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陳蕃1  汝南の陳蕃

陳蕃ちんばん

いわゆる党錮とうこの禁で殺されたひとだ。

太傅たいふにまで上り詰めたが、

外戚宦官らの横行と戦い、敗れた。



その言動は士大夫の規範となり、

その行動は世間の模範であった。


かねてより朝廷に出仕し、

世の中を良くしたい、

という気概に燃えていた。



そんな彼についての評価は、後世、

後漢末のひと、謝甄しゃけんのコメントから

うかがえるだろう。


かれは許虔きょけん許劭きょしょう兄弟を見て、

このように言っている。


平輿へいこう県の川べりに、龍が二体いる」


強烈な大絶賛である。

実際に後漢末、彼らの名声は凄まじく、

あの袁紹えんしょうすら供を連れず、

ただ一人で彼にあいさつに出向く、

それほどのことをしている。


特に、兄の許虔が成人した時に

顔を合わせた時には、

嘆息しながらこう言っている。


「許虔殿は一国の長たる器である。


 粛々と直言をなすさまは

 陳蕃のようであるし、

 悪を憎み不正を打たんとする志、

 范滂はんぼうのごときである」



謝甄のコメントに見える通り、

直言を好んだ陳蕃。


皇帝の書記官にまでなった頃、

その直言がたたり、南の辺境、

豫章よしょう郡に左遷されてしまう。


だが、そこで腐る陳蕃ではなかった。


赴任するや否や、かれは地元の名士、

徐稚じょちの所在を問い、会いに行こうとする。



徐稚。地元の賢人だ。


九歲のころ、

月明りの下で遊んでいた時に

ある人にこう聞かれた。


「月の中に影がなかったなら、

 もっと明るかっただろうにな」


すると徐稚は答えている。


「ちがうよ。例えるなら、

 目に瞳があるようなものだ。

 それがなかったら、あそこまで

 明るくはなかったはずさ」


要は、柔軟な発想に長けた人物である。



そんな徐稚に会いに行こうとする陳蕃を

書記官が止める。


「お待ちください、まずは豫章郡府に

 腰を落ち着けられてからで

 よいのではありませんか?」


すると陳蕃、返答する。


「周の武王は、将軍であった頃

 老子の師、商容しょうように対して

 車上よりながらく拝跪した。


 そのようであったから、

 武王の腰かけていた車の席が

 温まることはなかった、

 というではないか。


 武王でさえそうなのだ。

 いま私が賢人に礼を尽くすのに、

 何の不都合があるというのだ?」




陳仲舉言為士則,行為世範,登車攬轡,有澄清天下之志。為豫章太守,至,便問徐孺子所在,欲先看之。主簿白:「群情欲府君先入廨。」陳曰:「武王式商容之閭,席不暇煖。吾之禮賢,有何不可!」

陳仲舉が言は士の則と為り、行は世の範と為り、車に登り攬轡せるに、澄清なるに天下の志有り。豫章太守と為り、至らば、便ち徐孺子の所在を問い、先に之を看んと欲す。主簿は白く:「群情は府君を先に廨に入れんと欲す」と。陳は曰く:「武王は商容の閭に式し、席の煖まりたる暇あらず。吾の賢を禮せるに、何ぞの不可有らんや!」と。

(德行1)


謝子微見許子將兄弟曰:「平輿之淵,有二龍焉。」見許子政弱冠之時,歎曰:「若許子政者,有榦國之器。正色忠謇,則陳仲舉之匹;伐惡退不肖,范孟博之風。」

謝子微は許子將兄弟に見えて曰く:「平輿が淵に、二龍有らん」と。許子政の弱冠の時に見え、歎じて曰く:「許子政なる者、榦國の器有りたるが若し。正色忠謇、則ち陳仲舉の匹なり。惡を伐ち不肖を退るること、范孟博の風なり」と。

(賞譽3)


徐孺子年九歲,嘗月下戲。人語之曰:「若令月中無物,當極明邪?」徐曰:「不然,譬如人眼中有瞳子,無此必不明。」

徐孺子の年九歲なるに、嘗て月下にて戲る。人は之に語りて曰く:「若し月をして中に物無からしまば、當に極めて明るからんや?」と。徐は曰く:「然らず、譬うるに人の眼中に瞳子有せるが如し、此れ必ずしも明るからざる無からん」と。

(言語2)




世説新語のオープニングを飾るお話。「どんなに偉くなっても、またどのような境遇に至っても賢人を敬う気持ちを失ってはなりませんよ」……的なおかたいお話からスタートするわけですね。



陳蕃・范滂

共に党錮の禁で殺されている。ちなみに共に清流の名士として数えられており、陳蕃が『三君』、范滂が『八顧』。


徐稚

豫章の名士、ほぼ隠者。高官らに招聘を受けても決して応じることはなかったが、その人が死亡すると弔問にだけは出てきたりしている。


謝甄

後漢末のスーパー人相見。司馬徽しばきクラスのひとだったっぽい。


許虔・許邵

弟がとくに有名。かれもまた人物を見抜く目に優れており、多くの名士を抜擢している。そして許虔も「おれでは弟に到底かないません」と言明するだけの器の持ち主。



党錮の禁周りで朝廷内の腐敗が吹き荒れたからこそ、この当時はより「より清く正しい人」が称揚されたのでしょうね。

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