「エリサ様、こちらが今年の収穫報告書になります」
ナインが来た事で執務室がさらに賑やかになった。
「ありがとう、ナイン」
「お嬢様、視察の用意が整っております」
「カリスもご苦労様。これに目を通したらすぐ行くわ」
エリサが出掛ける気配を感じて祖父母が書類から顔を上げる。
「エリサ、寒いから温かくしていくのですよ」
「やっぱり僕らも行こうか?」
「おじい様とおばあ様はここで待っていらして? 街の様子を確認したらまた報告に参ります」
左にナイン、右にカリスを侍らせエリサは立ち上がる。
ナインが専属騎士となり一年が過ぎた。すっかりこの領地にも馴染み、ルーディア領の騎士たちに剣を教えたりもしている。
カリスは侍従兼護衛の魔法使いとして定着していて、エリサの護衛はこの二人が居れば問題ない。
「エリサ様、お手を」
「ええ」
ナインは馬車に乗る時は手を貸してくれ、降りる時もエスコートしてくれる。
「ありがとう、ナイン」
「いいえ」
お礼を言うだけでナインは至上の喜びだというように顔を綻ばせた。
くぅ、ナインってば本当にエリサの事が好きなのねぇ! いい、いいよ!
私は心の中で応援しながらペンライトを振る。
エリサもナインの好意を嬉しく思いながらも、最初の恋が破れた影響か足を踏み出す事が出来ない様子。
でも、それでいい。
エリサのペースで心が感じるまま自由でいて欲しい。
やがて馬車は街の大通りに差し掛かったが、そこは冬ということを差し引いても閑散とし過ぎていた。
広場に留まり、外を確認して降りる準備を整える。
「……やはり、人通りは少ないですわね」
「エリサ様、口当てを」
カリスが差し出したスカーフをナインが素早く取り、失礼しますと前置きして後ろに回ってエリサの顔半分を覆うようにつける。
「ありがとう」
今、この国に病が蔓延している。
神の加護が残るこの領地にはまだその影響は少ないけれど、いずれここにもその波はやって来る。
馬車の音を聞きつけたのか、家の中から口に当て布を装着した住民が広場に集まって来た。
「エリサリール様!」
「まぁ、みなさま。寒いのよ? 家の中にいらしてくださいまし」
「エリサリール様がこうして来てくださっているのに、我々だけ引きこもってられません」
老若男女、騒がしさを聞きつけた住民達が次々外へ出て来る。
丁寧に住人たちへ目を合わせ代表者に声をかけた。
「お変わりないかしら?」
「ええ! エリサリール様がおっしゃるように外に出掛けるときは必ず口当てをして、家の中ではいつもお湯を沸かして空気が乾かないようにしています!」
「うがいと! 手洗いもしてるよ!」
小さな子供が自慢するように手を上げるのにエリサは顔を向けて微笑む。
「配ってくださった石鹸は手荒れもしなくてとてもいいです」
さらにぞろぞろと住民たちが家から出て来て少し距離を空けてエリサたちが降りた馬車を囲む。
「病はまず予防ですのよ。皆さま、徹底してくださっているようで嬉しいですわ」
「エリサリール様のおっしゃる事なら何でも従いますぜ!」
「何せこの領の女神ですからね」
「信頼、大変嬉しゅうございます。わたくしの方こそ、素晴らしい領民の皆様に感謝しておりますのよ。皆様が健康で幸せでいて下さることが何よりです」
エリサが微笑むと皆が笑顔になってくれるのが嬉しい。
「すまないが、これから療養所に行かねばならん。道を開けてくれ」
口当て越しでもよく通る声でナインがそう言うと、領民は素早く道を開けてくれた。
「それでは皆様、ご機嫌よう。温かくしてお過ごしくださいね。追加納品しておきますから石鹸が無くなったら療養所に貰いに行ってくださいな」
冬には風邪が流行することがあるが、今年のものはかなり重症化しやすい。
回復魔法はあれどあまり病気には効果がない。
加えて抗生物質などがないこの世界では、悪化したら命を落としかねない危険なものだ。
ここで現代の風邪予防の知識を使うことにした。
エリサの記憶が覗けるように、エリサも美奈の記憶を見ることが出来る。
私たちはもう二人で一人の存在となっていて、今後エリサが目覚めた後も私が持っていた知識は全てエリサの物となった。
……たとえ私(美奈)がいつか消えたとしてもエリサの中に残り続ける。
手洗いやうがい、室内の乾燥防止などを習慣として領民に浸透させた。
同時にエリサの記憶の中から浄化作用のある薬草を使い、ハーブ石鹸を作って領民に配った。
この世界は、魔道具でいつでも水が使える。
魔力を使い起動する魔道具で明かりも灯せる。空調管理も出来る物もあるしコンロみたいなものもある。
しかも安価で使いやすく、物の程度に差があれどこの世界に広く普及していた。
