「人々は、卿と
卿としては、どう思う?」
すると周顗、こう答えた。
「陛下、そこでこの顗を
引き合いにお出しくださいますな」
あーわかったわかった、ではこう聞こう。
明帝さま、質問のしかたを変える。
「ならば、卿と郗鑒とでは、
どのような違いがあるだろうか」
その質問ならば、と周顗。回答する。
「臣に比べ、多くの努力を積んで
来られたお方のように思います」
ほうほう。
では、同じことを郗鑒にも聞いてみよう。
郗鑒が答える。
「臣に比べ、良い家柄でございます」
明帝問周侯:「論者以卿比郗鑒云何?」周曰:「陛下不須牽顗比。」
明帝は周侯に問えらく:「論者は卿を以て郗鑒と比せるに云何」と。周は曰く「陛下は須く顗を牽きて比ぶべからず」と。
(品藻19)
明帝問周伯仁:「卿自謂何如郗鑒?」周曰:「鑒方臣如有功夫。」復問郗。郗曰:「周顗比臣有國士門風。」
明帝は周伯仁に問うらく「卿は自ら謂うに郗鑒とでは何如」と。周は曰く「鑒は臣に方べ功夫を有せるが如し」と。復た郗に問う。郗は曰く「周顗は臣に比し國士の門風有り」と。
(品藻14)
郗鍳
東晋北方守護を語るにあたり、大きな存在感を示す。建康の東に位置する軍事拠点「京口」を開府した武将である。この軍府を拠点とした軍閥は、後に北府軍と呼ばれることとなる。即ち系列としては劉裕の遠い先輩と言うことになる。もと司馬倫配下であったが病を理由に離脱(素晴らしい判断である)、八王永嘉の難を避けて東晋入り。対峙した相手が石勒、王敦、蘇峻、即ち当時に於ける最悪の敵ばかりであり、この全てを乗り越えた手腕は、やはり特筆されるべきであろう。
なお明帝が即位してる頃、既に周顗は王敦に殺されている。つまり周顗が明帝を「陛下」と呼んだことはないはずなんだが(皇太子なら「殿下」)、まーもうどうでもいいや。