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王敦5  王敦の参謀

王敦おうとん楊朗ようろうという人を

めっちゃ買っていた。

王導おうどうさまあての手紙で、こう書いている。


「あいつの見識及び判断力、

 かつその隠然たる才覚は、

 国の宝、と呼ぶにふさわしい。


 楊淮ようわい様のお子である、

 という事を考えれば、

 その出世の遅さが信じられんほどだ。


 王導よ、お前の側にいるにも

 相応しい器だと思うぞ」



その手紙があっても、結局楊朗は

王敦のもとにとどまり続けていた。

そしてやがて起こる、

第一次王敦おうとんの乱でのこと。


王敦の決起に対し、楊朗は繰り返し

諫言をしてきたが、聞き入れられない。

遂には意を決し、指揮官の為の車に乗る。


そして、言う。


「下官は耳にしたことが御座います。

 鳴り響く鼓の下、兵が一丸となって

 戦うことができれば、勝利する、と」


王敦、感激のあまり楊朗の手を取る。


「ことが終えたら、

 卿には荊州けいしゅう刺史の座を約しよう!」


王敦の乱、終了。勝者は王敦。


で、楊朗。南郡なんぐん相になった。

あれ? 荊州刺史は?


(※南郡は荊州の中の郡だゾ☆)


ひとときは大きな権勢を得た

王敦だったが、明帝らの指導のもと、

徐々に権勢を削がれ、

二度目の決起直後に死亡。

王敦軍残党は狩り尽された。


楊朗、王敦軍の参謀として

明帝の前に引っ立てられる。

当然のように処刑される予定だったのだが、

直後には明帝も、若くして崩御。


楊朗は命をつなぎとめ、

しかもその位は三公にまで登った。


この時に数十人ほど抜擢した。

当時はみな無名であったが、

たちまち頭角を現し、

世論の称賛を浴びるようになる。


人々は、楊朗の人を見る目に

感心したものだった。




王大將軍與丞相書,稱楊朗曰:「世彥識器理致,才隱明斷,既為國器,且是楊侯淮之子。位望殊為陵遲,卿亦足與之處。」

王大將軍は丞相に書を與え,楊朗を稱えて曰く:「世彥の識器理致にして才隱明斷なるは、既にして國器為り。且つ是れ楊が侯なる淮の子なり。位望の殊に陵遲為れど、卿は亦た之と處るに足らん」と。

(賞譽58)


王大將軍始下、楊朗苦諫、不從。遂為王致力、乘中鳴雲露車、逕前曰:「聽下官鼓音一進而捷。」王先把其手曰:「事克當相用為荊州。」既而忘之、以為南郡。王敗後、明帝收朗欲殺之。帝尋崩得免。後兼三公署數十人為官屬。此諸人、當時並無名、後皆被知遇于時。稱其知人。

王大將軍の始め下れるに、楊朗は苦諫すれども從わず。遂には王に力を致すを為し、鳴雲露車が中に乘り、前に逕みて曰く「下官、鼓音の一なるに進みたれば捷すと聽く」と。王は先に其の手を把み、曰く「事克らば當に相い用いて荊州と為すべし」と。既にして而して之を忘れ、以て南郡と為す。王の敗れたる後、明帝は朗を收め之を殺さんと欲せるも、帝は尋いで崩じ、免ぜるを得る。後に三公を兼ね、數十人を署して官屬と為す。此の諸人は當時、並べて無名なれど、後に皆な時の知遇を被る。其の人を知れるを稱さる。

(識鑒13)




楊朗

忖度マン楊脩ようしゅうさんのひ孫。いわゆる弘農こうのう楊氏と言う奴である。家系図見たら楊駿ようしゅんとか楊佺期ようせんきとかいて、なかなかニヤニヤさせられる。つーか王敦さんのうっかりぶりの回収されなさ具合がヤバい。

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