ナインを迎えるための応接室には対面にソファが置かれていて、中央には立って剣を抜いても届かないほど長いテーブルが設置されていた。
そのテーブルはソフィアとカーランが身の危険を感じた場合、床にあるスイッチを踏むと指定された範囲を守る盾となる魔道具だ。
盾の範囲に入る長いソファには、カーランとソフィアの間に挟まれてエリサが座る。
その後ろにカリスが立ち、通常より多いメイドと騎士が多数配置されていた。
相手はソードマスターの称号を得た一級騎士だが、力の限り抵抗するぞという意気込みが全員から溢れ出ている。
「いざとなったら睡眠薬とか飲ませて領地の外に捨てましょう」
「記憶を混濁させる薬品なら私作れます!」
「寝ている間に深い森の奥に置いてくるのはどうでしょう?」
「許可さえ頂ければいつでも抜剣いたします!」
部屋の準備をしているメイドや騎士から次々声をかけられ、笑ってはいけないと思いつつ我慢できずに噴き出した。
「うふふふふ、皆様ありがとうございます。お心遣い嬉しゅうございます」
声を立てて笑ったエリサに全員が見惚れ、勢いが弱まった。
「どうしようもなくなったらお願いいたしますわね」
「「「「「はい!」」」」」
「おじい様、おばあ様、わたくしは幸せ者でございます」
「私たちだって同じ気持ちよ」
「とりあえず、ロード卿の心積もりを聞こうじゃないか。話はそれからだ」
カーランの言葉に全員配置についてナインの到着を待つ。
やがて、執務室の扉がノックされ傍に立った騎士が扉を開けた。
「ナイン・ロードです。この度は面会のお許しを頂き有難く存じます。この命に代えてもクロイド嬢に危害を加えないことを誓います」
部屋に入ったところでそれ以上進まず、ソファに座ったままのエリサたちに向かってナインは最敬礼をした。
だがソフィアとカーランはそれに応えず、厳しい口調で彼を呼んだ。
「ロード卿」
「はい」
「ここに居るのはエリサ・クロイドでがありません。私たちの娘となったエリサリール・シア・ルーディアよ」
領の仕事を手伝い始めてからエリサの功績を書面に残す為、祖父母は新たな戸籍を用意してくれた。
エリサは祖父母の養女となり、書類上ここに居るのはエリサ・クロイドではなく、エリサリール・シア・ルーディアという全く別の人間となっている。
「申し訳ありません。訂正いたします。ルーディア令嬢には危害を加えることはいたしません。これが誓いの証です。お受け取り下さい」
跪いてこちらに向かって頭を下げたロードは近くの騎士に己の剣を差し出した。
本来ソードマスターが己の愛刀を誰かに託すことなどありえない。
だが、ナイン・ロードという男はエリサへ危害を加えない事を示す為、それを躊躇いなく差し出した。
騎士はソフィアに顔を向け、頷いたのを確認してから丁寧な手付きでその剣を受け取る。
「お預かりいたします」
「よろしくお願いいたします」
騎士とナインは短い言葉を交わす。
ルーディア騎士団長であるその人は、万が一ナインがエリサに危害を加えるそぶりを見せたら、真っ先に剣を抜く役目を担う手筈になっていた。
その彼がナインを中へ促す仕草をした。
騎士団長はナインを信頼に足ると判断し、守るべき主君の傍に近づけても問題はないとの見解を示して見せた。
その様子を見たカーランとソフィアは少しだけ緊張を緩める。
「ロード卿、お立ち下さい。どうぞこちらへ」
カーランにソファへ促されナインは立ち上がった。
そしてこちらに顔を向け、真っ直ぐエリサを見つめた。
「!」
燃えるような真っ赤な瞳は強い意志を孕んで、ナインの心を真っ直ぐ伝えて来る。
昔と同じエリサを慮ってくれる優しさと、守ろうとしてくれる強さを感じた。
この人は今もエリサの身を案じてくれている。
きっと大丈夫。エリサの意思を無視してここから連れ去るようなことはしない。
