みだしていたが、アルカは意にも介さないように口を開く。
「……関係がないといったら嘘になっちゃうわね。あたしはいま、その事故の件で追われているの。でもね、誰が味方で誰が敵かもわからない。だから家にも帰らずに安否を誤魔化そうとしてたってわけ。それが全てよ」
「なるほどな、そういう理由か」
アルカは目を逸らしながらいいにくそうに話してくれた。
謎はまだまだあるが、それならとりあえずは色々と納得が出来る。
少なくとも俺に気があって帰りたくないなんて言われるよりはよっぽど合理的だ。
「それは、厄介な状況なんだよな?」
「そうね。あんたが思っているよりも結構厄介な状況かもしれないわ」
「困ってるなら、そう言ってくれればよかったのに」
俺が脱力したようにそう言うのと対照的に、彼女の体はまだ緊張でこわばっているようだった。
それから少しして、アルカは小さな声で言葉をこぼし始めた。
「あたしは、あんたの想像よりも卑怯な女なのよ。本当は全部黙ってるつもりだったの。だって追われてるなんて知られちゃったらすぐに迷惑だって追い出されると思ったから」
アルカが喋りながら手近にある荷物をまとめ出したので、俺は慌てて彼女の後ろを追いかける。
「何してるんだよ?」
「何してるって、こんなの知られちゃったらもうここを出ていくしかないじゃない」
「ちょっと待てよ」
やや強引にアルカの腕を掴むと、彼女はそれを嫌がるでもなく心底から不思議といった表情でこちらを見ていた。
「どうして止めるのよ?」
「どうしてって、お前他に行くところなんてあるのかよ。友達だってろくにいないくせに」
「別にあたしのことなら大丈夫よ。今までだってどうにか一人で生きてきたし」
その場で立ち尽くしながら、拗ねたように目を逸らしアルカはそう吐き捨てた。
その言葉に、ついに耐えていた俺の堪忍袋の尾が切れる音がした。
「お前さ。助けて欲しがったり、かと思えばもう大丈夫って言ったり、ちょっと勝手すぎるだろ」
「……」
俺に大きな声を出されるだなんて考えてもいなかったのか、アルカは少しだけ身体を震わせた後で黙ってこちらを見上げていた。
「……迷惑ならヘルケルベロスを押し付けられた時点でとっくにかかってるんだよ。あれのせいで、俺は変に世間の注目を浴びてるらしいからな。それに今更出ていかれたところで余計にもやもやするだけだ」
「……」
アルカは俺がとつとつと語るのを、ただじっと嫌がるでもなく聞いているようだった。
「なぁ、どんな厄介ごとか知らねえけど一度は頼るつもりだったんなら、せめて話しくらいしてみろよ。お前はいま一体何を背負ってるんだ?」
「でも、変に関わるとあんたも狙われるかも」
彼女は、唇を噛み締めながらおずおずと呟くようにそう溢した。
「別に俺がどうとか、そんなのどうだっていいだろ。俺は、お前が思うより弱い冒険者じゃない……。本当はヘルケルベロスだって俺が倒したんだよ」
「それがあんたの秘密ってわけね?」
「ああ、だからお前もどうしたいのか話してみろって」
本当は他の誰かにそんな重要な事実を喋るつもりはなかった。
俺が不死身だとか、戦闘力があるだとか、そういうのは昔あった
……正しくは昔の俺がそうするように日記へ書き残していた。俺自身の記憶は不思議と殆どない。
でも、アルカから言葉を引き出すためには対価として俺も何かを喋らなきゃいけない気がした。
理屈ではなく、感覚的な選択なので全く合理性にはかけているけれど。
それでも、アルカの表情からしてその告白は決して無意味ではなさそうだった。
「ねぇ、一つだけ聞きたいんだけど。あんたはどうしてダンジョンで知り合っただけのあたしにそんなに優しくしてくれんのよ? まさか、本当にあたしがタイプとか?」
「なんでそうなるんだよ。善意だろ、ただの善意」
ジッと射抜くように見られながら、訳のわからないことを言われて、今度は俺が慌てて目を逸らす。
確かに、アルカは可愛いけどそんなつもりじゃない。絶対にいや、たぶん……。
「そんな都合の良いやつって、この世にいる? まだ下心の方が納得いくんだけど」
「じゃあ下心ってことにしておいてくれよ」
ぶっきらぼうにそう返しても、彼女は納得がいかなさそうに尚も一歩こちらに詰め寄ってくる。
近い近い、緊張するだろうが。
「だったら、あたしのこと今夜抱きなさいよ。その時にあんたが知りたいこと全部話してあげるわ。それでいい?」
「なんでそうなるんだよ!?」
思わず声が裏返ってしまった、なんてことを言い出すんだコイツは。
え?
