その夜、私はお母様の部屋を訪ねた。
「あら、どうしたの?」
扉を開けてからもお母様はしばらくぼうっとしていた。
髪も少し乱れている。
「お疲れかと思って」
「まあ、そんなことはないわよ。それよりあなたのほうは大丈夫? 結構長々と司法省の方、あなたに色々聞いていたということじゃないの」
「ええ、離れを家族の中で、今一番良く知っているのは私だからと」
「そうよね」
まあお座りなさい、とお母様は私にソファの横を示す。
私は近寄ると、床にぺたんと膝をつけ、お母様の膝に頭を乗せた。温かい。
「まあどうしたの、子供みたいに」
「そうですね、とっても久しぶり」
思わずぽつんと言ってしまった言葉に、お母様はあ、と小さく声を立てた。
「そうね、ここにやってきてからそんなことをさせてやる暇も無かったわ」
「お母様はお忙しかったから」
「まあ、ね」
「お母様は、結婚前はどうだったの? 今の私のように、色々教えてもらっていたの?」
「そうねえ」
ちら、と顔を見上げる。
「貴族のお嬢様の教育は、まるで受けていなかったわ。本当に、最初から受けていたらとつくづくここに来て思い知ったわ」
しみじみとした口調で言う。
「そんなに?」
「ええ。教師を雇えるような家ではなかったのよ。あなたの母様の育った男爵家は」
「どのくらい?」
「知りたい?」
「知りたいわ」
そうね、とお母様は少し目を細めた。
「貧乏だったのよ。本当に。使用人も雇えないほど。お父様が私を買ってくださるまで、家に伝わったものを切り崩し…… 宝石とか、古い書物とか、つくりが美しい家具とか。そういうものを売って日々を送るようなところだったわ。それでも家だけは、と。無論ここよりは小さいけど、それでも森や離れより大きな家は絶対あなたのお祖父様は手放さなかったのよ」
「お祖父様…… 昔一度だけ会ったことのある?」
本当に、一度だけある。
ただライオンのたてがみのような髪の毛と、酷く不機嫌そうな顔しか記憶にない。
私はそれを見て泣いた…… かもしれない。
そのくらいの印象しかないのだ。
だから、その時お母様がお祖父様と何を話したのかも知らない。
「だから、あなたの母様は、ばあやと一緒に一生懸命掃除はしたわ。お料理も厨房で一緒に作ったのよ。皆のぶん」
「皆って。お祖父様の?」
「あなたのお祖父様とお祖母様と、それに伯父様伯母様三人のね」
上に三人のきょうだいが居た、ということか。
「伯父様伯母様達も掃除とかしたの?」
「いいえ、あなたの伯父様は働きに出ていたから。あとは何もしていなかった」
後半をお母様は吐き捨てる様に言った。
「なかなか結婚相手が決まらなくてね。まだ少し裕福だった頃に少し教師がついたことがあったせいか、縁談があると信じ切ってそういうことばかり上の二人の、あなたの伯母様達はぺちゃくちゃと話していたわ」
お母様は気付いているのだろうか。
決して自分のお兄様とかお姉様とか言っていないことに。
「だからね、旦那様からのお話があった時にはまずお祖父様はごねたのよ」
「ごねた?」
「最初から側室だ、愛人だなんていくら侯爵だって無礼だ、って。でもお金を積まれたらそれでもすぐに了承したわ」
「お母様それって」
「ああでも誤解しないでねマリア。私は旦那様が私をどんな形でも連れ出してくれたことには感謝しているのよ。だってほら、森の家の暮らしは楽しかったでしょう?」
楽しかった。
でもまだ物心つかないうち。
何かを知る楽しさはあまり知らなかった頃。
私より、私以上にずっとあの暮らしが楽しかったのは、お母様じゃないの?
そう思ったけど、口には出せなかった。
*
お母様は自分が「買われた」ということは意識していて、それでも実家より良かった、幸せだと思っていた。
お母様の実家のことには思い当たりもしなかった。だとしたら、お母様が今の暮らし、この家への執着が強いことも判る。
……
とか考えていたら、だんだん眠気がさしてきた。
時計がもう寝ろ、とばかりの時刻を示している。
仕方ないな、と灯りを消した時。
こん、と窓を叩く音がした。
慌ててそちらの駆け寄ったら、ベランダに知った人影があった。
「……イルド?」
見知ったものより、大きくなった姿。
幼なじみの姿がそこにはあった。