めっちゃ買っていた。
「あいつの見識及び判断力、
かつその隠然たる才覚は、
国の宝、と呼ぶにふさわしい。
という事を考えれば、
その出世の遅さが信じられんほどだ。
王導よ、お前の側にいるにも
相応しい器だと思うぞ」
その手紙があっても、結局楊朗は
王敦のもとにとどまり続けていた。
そしてやがて起こる、
第一次
王敦の決起に対し、楊朗は繰り返し
諫言をしてきたが、聞き入れられない。
遂には意を決し、指揮官の為の車に乗る。
そして、言う。
「下官は耳にしたことが御座います。
鳴り響く鼓の下、兵が一丸となって
戦うことができれば、勝利する、と」
王敦、感激のあまり楊朗の手を取る。
「ことが終えたら、
卿には
王敦の乱、終了。勝者は王敦。
で、楊朗。
あれ? 荊州刺史は?
(※南郡は荊州の中の郡だゾ☆)
ひとときは大きな権勢を得た
王敦だったが、明帝らの指導のもと、
徐々に権勢を削がれ、
二度目の決起直後に死亡。
王敦軍残党は狩り尽された。
楊朗、王敦軍の参謀として
明帝の前に引っ立てられる。
当然のように処刑される予定だったのだが、
直後には明帝も、若くして崩御。
楊朗は命をつなぎとめ、
しかもその位は三公にまで登った。
この時に数十人ほど抜擢した。
当時はみな無名であったが、
たちまち頭角を現し、
世論の称賛を浴びるようになる。
人々は、楊朗の人を見る目に
感心したものだった。
王大將軍與丞相書,稱楊朗曰:「世彥識器理致,才隱明斷,既為國器,且是楊侯淮之子。位望殊為陵遲,卿亦足與之處。」
王大將軍は丞相に書を與え,楊朗を稱えて曰く:「世彥の識器理致にして才隱明斷なるは、既にして國器為り。且つ是れ楊が侯なる淮の子なり。位望の殊に陵遲為れど、卿は亦た之と處るに足らん」と。
(賞譽58)
王大將軍始下、楊朗苦諫、不從。遂為王致力、乘中鳴雲露車、逕前曰:「聽下官鼓音一進而捷。」王先把其手曰:「事克當相用為荊州。」既而忘之、以為南郡。王敗後、明帝收朗欲殺之。帝尋崩得免。後兼三公署數十人為官屬。此諸人、當時並無名、後皆被知遇于時。稱其知人。
王大將軍の始め下れるに、楊朗は苦諫すれども從わず。遂には王に力を致すを為し、鳴雲露車が中に乘り、前に逕みて曰く「下官、鼓音の一なるに進みたれば捷すと聽く」と。王は先に其の手を把み、曰く「事克らば當に相い用いて荊州と為すべし」と。既にして而して之を忘れ、以て南郡と為す。王の敗れたる後、明帝は朗を收め之を殺さんと欲せるも、帝は尋いで崩じ、免ぜるを得る。後に三公を兼ね、數十人を署して官屬と為す。此の諸人は當時、並べて無名なれど、後に皆な時の知遇を被る。其の人を知れるを稱さる。
(識鑒13)
楊朗
忖度マン