だ、抱くってそういうことだろ?
その流れは全然意味わからないだろ!?
「だって、変に優しすぎる人間なんて信じられないもの」
「お前ってマジで面倒臭いやつだな!?」
それは心の底から出た大声だった。
アルカのことは初めからメンヘラくさいとは思ってたけど、いざそういうことをされてみると覚悟していても面倒なものだ。
これって、俺のことを試しているんだよな?
「そんなこと言われても、あたしだって好きでこうなったんじゃないもの」
しかし、その目は冗談でそんなことを言っているわけではなさそうだった。
コイツはマジで抱かないと喋らないつもりだというのが何となく本能でわかる。
俺の倫理観と、アルカの覚悟のようなものがつばぜり合いをしているようだ。
「あー、もう!! じゃあこれでいいか!?」
結局、根を上げたのは俺の方だった。
深くため息をつきながら、覚悟を決めてアルカの胸を服の上から触る。
童貞に出来る限界はここまでだ。正直、本当に抱けなんて言われても出来るわけがない。
だって、そんな根性ないし……。
「……」
てっきり、ビンタの一つくらいはされるんじゃないかと思い内心びくびくしていた。
が、アルカは俺の表情を伺いながら手のひらの上から手を重ねて更に強く揉ませた。
「う、うぉ……」
思わず声が漏れてしまった。服越しのはずなのに、どこまでも沈み込んでいくような感触がする。
「こ、これで俺は下心でお前に協力するやつってことで文句ないよな?」
「……はぁ、そうね、童貞くさいけどもうこれでいいわ。わかった、あんたの提案通りにしばらくここに居させてもらうことにするから。それで本当にいいのね? 後悔してもしらないわよ」
アルカはそれから、突然俺のことを抱きしめるような姿勢で顔を肩に埋めた。
その瞬間、ふわりと女性らしい甘い匂いが鼻をくすぐる。
「待って、今絶対顔見ないでよ。見たら殴るから」
「なんなんだよ、本当に」
アルカが震えるような声で、俺にしがみつきながらそう言った。
たぶん彼女はいま泣いているのだろう。
しかし、俺が彼女の表情を確かめようと距離を取ろうとしても、腕に力をこめて止められてしまう。
「いいからしばらくそのままでいなさいってば」
「わかったよ」
それからしばらく、アルカは噛み締めるように嗚咽を漏らしていた。
俺はなすすべもなく、ただ彼女を抱きしめ返すことしか出来ない。
というか、この姿勢いろいろと厳しいんだが……。
ーーー
「あんたのせいでせっかくのご飯が冷めちゃったわ。もう仲直りってことで食べましょう?」
「別に俺は喧嘩なんかしたつもりはねえよ」
ちょっとだけ、アルカが気まずい雰囲気をかもし出しながら食卓に皿を並べ始める。
「それは、もうどっちでもいいじゃない」
「それもそうだな」
まぁ、アルカがそれでいいというならそれ以上はツッコむことをやめることにする。
今日も食卓に並べられた料理はどれも美味しそうだった。
「じゃあ食べながら、あたしが今何に巻き込まれてるかについて話すわね」
そうして、目を赤く腫らしたアルカはゆっくりと言葉をこぼし始めた。