十月中旬に差し掛かろうかという頃。県の教育委員会から一通の封筒が届いた。中を検めると、一枚の用紙の頭にでかでかと、「選考結果通知書」と記されている。真ん中あたりには、「公立学校教員採用候補者選考(第二次選考)において、下記の結果となりましたので通知します」と。
結果は不合格。
……まぁ、しょうがない。何にしても、一次の筆記試験は通過した訳だから、一年足らずとはいえ、ある程度コツコツと積み上げた結果が出たこともあり、そこまでの悔いは無かった様に思える。それに多分、おれ一人では筆記試験すらも突破出来なかったかもしれない。尻に火を付けるタイミングを伺っている間に年が明け、ようやく本腰になった頃にはもう試験目前といった可能性すら無きにしも非ず……。その点に関しては、由希子に感謝の言葉の一つでも言ってやろう。結果だけ見れば残念に終わったのかもしれないが、一つ区切りがついたということもあってか、思いの外気持ちはすっきりとしていた。
ところでその由希子はというと……。
「竜也くん! わたし受かったよ!」
その日の夜さっそく電話を掛けてきてくれた。通知書を開いてすぐに連絡をくれたのだろう。携帯片手に、書類を握りしめ、飛び跳ねている由希子の姿が目に浮かぶ。由希子の弾ける声色に、おれも釣られて嬉しくなった。
「おう! おめでとう! 本当良かった! ってか、お前は受かって当然だろ」
「あ……。竜也くん……もしかして、ダメだった?」
お前は、という言葉で、由希子を一瞬戸惑わせてしまった様だ。
「ああ。まぁ、しょうがねぇよ」
「そっか……ごめんね。なんか、自分のことばっかりで。つい、舞い上がっちゃって」
「別に落ち込んでなんかいやしねぇから、気にすんなっての」
「……うん」
暗い。全く。
「かぁー! なぁに湿っぽい空気出してんだよ! 馬っ鹿だねぇお前は! 次の春からいよいよ本当に先生やんなきゃならねぇんだぞ? おれのことよりてめぇの心配してろっての!」
「……そりゃそうなんだけどさ。……わたしが竜也くんのこと心配しちゃダメなの?」
「お前が思ってるよりもさ、おれはこれっぽっちも気にしちゃいねぇんだよ。だからお前も気にしなくて良いっての。たかだか試験に一つ落ちただけじゃねぇか。命まで取られる訳じゃあるまいし。そんなもん、また来年受けりゃ良いだけだろ? ってか、現役で一発合格って方がよっぽど珍しいんだ。むしろお前は、もっと偉そうにしてろっての」
「……うん」
「それによ、おれが落ちたおかげでお前は受かったんだかんな。おれが通ってたらその分、後ろにはみ出して、お前なんか滑り落ちてるよ。あれだよ。ところてん押すやつみてぇにこう、ケツからぐいぐいっと」
「なにそれ。ってか、それでもわたしも受かってるし」
ようやくいつもの由希子に戻ってきたかに思える。何故に試験に落ちたおれが、受かった由希子に気を遣ってやれねばならんのだ。全く。世話の焼けるやつだ。
「それで良いんだよ、お前は」
「うん」
「でも、本当に良かったな」
「うん、ありがとう」
まだ両親にも連絡していないということだったから、おれとのやり取りなどどうでも良いからさっさと報告しろと言って電話を終わらせ様とすると、また少しばかり不満気であった。何にしても、由希子が受かった事は本当に喜ばしい事である。そして、良い報せは由希子ばかりでなく……。
「やっと就職決まったんだけどー! マジで泣けるわー!」
紗良も何とか地元で働き口を見つけてきた。就職氷河期と言われるこのご時世。関東で大手の企業ばかり狙って、ことごとく連敗を重ねていた紗良は、まんまと就職活動の沼にハマっていた。しかしようやくそこから這いずり出すことができ、心から安堵した様子である。
「でも私、事務とかできんのかなー。でもまー、何とかなるっしょ」
本人が何とかなると思っているのだから、きっと何とかなるのであろう。何にしてもまずは、電話口でのマナー講習からだな。
優一はと言うと実は夏に、ひと足先に市役所の採用試験に合格していた。一応ある程度皆の結果が出るまでは大人しくしておこうと、報告も控えめなものであった。なのにそれがここに来て、皆の報告を受けて途端に浮き足立ちはじめた。