そんな確信を持つエリサの心が伝わってきた。
促されて向かい側のソファに座ったナインへ、エリサは柔らかく微笑みかける。
歩く間も座る時もずっとナインの視線は外れない。
「……」
言葉を忘れたように沈黙を続けるナインに、エリサから声をかけた。
「お久しゅうございます。ナイン様」
「! お久しぶりです。エリ……、ルーディア嬢」
「エリサで構いません」
「はい、エリサ様」
最後に会った時より随分精悍さが増し体つきも逞しくなっている。
ナインの目にエリサはどう映っているのだろうか。
今日はブレスレッドを付けておらず、プラチナブロンドとペリドットの瞳そのままのエリサ。
カリスの魔法も使っていない。
エリサたちのいるソファの対面に案内されたナインは静かにそこに座る。
部屋の中央にあるテーブルは横幅三メートルはあるだろうか。部屋が広いので狭くは感じないけれどかなりの大きさだ。
けれどその距離を気にすることなく、ナインは瞬きするのも忘れたようにエリサを見つめ続けている。
「……」
「「「……」」」
本来面会を求めた方が話を切り出すのが礼儀なのだが、肝心のナインはエリサを見つめたまま何も言わない。
五分? 十分? ナインはエリサを見つめたまま微動だにしない。
「……あの、ナイン様? 今日いらしたご用件は……」
視線を外さないナインにエリサは戸惑いながら声をかける。
「……!」
促されハッと意識を戻したナインは、心を落ち着けるように何度も深呼吸をして口を開く。
だが言葉を発することなく唇を噛み締めてしまう。
開いた唇の隙間から息が零れ、膝に置いた手を幾度も握りしめる。
どうしたのだろうかと訝し気な空気が漂う中、もう一度エリサが声をかけた。
「ナイン様?」
「……もうしわけ、ございません」
エリサが声をかけた途端、ナインの目から涙が零れ落ちた。
「申し訳ございません」
もう一度謝るがナインの視線はエリサから外れず、その間も流れ落ちる涙は止まらない。
まるで一瞬でも目を離したらエリサが消えてしまうのではないかというような真剣さだ。
「どうしましたの?」
「生きておられた。よかった……」
エリサの問いかけにナインはようやく絞り出すようにそう吐き出して柔らかく微笑んだ。
「ご無事で、本当に……。お幸せそうにしていらっしゃるのを見て感無量となってしまい……、申し訳ございません。よかった……。貴女のお元気そうな姿を再び見ることが出来て嬉しく思います」
涙を拭うことなくエリサを見つめ続ける。
こんな風にエリサを慮ってくれる人があの場所にもいたのだと思うと、胸が温かくなった。
「あの……、よかったらこれを……」
ハンカチを差し出そうとしたが、大きすぎるテーブルはエリサが体を伸ばしてもナインに届かない。
「お嬢様」
「ええ、お願い」
カリスが声をかけてくれたのでハンカチを託す。
それを持ってカリスはナインの傍に行き、ハンカチを差し出した。
「……、ありがたくお借りいたします」
「ふふ、差し上げますわ」
少しためらった後ナインはエリサを見てハンカチを大切そうに手に取った。
まるで宝物でも貰ったような手つきでハンカチに触れる。
「あの、涙を拭いてくださいまし」
「はっ! 失礼いたしました」
一向に涙を拭く気配がなくエリサに促されそれを大切そうにしまい、服で乱暴に涙を拭った。
いや、ハンカチ使いなさいよ。
室内に居た誰もが同じツッコミを心の中でしたのが分かった。
だが、涙を拭き終わる頃には室内の空気は柔らかい物へ変わっていた。
やがて涙が止まるとナインは改めて表情を引き締め姿勢を正して、エリサを真っ直ぐ見つめる。
「まずご報告を。クロイド嬢とアレン王子との婚約は正式に破棄されております。ご安心ください」
王都の情報は祖父母が調べてくれており、婚約破棄が無事成立したことは知っていた。