この世界の人は皆魔力を持っていて、それで全ての魔道具は起動する。ようは電気でやっていたことを全部魔法で賄っているんだ。
上下水道も魔道具で管理されているお陰で、清潔で快適な生活が出来るのは本当にありがたい。
結界魔法は廃れて久しいが、その他四大元素の魔法は素養のある者なら使えるし、魔力自体は誰にでもある。
ただ、魔法がある分医療があまり発展していない。
なので冬場でも潤沢に使える水を利用して、体を清潔に保つ事、外出したら手洗いうがいを徹底し、室内の乾燥防止にも努めた。
今まで病はかかってしまってから治すものという概念が、予防をすることで防げるようになるのだと覆された。
この施策は劇的な効果を上げていて、それに倣い近隣の領地でも取り入れられるようになっている。
それは今も国中に広がりを見せているらしい。
それに伴い新しく開発した石鹸の需要が高まっている。
浄化作用のある石鹸の作り方は材料配分と一緒に公表してはいるものの、魔力を含む水が流れる土地でしか生息しない浄化ハーブが主原料な為たくさんは作れない。
魔力を含む水は水源に近い山の奥にしかなく、そこに生える浄化ハーブは採りに行くのもかなり命がけに近い。
しかも高い効果を望むなら鮮度が良くなくてはならない。
浄化ではなく、採取しやすい殺菌作用がある別の薬草でも作ってみた。
けれどどうやら病に効果があるのは浄化、怪我や化膿などに効くのが殺菌と効能が分かれているようで、手軽に野山で採れる殺菌作用がある薬草では病に効き目がなかった。
今は浄化ハーブの量産体制を整えようとしている所だ。
もしも浄化ハーブがたくさん採れるようになったら、病気に対する薬にも劇的な効果をもたらしてくれるはずだ。
そんなことを考えていたら診療所へ着いた。
「エリサ様」
「ええ、診療所に着きましたのね。ありがとう」
素早く駆けて行き診療所のドアをナインが素早く開けてくれる。
「こんにちは! お邪魔しますわね」
エリサが入り口で声をかけ、中に入って廊下を歩いて行くと看護師が何人か顔を出した。
「エリサリール様!」
「忙しいのにごめんなさいね」
「いいえ! エリサリール様がしてくださった予防策のお陰でいつもより患者が少ないくらいです」
「重病者はいるのかしら?」
「今のところ持病以外の入院はありません」
「そう、よかったわ。石鹸は足りていますか?」
「そちらは品薄ですね」
「困りましたわね。他領からも買い付けがきておりますのに。浄化ハーブの収穫が間に合いませんし、このままでは採り尽くしてしまいますわ。早く生産体制を整えなくては」
「おや、エリサリール様。来て頂けるのなら連絡をくださればよろしいのに」
院長が診療室から出て来て頭を下げる。
「突然ごめんなさいね。今街や村の診療所を回って不足がないかを確認していますの。わたくしの事は気にせず診療を続けてくださいな」
「エリサリール様が自らお周りにならなくても……」
「直接見ないとわからないこともありますし、これがわたくしの務めですわ」
「くれぐれもエリサリール様もお気をつけてくださいませ。貴女様に倒れられては領民一同気が気ではございません」
「心得ておりますわ。お気遣いありがとうございます」
心配してくれる院長へ丁寧に頭を下げる。
「石鹸は各診療所に枯渇しないよう配布をしますので、今しばらく耐えてくださいまし」
「とんでもないです! 貴重な薬草も格安で卸してくださっているだけでも助かっております」
回復魔法の使い手は多くなく、辺境や市井の者が魔法で治療を受ける機会は殆どない。
そうなると必要なのは医者と薬だ。
エリサはルーディア領では誰もが同じ治療を受けられるよう、設備から人材まで全て整え直した。
お陰で浄化ハーブ以外の薬草は温室を使い、一年を通してかなりの量を確保することに成功していた。
医者も研修や学校を作り後進を育てている。
医療に関してこの領は最先端の技術と知識を有していると自負していた。
「それでは、わたくしたちは次へ参ります。院長も、皆様も気を付けてくださいませね。貴方様方が頑張ってくださるから領民の方が健康でいられるのですから」
一通り診療所を見て回り、十分管理が行き届いていることと石鹸の在庫を確認して馬車に戻る。
可能な限り村や街を回ってみたがどこも似たような状況だった。
「浄化ハーブの量産が最重要目標ですわねぇ」
「群生地は枯渇しない程度に採取しておりますが、時間の問題です」
「他領ではすでに死者が出ている病です。水際で防げている我が領の対応を皆が真似するのは当然かと」
「場所によっては強欲な者に採り尽くされてしまっているようですね」
「そうなりますわよね」
節度を守って収穫をすれば長く採取が出来ると分かっていても、 後先考えず利益に心奪われる者が出て来る。