「いやぁ、皆んなちゃんと進路決まったけぇ良かったの。おれは公務員なれたし、紗良も地元で就職。由希子は念願の教師。めでたいのう。久々にパッとやってお祝いでもしようや。あれ? そういや竜也は春から何するんじゃったかの? もう一年ここにおるんじゃったっけ?」
「うるせぇなぁ。落ちたんだよ、おれは。ってか、さすがに卒業はできるっての」
「まぁの。さすがに五年もお前みたいなんがここにおったら、学校の品位が下がってしゃあないわ」
「てめぇ。これから人様の税金で生活していこうって奴が、一般市民に向かって何て口の聞き方してやがんだ」
「そんな事はな、ちゃんと自分で稼いで、税金納める身になってから言うもんじゃ」
そう偉そうな口を聞くお前もまだ、現時点では学生ではないか。全く。
兎にも角にも、四人のうち三人の進路が定まったという事は非常に喜ばしい事である。これを祝わずにしていられようか。それに、三人の運気におれもあやかるためにも、とりあえず一旦ここいらで、優一ではないが、皆でパッとやろうではないか。久々におれのアパートを解放して飲み会を開催することとなった。
買い込んだ酒とつまみを、おれと優一がそれぞれの原付きでようやっと運び込み、由希子と紗良も各々持ち寄って、さあ、皆で乾杯。
「とりあえずひと区切りー! 皆んなお疲れ様ー!」
就職活動から解放されたからか、いつにも増して紗良のテンションが高い。まぁ確かに、何十社からも断られ続けるということは、自分を否定されているかの様な気になって、よっぽどメンタルに響くものなのだろうなきっと。紗良に限らず、皆よくそんなもの乗り越えられるものだ。
「ってかさ、一応お前ら三人のおめでとうも兼ねてんだから、普通に店で良かったんじゃねぇの?」
「そうなんだけどさ。でもなんだかんだ、ここで飲むのが一番落ち着くよ」
「んー……。竜也の言う事も一理あるのう。なんかこの部屋、負け犬の匂いがするっちゅうか、負のオーラが漂っとるっちゅうか……」
「だよなぁ。お前もせいぜい、合格取り消しになんねぇ様に気ぃつけな。腐ったミカンはうつるって言うかんな」
「そうじゃの。いや、そもそもタワシは腐りゃせんけぇの」
明るく振舞ってはいるものの、おれへのイジリに関してだけは、由希子も紗良もやや控えめに笑う。やはりまだ二人は少し、おれだけ試験に落ちたことに気を遣っているのが伺える。もうここまで来たら、優一みたいに一思いにイジリ倒してくれた方が潔いのに。
「でもさー、竜也君は実際これからどうすんのー?」
途端、紗良が珍しく真面目な面持ちに。
「とりあえず講師の登録はするよ。でも結局年度末、遅けりゃ本当ギリギリまで分かんねぇってよ」
「そうなったらお前、無職のまま卒業式迎えにゃならんなるじゃろ。就活はせんのけ?」
「落ちたからって、今更就活なぁ……」
そもそも、就職活動をしようという思いが心の隅にも無かった。
「ほれ見ぃ。こいつはケツ叩いてもらわんと自分じゃよう動かんのじゃけぇ、二人ももっと言うちゃれ。このまんまじゃあこいつ、春からホンマにプー太郎じゃ」
「うるせぇよ。さすがにプーにゃならねぇから黙ってろ」
「ずっと聞いてなかったんじゃけどさ、なんでお前教師になりてぇんや?」
「確かにー! 私もそれ聞きたーい! なんで先生になりたいのー?」
三人がジッと耳を傾けたままおれの言葉を待っている。何だか前にもこんなことがあった気がする。別にこの三人と話すことに気は遣わないが、改めておれの発言に注目されるとやや気恥ずかしい。なので、「別に人様に言うほどの、大した理由じゃねぇよ」と、茶を濁した。
「えー! 気になるんだけどー!」
「どうせこいつの事じゃけぇ、女子高生とキャピキャピしたいだけじゃろ」
「ウケるー! 熟女好きかと思いきや、まさかの歳下好きだったのー?」
「んな訳ねぇだろ。ってかいつの話してんだよ。……いや、でもそれはそれでアリだな。三十代でハタチの嫁ってのも悪かねぇな」
「やっぱお前は落ちて正解じゃわ。お前みたいなんが教師になったら、それこそ世も末じゃ」
