「この券売機、硬貨はどこに入れるんだ」
「いやねぇ、あなたは妙なところで機械音痴なんだから」
「戸惑うのも無理ないだろう」
妻の言葉に俺はそう言って応え、財布から六枚の硬貨を無造作に投入口に投げ込んだ。ややあって、切符が出てきた。妻も隣の券売機で切符を買っている。
「行先は押さなくていいのか」
「料金は決まってるんですもの、六文じゃない」
そうだった。どこで降りるにしても料金は均一だった。
「そうだな、優紀は寝てるかい」
「ぐっすり寝てるわ、多分どこにいるかもわかってないんじゃない?」
「そうか、それならいいんだ」
俺と妻はベビーカーを押して、改札をくぐった。
「乗り場はわかってるんでしょうね」
「直通の乗り場があるはずだが……あれ?」
直通電車の乗り場の電光掲示板には、次の電車の時刻が表示されていなかった。どうやら止まっているらしい。
「あら、こんな時に」
駅のアナウンスが聞こえてきた。切符を買うのに集中していたため、そのアナウンスに気が付かなかったのだ。
『天道駅行き直通電車はお客さまの車内トラブルの影響により、全線で運転を見合わせております。ただいま振り替え輸送を実施しております。改札口にて振替乗車票を受け取りの上、別路線での振替乗車をご検討ください』
「おいおい、こんなところで立ち往生は困るな」
俺は呟いた。子連れの中で乗り換えを繰り返すのは大変だ。
「あなた、これチャンスじゃない?」
「どういうことだい?」
妻が真剣な顔で耳打ちをしてきた。なるほど、これはチャンスかもしれない。
「そうと決まれば、話は早い。何とかルートを探そう」
俺たちは振替乗車票をもらって、ベビーカーを押しながら路線図の前に向かった。直通電車に乗るつもりだったため、路線図をしっかり眺めていなかったのだ。
「比良坂線はどう? 千引駅まで
「ううむ、そこで降りたところでどん詰まりだぞ、また結局
「じゃあ、この六道線はどうかしら」
「環状線でぐるっと一回りするのか」
なるほど、六道線も「天道駅」を経由している。これなら時間がかかっても着けそうだ。それに、妻のアイディアにも合致している。
「よし、ダメで元々だ、乗るだけ乗ってみよう……優紀はまだ寝てるかい」
「ええ、さっきと変わらずぐっすりよ」
「いい気なもんだ」
俺たちはベビーカーを押して、六道線のホームまでの通路を歩いた。ターミナルは人でごった返していたが、皆乗り換えて、それぞれの目的地に向かうのだろう。
俺たちもその人込みに交じりコンコースへの階段を降りるのだった。
「子連れは私たちだけみたいね」
「ほとんどが一人旅っぽいな」
「そっち持ってくれ、ベビーカーだと危ない」
「はいはい」
妻がベビーカーを器用にたたむ。俺はベビーカーから優紀を抱き上げた。
「あなた、六道線には乗ったことはあるの?」
「さぁなぁ、昔乗ったこともあるようなないような……記憶にないくらいだ」
「私もなのよ……無事に出来るかしら」
妻も不安げに言った
「不安がってちゃいけないよ。俺はお前のアイディアに乗るって決めたんだ」
「そうね……優紀がいると落ち着いて天道まで行けないものねぇ」
優紀がいるとベビーカー用のスペースを探したり、ホームからベビーカーが転げ落ちたりしないかと、常に心配事が増えるのだ。
「そうだ。これも優紀のためだぞ……ああ、ここだここだ」
六道線と書かれた案内板を確認し、ホームへと上がった。
俺たちは六道線の車内にいた。車内はそこそこ混んでいて車両の端の優先席付近に立っていた。べビーカーをたたむほどの混雑ではなかったので、優紀の乗ったベビーカーはそのままにしておいた。
「ねぇ、この電車に終点ってあるのかしら」
「環状線だろ、終点って概念はないんじゃないかなぁ」