けれど内情を知る人にこうしてはっきりと宣言されるとやはり嬉しさはひとしおだ。
「嬉しゅうございますわ」
「おめでとうございます」
喜ぶエリサにナインは嬉しそうに微笑み祝辞を述べた。
まぁ、あんな大人数の前で婚約破棄を突き付けたんだもの。冗談で済ませたり、なかった事には出来ないよね。
王と王妃がいないときにやらかしてくれてよかった。もしも居たなら迅速に行動を起こされ、若気の至りという事で内々に処理されてしまい婚約破棄には至らなかった。
しかし、縁が切れたというのに未だアレンはエリサを探し続けている。
その理由は何となく想像がつくけれど、もうあれから五年も経っているのだし、もしかしたら違う意図が含まれているのかもしれない。
「それでは、改めて順を追ってお話いたします」
「ええ、お願いいたしますわ」
ナインはエリサが居なくなった後に王都で起きた出来事を話し始める。
「アレン様は婚約破棄が成立した後、しばらくはあちこちで奔放に遊び回ったり、貴女が居なくても十分じゃないかと傲慢にも口にしておられましたが……」
「……」
「半年もすると押し寄せる仕事の波に飲まれ、減らない書類の山に囲まれるようになりました」
「ええ、想像がつくわ。でも婚約破棄も成立して、新しい恋人も出来て……。少しくらいはお変わりになりませんの?」
「相変わらず全ておざなりな態度のままでございます」
「それはさぞかし皆さまお困りでしょう」
「ええ……。王宮は貴女が居なって以来ずっと仕事が滞っております。主にアレン様がするべき業務が」
「……でしょうね。ですが、わたくしが王都を去ってもう五年も経っております。流石にアレン様も自らやるしかないと覚悟をお決めになりませんのかしら?」
「……貴女が戻れば元通り、だから大丈夫だと申されておりました」
「……」
室内に重い沈黙が落ちた。
エリサがやっていた仕事は元々殆どアレンのものだし、新しい婚約者がマリナになるというのならそちらにエリサへしたように教育を施せばいい。
ちょっと、いや、多分、物凄く文官の方々に負担が掛かるがそこは自分たちで何とかして欲しい。
エリサが激務に追われていた時だって、手を差し伸べてくれる人なんて殆どいなかったんだから、そのくらいはやってもいいでしょ。
……やるわけないか。
「それでついに何とかして欲しいと王と王妃へ直接嘆願書が出され、状況確認の後、アレン王子は厳しい再教育を余儀なくされました」
うん、やっぱり誰も何ともしなかったんだね。
エリサ、どれだけ貧乏くじ引かされちゃってたのよ……。
同情する様に胸元にそっと手を当てて、眠っているエリサの頭を撫でるイメージをすると胸の奥が少し温かくなった。
「ついに逃げ場を失ったアレン王子はエリサ様を探し出し連れ戻せという勅命を下しました」
「王と王妃は勅命とその内容をご存じでしょうか?」
「いいえ。アレン王子からはくれぐれも内密にということでしたので、表面上はご存じなかったと思います」
なるほど、表面上は、ね。
「それにしてもわたくしが戻ったところでもう婚約者ではありませんから、国政に関わる仕事を肩代わりすることは不可能でしょう?」
そんなことも分からないのかしら?
「アレン王子はまだエリサ様は自分の事が好きだから傍に置いてやると言えば喜んで戻ってくる。側妃にしてやるのだからそれで全てが解決する、とおっしゃっておりました」
部屋のあちこちで何かが壊れる音がした。
あら、おじい様。持っていたティースプーンが曲がっていましてよ?
おばあ様、ティーカップを置いたソーサーが割れましたわ?
メイドが持っていた金属トレーが歪んでいたり、新しいお茶を淹れようとしていたカリスもポットの蓋を落としていた。
皆さま、落ち着いて下さいまし……。
それにしても五年も経過しているというのに、あそこでは時が止まっているのかもしれないわね?