「我が領地でそれが起こらなかったのは幸いですわ」
「皆、エリサリール様と領主様方を信頼しているのです」
「あなた方がするなと命令したことを破る領民など、ルーディアにはおりません」
「ありがたい事ですわ」
ルーディア領は入る人間を限定しているのもあって、領内を荒らされる事はない。
だが、それでもいつまで持つか分からない。
視察を終え、帰りの馬車の中で話し合いながら屋敷に戻る。
「それにしても問題は魔力を含んだ水ですわよね。魔力を水に溶かす方法など知りませんし……」
「水源にはどうして魔力が含まれているんでしょうね?」
ナインの疑問は最もだ。
「山には聖獣が眠っていることが多いんだ。彼らが目覚めれば土地自体に魔力が行き渡りもっと豊かになるんだが……」
カリスが存在するのだから他の聖獣も存在するはずだ。けれど神の力がほとんど残っていないこの世界では眠りから目覚めることはない。
魔力を失い過ぎてカリスでもその存在を感じ取ることが出来ないというし、仮に居場所が知れたとしても目覚めさせる方法も分からない。
「ない物を期待しても仕方がないわ」
神がこの地に降りたのは伝承によれば千年以上前。
伝承はあくまで伝承であり、聖獣や神は御伽噺の中の存在のように扱われて久しい。
神の存在を信じ、今も信仰し続けている人はあまりいない。
「俺だってカリスを知らなければ聖獣の存在はただの伝説だって思ってたからな」
「俺も俺以外の聖獣を知らん。それだけお嬢の魔力が強かったってことだ。聖獣を宿らせるには相応の魔力が必要だからな」
「流石エリサ様だ」
「俺の存在を褒め称えろ」
「お前はエリサ様に近すぎて気に食わん」
「男の嫉妬は醜いぞ」
ナインとカリスの言い合いに思わず笑ってしまう。
もうエリサの笑顔は引きつることはない。心のまま笑う事が出来る。
「ふふふ、二人とも面白いですわ」
「エリサ様に笑っていただけるなど、嬉しい限りです」
「笑わせたんじゃなくて、笑われた、な。だいぶ違うから」
「どっちでもいい、見ろ、このお可愛らしい笑顔を」
「ナイン、お前はお嬢を盲目的に愛しすぎだ」
「俺はそれでいい」
大真面目に頷くナインが面白すぎて、美奈だったらお腹を抱えて笑っていたわ。
エリサ、凄いな。上品な笑い方が崩れない。腹筋で耐えているんだ、淑女凄すぎる。
「とにかく、水に魔力を馴染ませる方法を考えないといけないわね」
「もうすぐ地質の調査に向かった者が戻ってくるはずです」
カリスが山を見ながら予定表を捲る。
「随分時間がかかったな」
「水源に行くまでの道のりが厳しい上に遠いですからね」
「命の危険もある場所ですものね。仕方ないわ。行って下さるだけでも感謝しなくては」
依頼を受けてくれるのは熟練の山師達。
自然の多いルーディア領には数多く存在してくれているのも幸いだった。
お陰で浄化ハーブのある場所がたくさん熟知されていて、収穫量も多い。
けれどそれでも使用量に追いつかない。
持ち帰って来た鮮度の高い苗を植えて行った実験は今のところ全部失敗に終わっている。
魔道具で水を流した鉢も、深くまで掘り下げ水源から吸い上げた水を使った鉢も、魔石を浸した水をやった鉢も全部枯れてしまった。
水に指をつけて直接魔力を流してみたものの、流水でなければ育たないハーブにそれを続けるわけにもいかない。
「後はどうしたらいいのかしら?」
「水源の水に浸した物は長持ちはしましたが、水が尽きたら枯れましたね」
「直接水源から育成できる場所にまで運ぶのは大変です。水源がある所の土地はあまり広くありませんし、もしも育成のために開発をして水源が枯れたり水が汚れてしまったら意味がありません」
水源には魔力が含まれているけれど、川になり流れているうちに様々なものに吸収されて麓へ届く頃にはただの水になる。
魔力を維持したまま持ち帰るには特殊な金属で作られた水筒を使うしかない。
その金属は希少で高価なものだからそれで水道管を作り麓まで運ぶのは現実的ではない。
「……困ったわね。あの浄化ハーブは石鹸だけではなく、薬品に使ってもとても効果があるものだから育てられるなら方法を確立したいわ」
「この領地でそれを育てられるなら立派な産業にもなりますし、今後の領地運営にもとても有用です」
「何とか魔力を含んだ水さえどうにか出来ればいいのですけれど……」
寒さが緩まれば病は徐々に収束していくが、いつまた同じような事態になるか分からない。
その時の為に何とかしておきたい。それに効果の高い薬はいくつ予備があっても構わない。
屋敷に帰り、おじい様とおばあ様も交え話し合ったがいい案は浮かばずまた後日話し合うことになった。