「そうはいっても、電車は車庫に入らなきゃいけないじゃない」
俺は考え込んだ。24時間365日休みなく運行していても、なんだかんだで車庫に入って点検やら交代やらをしなければいけない。その辺はどうなんだろう。
「まぁ、あまり難しいことを考えても仕方ない。お前のアイディアだと目的地へ行く前に一仕事しなきゃいけないんだから」
「そうね……でもいいのかしら」
「よくはないさ、本音を言えば俺は嫌だ」
「私も嫌よ」
「優紀は寝てるかい」
「まだ寝てるわ。むずがったりしたら大変」
「そうだな」
俺は妻と顔を見合わせた。妻のアイディアを実行するにしても、それはとてもしんどくて辛いことなのだ。俺たちの乗った電車はとある駅に着いた。
「天道駅」ではないが、俺と妻はベビーカーを押して電車を降りた。
「やぁ、着いたな」
「あなた、手早くしないと大変よ」
「そうだった」
俺はホームの真ん中にある柱を見つけ、その傍らで優紀のベビーカーの下にあるロックをかけた。妻はベビーカーの下にあるポケットからチェーンロックを出してきた。ベビーカーの盗難防止のために用意していたものだ。
「あなた、きちんと出来たわ」
妻がチェーンロックでベビーカーを柱に固定する。これでベビーカーがホームから転げ落ちることもない。幸い、他の乗客も俺たちのやっていることに気が付く様子はなかった。
「よし、すぐ次の電車に乗ろう」
「すぐ来るかしら」
「なに、すぐ来るさ。24時間365日動いてるんだし、乗客は絶えずいるんだからな」
俺の言葉を待たずして、次の電車の到着を知らせるアナウンスが流れてきた。
「優紀、さよなら」
俺たちは優紀ののったベビーカーを後にして、次の電車に乗り込んだ。後ろ髪を引かれる思いはあったが、これが一番優紀のためになる。親としてそう決めたのだ。俺たちが優紀を下した駅は「人間道駅」。まだ、優紀が俺たちと一緒に来るのは早いのだ。
「ねぇ、あなた」
「どうした」
環状線に乗り込んでからしばらく、俺たちは無言だった。
やはり優紀と別れるのがつらかったのか、妻は少し涙をこぼした。
「子どもは遺失物扱いにならないの?」
「そんな話は聞いたことがないなぁ……まぁ、駅員のモラルを信じるしかないさ」
駅員が優紀を見つけて驚くだろうが、駅員には子どもを保護して『最寄り』の警察に連絡する義務がある。そのモラルに唯一の希望を託すしかない。
「そうね、やるだけのことはやったものね」
妻は涙をぬぐって笑った。そして寂しげに呟くのだった。
「でもね、私たち天道駅で降りられるのかしら」
「そうだなぁ……今の俺たちじゃ天道駅で降りる資格はないのかもしれんな」
直通電車に乗れば、家族三人で「天道駅」で降りられただろう。しかし、俺は「天道駅」の改札を出られるとは考えていなかった。なんせ子捨てなんてことをしてしまったのだから。この罪はどれだけ業が深いんだろう……と。
もしかしたら、俺たちは「天道駅」に辿り着くことなく、永遠に六道線から
おそらく妻も同じことを考えているだろう。
「あなたに悪いことしちゃったかしらね、私だけでやればよかったのに」
「そんなことないさ、たくらみに乗ったのは俺も一緒だ。こうなったら二人連れでどこにでも行ってやろうじゃないか」
俺は若干不安だったが、精一杯強がって見せた。
「そうね、あなたと二人ならいいわね」
電車は「地獄道駅」「阿修羅道駅」を経由して「天道駅」へと向かっていた。徐々に車窓は暗いものから明るいものへと変化していった。
「赤ちゃんが息を吹き返しました!」
「なに、すぐトリアージタグを付け替えろ、赤だ、今すぐ!」
救急隊員が大声で叫ぶ。
高速道路の玉突き事故現場で、優紀は大声で泣き叫んだ。
俺と妻の体には、黒色のトリアージタグがつけられていた。