ため息が何度も零れてしまう。
分かっていたけどやっぱりそうかとしか思えない。
その提案は、婚約破棄の了承と同時に却下したはずなんだけどなぁ……。
ですよねーって気持ちで心を落ち着かせるために、カリスが新しく淹れてくれたお茶を一口飲んで一息ついた。
……んだけど両隣のオーラが凄い。というか部屋中が殺気立っている。
「ねぇ、貴方。ついにこの領を独立させる時が来たかしら?」
「奇遇だね、僕もそう思ってたところだ」
「その際は俺の実家、ロード家も追従いたします。領主である父の許可は得ていますので」
ナインがすかさず同意を示す。
「あらまぁ、それはいいわね」
ロード家はルーディアの隣にある広大な辺境伯領で、この領地を守る様に取り囲んでおり、この国の二割を占める武勇に優れた騎士を有していた。
そこにナインという国内でも五指に入る戦闘力を誇るソードマスターが加わるとなると、とんでもない戦力が味方にいるということになる。
「隣国の情勢はどうだったかしら?」
「中々の善政を敷いているって聞いているよ」
「頃合いねぇ」
「おじい様、おばあ様。お待ちください! ナイン様もなぜそんなに乗り気なんですか!? わたくしは王都にはまいりませんからそのようなことにはなりません!」
まさかの提案に血の気が引く。この領と辺境伯の領地が独立をしたり隣国に与するとなると戦争には至らないと思うが、世界規模で大混乱が起こる。
それに軽く言うほど簡単にできる事ではない。反逆罪で首を刎ねられる可能性だって捨てきれない。
二人にそんな重荷を背負わせるわけにはいかない。
「わたくしはずっとこの領に、おじい様とおばあ様の傍に居とうございます。二度と王都には戻りたくありません」
両隣に座る祖父母の手をそれぞれ握ると、二人はエリサを抱きしめた。
「私たち、貴女の為なら何でも出来るわ」
「そうだよ、僕らの可愛いエリサ。過去に何もできなかった分をさせておくれ」
「もう十分して貰っておりますわ。わたくしは、ここに来てからずっと幸せでございます」
この領に来てからの日々は今までで一番楽しく幸せだと感じられた。
どうしたらこのままで居られるだろうかと頭を巡らせていると、ソフィアたちとエリサのやりとりを微笑ましそうに見つめていたナインが口を開く。
「俺は連れ戻すつもりで貴女を探していたのではありません。ご安心ください。ここに居ることも決して他言致しません」
「ではなぜ、何の目的でここにいらしたのです?」
「俺が、貴女にもう一度会いたかったのです」
慈愛に満ちた表情で優しくエリサを見つめた。
「貴女が頑張る姿をずっと見てきました。王妃になるのならその傍で貴女を守って生きて行きたい。ずっとそう思って仕えておりました。そして今もその気持ちは変わりません」
「ナイン様……」
そんな決意で傍に居てくれていたなんて全く気付かなかった。最年少で騎士称号を取り、ソードマスターにまで上り詰めたナイン。
そんな彼が自ら望んでエリサの護衛についてくれていることは知っていた。
けれどナインがどんな気持ちで傍にいてくれたのかまでは知らない。
エリサはナインが献身的に尽くしてくれるのをただ有難く、そして申し訳なく思っていた。
「エリサ様が王都を去ったと聞いた時、すぐに追いかけたかった。けれど俺がそれをするには立場を捨てるしかない。もしも万が一、貴女が王都に戻ることがあるのなら、傍にいるための地位が必要だと思い踏み止まっておりました。そこにこの勅命がくだされて……、利用しない手はないです」
真摯な瞳が真っ直ぐエリサを見つめる。
アレンは人探しをするなら武力行使が出来る騎士たちがいいだろうと安易に考え騎士団に勅命を下した。
金さえ払えば何でもやるような怪しい集団の存在をアレンが知らなくてよかったとナインは安堵の息を零す。
