ここは温かくも寒くもない、車に跳ね飛ばされたはずなのに痛みも感じなければ感覚もない。
ふわふわと体が軽く、なんだか地面に足付いてないみたい……っていうか飛んでる!
下を見たら私の足は宙に浮いていた。
私、幽霊になってしまったの?
けれどそれに対する不安も恐怖も感じない。
それはこの泣き声のせいかしら?
進みたいと思う方向に体が飛ぶように勝手に進んで行く。
ここは夢の世界なのかな? 現実感が全くない。
周りを見渡しても相変わらず闇しか見えない。
泣き声は相変わらず聞いているだけで胸が張り裂けそうだ。
「どこ? どこにいるの?」
助けたい。抱きしめてあげたい。
あの時叔父さんが私にしてくれたように、あなたを助けたい。
「ねぇ?」
問いかけた瞬間、体がどこかに引っ張られた。
「……ここ、どこ?」
辺りを見回すと、真っ暗な空間にそこだけスポットライトが当たったように、光に浮き出された中で物語に出てくるようなお姫様みたいな綺麗な女の子が座り込んでいた。
プラチナブロンドの緩やかに波打つ輝く長い髪、細く美しい肢体。青く波打つシンプルだが高級そうなドレスがその全てを際立たせていた。
押し殺すような泣き声に私は堪らずその子を抱きしめた。
「貴方は誰?」
突然抱きしめられて驚いたお姫様は顔を上げて私を見た。透けるような白い肌。小さな顔にバランスよく小ぶりなパーツが並ぶ息を飲むほど美しい顔。宝石も霞むような輝かしいペリドットの瞳。
その麗しさに驚きながらも、叔父さんがしてくれたように柔らかく微笑む。
「私は高橋美奈。あなたは?」
「エリサ、エリサ・クロイド」
「エリサ、もう泣かなくていいよ」
慰めるように抱きしめ背中や頭を撫でた。
「何が悲しいの? 話してみない?」
聞いて貰えるだけでも楽になれることはある。話を聞いて私に出来ることがあるなら全力で手を貸そう。
あの時の叔父さんがしてくれたように、今度は私が彼女を助けるんだ。
「少しでも貴女の助けになりたいの」
笑う私の顔をエリサは穴が開くほど見つめる。
見れば見るほど美しすぎて童話の中のお姫様みたい。あまりの美貌に見惚れそうになるが、悲し気に歪む顔と涙が私の意識を引き戻す。
笑ったら絶対可愛いのにな。
「わたくしを、助けてくださるの?」
差し出した掌にお姫様がおずおずと手を添えた。
「うん、だからもう泣かないで。私が出来る事なら何でもするから。エリサが笑えるようになる為の手伝いをさせてよ」
勇気づけるように微笑みながらその手を優しく握る。
「そんなことを言って下さったのは貴女が初めてですわ」
ありがとう、と声にならない言葉をエリサが紡ぎ、美しい瞳と目が合った。
途端、洪水のようにエリサの記憶が流れ込んで来る。
『なにこれ、これがエリサの記憶なの?』
まだ幼いエリサが脳内に断片的に映る。
婚約者である王子を心の底から愛していた。
どれほど献身的に尽くしても王子からの愛は得られない。
それどころか、尽くせば尽くすほど王子は理不尽な態度でエリサに接した。
初めてのエスコート。ドレスが派手だと文句を言われ人目が無くなったら触れていた腕を振り払われた。
お茶会には遅れて来て、不機嫌そうにお茶を一杯飲んですぐいなくなる。
化粧を始めれば嫌味を言われ、授業で褒められれば出来ない俺を嘲笑っているんだろうと難癖を付けられた。
顔を見れば不快そうに表情を歪め、誰かと会話をすれば不機嫌になった。
そんな態度を取られてもエリサは王子を愛していた。
物心がつく前に実母が病気で亡くなった。
その後すぐ後妻を娶った父は王子の婚約者となったエリサに厳しい教育を施した。
抱きしめて貰う事は勿論、遊んだり、一緒に食事をした記憶も殆どない。
妹が生まれると両親の関心は完全にそちらへ移り、可愛がられる異母妹を横目にエリサは大量に積まれた課題をこなす。
最初は優しかった婚約者である王子。笑いかけてくれて、手を繋いでくれて話をした。
その時の温もりはエリサにとって途方もなく幸せな記憶となった。
年を重ねるにつれ冷たく当たられるようになっても、エリサはその幸せな気持ちをくれたアレン王子を愛していた。
従順に、口答えもせず、言われたことには素直に従う。家でもやっていた事だからエリサにとって当たり前のことだった。
アレン王子の言う通りにしていれば、いつかまたあの優しい笑顔を向けてくれると信じていた。
エリサの記憶の中の幸せはそこにしかなかったから……。
根も葉もない噂を流され、社交界で馴染めなくなり、引きこもるように政務へ没頭した。
そうなればなるほどアレン王子はエリサの悪い噂を楽しそうに吹聴した。
エリサはいつしかアレン王子を振り回し、我儘の限りを尽くして、傍若無人に振る舞う悪役令嬢と呼ばれるようになっていた。
殆ど関りの無かった令嬢も令息も、エリサの名前を聞けば顔を顰める。
友人と呼べるような人も出来ず、エリサの居場所は王宮奥の政務室しかなかった。
厳しい妃教育。王子の為に学んだ学問や専門知識。