それなりに酒も進んで宴もたけなわ。日付けを跨ごうかという頃、軽く酔いでも覚まそうかとおれは一人、アパートの駐車場へと出た。日中だと時折、じんわりと暑い日もまだあるが、夜は薄着だとやや肌寒い。でもそれが、酔い覚ましには丁度良い。
縁石に腰掛け一服。もう夜更けだというのに、やけに辺りが白んで見えるなと思ったら、今日はすっかり満月だ。月明かりを受けた周りに建つ民家やアパートも、真っ直ぐ下に影を落とすものだから、夜中だというのにそこいらの道が明るく見える。少し道路を歩いてみると、自分の落とす影とアスファルトが同化して、まるで闇夜にふわふわと浮かんでいる様で不思議な心持ちになった。
こいつは良い夜だ。あとで部屋に戻って酒を持ってこようか。月見酒もまた乙だろうななどと思いながら、再び縁石に腰掛けたあたりで玄関のドアが開いた。
「外、寒くないの?」
ドアの隙間からひょっこりと由希子が顔を出した。
「寒くねぇよ」と返事をしたら一歩出てきた由希子だが、すぐに部屋に戻り、再び出てきた時には上着を一枚羽織っていた。
「お酒も飲んでるし、薄着でこんなとこいたら風邪ひいちゃうよ」
そう言いながら由希子も隣に腰掛けてきたので、さっきのタバコは消して、新たにもう一本火を付け直した。見慣れたはずの駐車場だが、こんなにも幻想的で何とも心地が良い。せっかく出てきたのだから、新たにもう一本吸って、由希子にもこの景色に付き合わそう。そう思ってタバコを燻らせていると、由希子が口を開いた。
「ねえ。さっきの話、聞きたいんだけど」
「あ? さっきの話ってどれだよ?」
「言ってたじゃん。なんで先生になりたいのかって」
「ああ。年下の若い子と結婚してぇって話か」
「……ばか。真面目に聞いてんだけど」
カカカと笑うおれを他所に、由希子は口を膨らませている。
「そんな大した理由じゃねぇんだけどなぁ」
「良いから! 聞かせて?」
月明かりが反射して、由希子の目はキラキラ輝いて見える。
「……ガキの頃によ、憧れる先生に会っただけだよ。本当にそれだけ」
脚の裏から背中から、妙にこそばゆくなった。「ふーん」とだけ返す由希子の顔は、相変わらずあのお月さんみたいに笑っていやがる。
「何だよ。どうせあれだろ? もうちょっとマシな理由を期待してたんだろ?」
「ううん。ただ、竜也くんみたいな人がそう思える先生だから、きっと素敵な先生なんだろうなって」
「みたいな、って何だよ」
「みたいな、は、みたいな、だよ」
「何だよそりゃ」
ふうーっと吐き出すタバコの煙が、踊る様に高く高く登っていく。その煙を追っているのか、釣られる様に由希子も顔を上げた。
「うん。なれるかもね。竜也くんなら」
「まぁ、試験は落ちちまったんだけどな」
「ううん、大丈夫だよ」
「だからお前は自分の心配してろっての」
「別にもう、心配とかじゃないし」
電話口と違って、今度は由希子は笑っている。その表情を見ておれも根拠は無いが、この月夜の様に自分の未来が、今はまだ足元は暗いけれど少し見上げればその先は、明るく透き通っているのかもしれないなと思えて、何やらほっこりとした心待ちになった。
すっかり酔いも覚めて、体も少しだけ冷えてきた。タバコを消し、とりあえず一旦月を見納めに、もう一度上へと顔をやった辺りで由希子が言った。
「今日は月が綺麗だね」
「月なんてもん、いつ見たって綺麗だろ」
おもむろにこちらへ顔をやった由希子だったが、さっきまでのものとは違って見えた。覗く八重歯も、月光以上に輝いて見える。
「それってあれ? 夏目漱石?」
怪訝に思ったおれは、「あ? 何言ってんだお前」と問い返すと、「やっぱさっきの取り消し!」と、やや不貞腐れた様に口を尖らせた。でもすぐに由希子は笑って、また二人でぼんやりと月を見上げていた。
ガチャンと、ドアノブを品の無い音で回しながら、「お前らいつまで二人でイチャイチャしとるんや。早よ戻って来んかいや」と、優一が半身を出してきた。「うわっ。外、寒ぃの」と、玄関から伸びた片足は裸足のままである。風情の無い野郎だ。せっかくの月夜もすっかり台無しになったので、やれやれと部屋に戻り、また皆で飲み直し始めた。
でも久々の宴は朝まで続くことはなく、その後しばらくすると四人とも、電池が切れた様にパタッと眠り落ちてしまった。