けれど国の一大事でもない王子の私用で下された勅命に、騎士団全てを動かすわけにはいかない。
苦慮する騎士団長にナインは自ら名乗りを上げエリサを探す勅命を請け負った。
アレンはもっと多くの人員を動かせと文句を言ったが、王に内密でという条件付きでそれは叶わないと騎士団長は突っぱねる。
ナインは勅命というエリサを探す大義名分を手に入れて、意気揚々と探索に精を出した。
けれど王家の権限を以てしてもエリサの行方は掴めない。
クロイド家の騎士たちもエリサはいつの間にか屋敷からいなくなっていたとしか言わない。
目撃者もおらずすぐに捜索は頓挫した。
約二年、エリサを探す為に国のあちこちを地道に回った。
けれど騎士団の一部隊であるナインたちが王都を離れ地方へ行くには理由が必要で、それが治安維持の巡回という体裁になっていた。
ナインたちが街や村へ行くと、待っていたように街道近くに野盗が出るのを何とかして欲しい、害獣が畑を荒らすから退治して欲しいなどの依頼が舞い込む。
依頼されたら断るわけにはいかない。
ナインたちはそれらの依頼を全てこなし、合間に探索を続けたが遅々として進まず手掛かりは掴めなかった。
もちろんルーディアにも足を延ばした。
けれど大切な孫であるエリサへの一方的な婚約破棄に激怒していたルーディアは、王都からの使者を全て拒んでいた。
だから騎士団は領内に入ることも出来なかった。
「ほほほ、今も王都からの使者はこのルーディアには入れませんよ」
「はははは、謝罪なんかさせてやるものか」
おじい様、おばあ様、素敵、頼もしい!
エリサが平穏に暮らしてこられたのは祖父母の庇護があってこそだ。
その恩義にはいつか報いたいねぇ、エリサ。
そのうち出て行ったきり、報告書だけ送って来るナインに何度も王都に戻れと書簡が届くようになった。
けれどエリサを見つけるまで戻る気がなかったナインは、勅命を盾にそれを突っぱね続けた。
騎士団長もナインが行ったきり戻ってこないのは想定外だったんだろう。
ナインの部隊は騎士団の主力。それがいつまでも王都を離れられていては困ると判断した騎士団長がアレンへ苦情を入れる。
これ以上騎士を私用で使うなら王へ報告すると言ったことで、一旦その命令は引き上げられた。
そこで一度王都へ戻ることになってしまい、捜索も一旦打ち切りになってしまった。けれどナインはエリサを諦めきれない。
元気でいるか。辛い目にあっていないか。苦労はしていないか。考えるのはエリサの事ばかり。
けれどナインにはアレンもエリサを諦めていない事が分かっていた。
その予想通り、数日後またアレンは騎士団へ懲りずに勅命を出した。
このままでは何度でも勅命を押し付けて来るだろうと騎士団長に進言し、ナインは一人でエリサの捜索を引き受けると提案した。
……というのは建前で、この勅命を盾にエリサを探し続けたかった。
騎士団長がナイン一人だったら勅命を受ける事が出来ると交渉し、アレンもそれで納得して捜索は続けられた。
地位をそのままに、堂々とエリサを探すための大義名分を得た。
今度は一人だけで身軽に動ける。ナインはそれを最大限に活用した。
探索には勿論人数が居た方がいいけれど、人が多ければエリサを見つけた時にその情報を持つものも増える。
もしもエリサがこの国から逃げたいと思っているのなら、そのまま連れて即座に国外へ出ることも考えていた。
だからこの状況はナインにとって理想だった。
今度は騎士団長からの命令で各地域の治安調査という名目を得た。
騎士という身分を隠し、身軽に国内を駆け巡る。
そしてその執念はついに実を結ぶことになった。
ナインは地道に行方知れずになった御者を探していた。
何故なら二年の探索で、とても目立つ容姿をしているはずのエリサの情報が一片たりとも掴めなかったからだ。
その不自然さにエリサを隠し匿っている者がいるのではないかと思った。