ダンス、教養、他国の文化やマナー。
婚約者になってから頑張り続けて来た彼女に待っていたのは、ありもしない罪状に塗り固められた一方的な婚約破棄だった。
その相手はエリサの異母妹マリナ。
学力は足りているからと入学式と卒業式、それから公的な催し以外来なくても大丈夫だと言われていた。
けれど貴重な学園生活をアレンと共にしてみたいと願っていた。
そんなエリサの願い空しく、忙しさに追われ結局殆ど通う事が出来なかった学園の卒業パーティで婚約破棄の宣言を受けた。
王子の愛はもう得られない。頑張って来た全ては無駄だった。
その絶望が彼女を覆い、気付いたらここで泣いていた。
彼女の記憶を垣間見たのは一瞬だったが、その短い時間で彼女の人生経験を共有したような不思議な感覚に包まれる。
そして同時に沸き起こる怒り。
「何それ、何それ、何それぇぇぇ! 許せない、王子絶対許すまじ! 両親も! なんなの、なんなのぉぉぉ!」
憤怒が腹の中でグルグルと煮え滾る。
「エリサ、頑張ってたじゃん! 何でよぉ」
怒り過ぎて涙が出て来た。
「ふふふ、わたくしのために泣いて下さってありがとう。ミナ」
手袋の嵌められた細い指が私の目元を撫でた。
「こんなの泣かずにいられないし、怒らずにいられない! キー、王子めぇぇ! 親も、なにやってんだー!」
「わたくしのために泣いて怒ってくれたのは貴女が初めてよ」
「おかしいでしょ、周りの大人も何見てんだー!」
彼女を認め、優しくしてくれた人も居なかったわけじゃない。でも、あまりに少なすぎる。
エリサの頑張りを当然としている大人のなんと多い事か!
「ふざけすぎてる! 一人ずつ並べてビンタしたい」
私が怒る姿をエリサは優しい瞳で見つめている。
「本当にわたくしを助けてくださるの?」
手を取ったエリサは懇願するように顔を覗き込んで来る。その表情はあまりに真剣なものだった。
「私が出来る事なら!」
縋るようなエリサの手を取り両手で握った。
「本当に、何でもするよ!」
「よろしいのでしょうか?」
「もちろん!」
間髪入れず頷いたらエリサは体の力を抜いて、抱きしめている私に身を委ねて来た。
わぁ、細い。柔らかい。いい匂いがする。
「わたくし、疲れてしまいましたわ。少し休ませて頂きとうございます」
「うん、いいよ。ゆっくり休んで。後は私に任せてよ」
優しく抱きしめて背中をあやすように叩くとエリサは柔らかく微笑んだ。初めて見たエリサの笑顔はやっぱり思った通り最高に可愛かった。
「ありがとう」
エリサに見惚れている間に礼を言った彼女がゆっくり目を閉じる。
「……!」
それと同時に私の意識も引きずられ視界が反転した。
「え、今の何?」
目を何度も瞬かせて周りを見渡す。
どこを見渡しても暗闇で誰もいない。
「エリサ? エリサ! どこに行ったの? ねぇ」
どれほど呼び掛けても返事はない。
「まさか消えちゃったの? そんな……!」
辺りをきょろきょろと見回して、立ち上がると体が重い。
いくら何でも重すぎると体を見下ろすとさっきまで目の前にあったエリサが着ていたドレスを自分が着ている。
「え、ドレス重っ……、てか腰キツ……、コルセットってやつ? 殺されるじゃん、こんなの」
真っ白な細い腕、さらさらと零れるプラチナブロンドの長い髪はあのお姫様のようなエリサの物だ。
声も柔らかく高い。
細くて美しい腕が思い通りに動き頬に触れる。
鏡がないから分からないがどうやら私はエリサの中に入ってしまったようだ。
私はここに来る前、事故に合ったからここに肉体がないのは納得できるとしてじゃあ、エリサは何処へ行ったのか。
まさか押しのけて入ってしまった!? そんなの嫌だよ!
自分がエリサの体を乗っ取ってしまったのではないかと焦り狼狽えていると、胸の奥からもう一つ鼓動がしているのを感じた。
心臓に手を当てて目を閉じる。
とくとくと感じるささやかな鼓動を追いかけると、意識の奥底で静かに眠っているエリサの意識を感じられた。
「……エリサ、よかった。そこに居るんだね。そこなら安心出来る?」
私の問いかけにもう一つの心音がとくりと鳴った気がした。
そこで安心して眠れるなら、起きてもいいと思うまでゆっくり休んでいて。
その間は私が貴女を守るから……!
エリサの頭を撫でるイメージをするとほんの少し彼女が微笑んだ気がした。
私の意識はエリサに通じている。きっと私の行動はエリサに届くだろう。
だったら私はエリサが生きやすい場所を作って、目覚めた後幸せな人生を送れる環境を作ろう。
エリサを幸せにするのは私。
私はエリサで、エリサは私。
私は、たった今からエリサ・クロイド。
エリサが目を覚ますまで守り抜こう。
これが夢でも現実でも構わない。
エリサが私に助けを求め、私は彼女を救いたいと思った。
なら私はそれを全力でやり遂げるだけ。
私の行動でエリサが救われてくれたらなによりだ。
「さぁ、行こう。エリサ!」
言葉と同時に闇が光で塗り潰された。