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何晏8  後日の何晏評

遙かに時が下り、東晋とうしんの時代。

都の建康けんこうにて華やかな文学サロンを主宰した、

簡文帝かんぶんていは言っている。


何晏かあん嵇康けいこうと言った人は、

 非常に残念だ、と言わざるを得まい。


 何晏は文辞の巧みさを

 押し出し過ぎたがために

 排斥された。


 嵇康はその才能に頼り過ぎ、

 道理を損ねた。


 結果、二人とも

 殺されることになってしまった」




簡文云:「何平叔巧累於理、嵇叔夜雋傷其道。」


簡文は云えらく「何平叔が巧は理に累なり、嵇叔夜が雋は其の道を傷む」と。


(品藻31)




東晋簡文帝 司馬昱

名士伝でちらっと名前を挙げた(いや気付かないでしょうけど)東晋中期に文名を愛し、当代一流の文学サロンを生み出した文人皇帝。なおのちに兄の系統から皇位を「簒奪」する。桓温の傀儡だった、とされるが、さて。ともあれこれを簡文さまの言にするのはなかなかスリリングである。文名を博し、危うい立場となった、のは簡文様も同じだからだ。

嵆康

竹林七賢の筆頭のひとり(もう一人は阮籍)。魏晋期の司馬氏台頭に真正面切ってノーを言い切り、それが原因で殺されている。

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