……そうでなくては囚われて閉じ込められている。あるいはすでに死んで……。
嫌な予感を振り払いもう一度クロイド家の知り合い騎士に情報提供を頼んだところ、ようやく御者の故郷を教えてくれた。
けれどすでに彼の生家は無くなっていた。そこで聞き込みを行い嫁に出た娘の行方を追う。そうして辿り着いたがそこも居ないと知りまた伝手を探して……。
そうして一年前、ついに御者を見つけることが出来た。だが見つけ出した御者はエリサの行先は誰にも言わないと頑として口を噤んだ。
どれほど冷たくあしらわれてもナインは諦めず、年老いた御者の生活を手伝いながら一年かけてエリサへの想いを伝え続け、ついに行方を知ることが出来た。
そしてようやく面会の機会を得たとナインはエリサを見て嬉しそうに笑う。
「心配しておりました。苦労はなさっておられないか。辛くはないか。怖い目にあっておられないか……。もし貴女が酷い環境にいるのなら連れ出し、共にこの国を出ようとも思っておりました」
「……どうして、そこまで」
そうまでしてエリサを気にかけてくれる理由が分からない。
戸惑うエリサにナインは柔らかく微笑んだ。
「エリサ様。貴女を、お慕いしております」
「!」
「ですが、俺の気持ちは考慮なさらなくて構いません。俺は俺がやりたいようにやっただけです」
ナインはソファから降りて跪いた。
「差し出せる物はこの身一つしかありませんが、どうか貴女の騎士にして頂けませんでしょうか? 俺の望みはそれだけです。エリサ様、貴女のお傍にいたいのです」
「でも、ナイン様は将来騎士団長になられるお方……」
「貴女に仕えられる以上の誉れはありません」
きっぱりと言い切った。
「でも、わたくしに貴方の剣を捧げて頂くような価値は……」
「あります! 貴女は俺が知る中で最も気高く賢く美しい最高の女性です。望んでいただけるのであれば俺の剣で、貴女の前に立ち塞がる全ての困難を切り払う役目を頂きたい」
凄い、燃えるような熱い情熱を感じる。
困難を乗り越え、諦めず、エリサに辿り着いてくれた人。
こんなに強く真っ直ぐにエリサを愛してくれる人はそういない。
この熱量なら深く傷ついてしまったエリサの心に届くかもしれない。
「ナイン様」
「はい」
「今度二人で話す機会をくださいまし。その時にわたくしの話を聞いて、その時にもう一度お気持ちをお聞かせください」
「はい、お慈悲感謝いたします」
「さぁ、座ってくださいな」
促されもう一度ソファに座り直したナインが姿勢を正し話を続ける。
「それで、今日ここに来た本題ですが、俺から提案があります」
ナインはアレンの執着を断ち切る為の計画を持ち掛けた。
筋書きはこうだ。
ナインはエリサを送って行ったという御者を探し出し、降ろしたと証言された場所に駆けつけた。
だがエリサは近くの村にはもう住んでいなかった。
足取りを追って行くがいつもエリサはその場所から離れた後だった。
それでも諦めず追跡し続けると、つい最近まで暮らしていたというあまりにも粗末な家に辿り着いた。
だがそこにもエリサはいなかった。近所に住む住民に話を聞けばどこかの貴族が連れて行ったと言う。
馬車についた家紋から推測し、ルーディア領に辿り着く。
一方ルーディア領主である祖父母は、エリサの行方を問われる書状を受け取った後、どこかに消えてしまった孫娘を必死に探していた。
だがようやくみつけた孫娘は病を患っており、もはや手遅れの状態だった。自領に連れて帰ったが看病空しく死亡。
ナインがルーディア領に辿り着いた時にはすでにエリサは息を引き取った後だった。
そして残された遺髪を持って王都に戻り、捜査の終了を伝えるというものだ。
「幸いもうこの世にエリサ・クロイド様がいた痕跡はなくなっていて、エリサ様はエリサリール・シア・ルーディア様として生きていらっしゃる。これで捜索は切り上げられるでしょう」
「それはいい案ね」
「そしたらもうエリサを連れ戻そうなんて考えないだろうし。もしも本当にエリサが死んでいるか確認しに来るようなら……」
「ええ、その時は目一杯お相手して差し上げましょう?」
「ふふふふ」
「おほほほ」
おじい様とおばあ様がとってもいい笑顔で微笑み合っていらっしゃるわ。
なんて頼もしい、素敵……。
そういえば万が一このルーディア領にエリサを探しに来ても祖父母に貰った魔道具も、カリスの魔法もあるんだから心配する事なんてなかったわ。
ここから離れなくてはならない可能性を考えて焦り過ぎてしまっていたわね。
それだけエリサにとってこの場所が大切だったという事だわ。
……でも、よかった。
エリサはここで暮らしていくことが出来る。
ようやく肩の力を抜くことが出来た。
「亡くなっているとなればアレン王子の空席にしている婚約の話も纏まることでしょう」
「え、まだマリナと婚約していないのですか?」
婚約破棄の後すぐにマリナと新たに婚約したものだと思っていたのにまだしてなかったんだ。
「……恐らくですが、両陛下は貴女が戻ればまた再婚約という形に戻すおつもりだったのではないかと思われます」
ナインの言葉にアレンが出した勅命を王たちは知っていて黙認していたのを確信した。
「そんな虫のいい話がありますか!」
「エリサをなんだとおもっているんだい!」
ソフィアもカーランも怒りを露わにする。
自分の為に怒ってくれる人がいるのがこれほど嬉しいことなのだとエリサは初めて知った。
ナインも憤慨を示してくれていて、それがエリサを冷静でいさせてくれる。
エリサが真摯に王子を愛していたのを、両陛下は一番傍で見て来た。
アレンが心を入れ替えエリサに目を向ければまた元通りになると思ったんだろう。
……壊れてしまったものはもう戻らないのに。
どこまでエリサを都合よく使おうとする一族なんだろう。
王都に居た頃はそれでも敬愛していたのだけれど、離れてみたらそんな気持ちは薄れて行くばかりだ。
「わたくしはもうあの方を愛しておりません。二度と合わない為だと言うのなら、カリス」
「はい」
カリスは意図を察してナイフの鞘を抜き、刃をハンカチで挟んで持ち柄の方をエリサに差し出す。
「これを、殿下にお渡しください」
ごめんね、エリサ。髪を貰うね。これで全ての縁が切れるならいいよね?
掴んだ髪を一房ナイフで躊躇いなく切ると、カリスは素早くナイフをエリサの手から受け取り内ポケットに収め、新しいハンカチを差し出した。
エリサはそれに髪を乗せてテーブルに置く。
カリスがその髪を手に取り再びナインの方へ運んでいく。
「……」
その最中、カリスが魔法を発動させたのが分かった。
あの髪を見たエリサを知る者は疑うことなくその死を信じる事だろう。
突然の行動に驚いていたソフィアとカーランが硬直から立ち直りエリサの手を握った。
「エリサ! 突然吃驚するじゃない。指を切ってないかしら?」
「……後で整えよう」
「驚かせてごめんなさい、おばあ様。おじい様、ありがとうございます。ナイン様、これをお願いできますでしょうか?」
「はい、お任せください」
恭しく受け取り大切そうに髪をハンカチに包んで懐にしまう。
「俺はこれを渡して報告をしたら騎士団を辞め、領に戻ります。全てが片付いたら報告と共にまたここに来ます。その時はエリサ様……」
「はい」
ナインは見惚れるような柔らかい笑みを浮かべてエリサを見つめる。
「貴女の話を聞かせてください」
「ええ」
「それでは、今日はお時間を作っていただきありがとうございました。必ず良い結果を持ち帰ることをお約束いたします」
ナインの自信を含んだ表情は安心できるものだった。
きっといい結果をもたらしてくれるだろう。
王都へ戻っていく頼もしいナインの背中を見送った。