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8.こんなに物騒なものは呼んでない

 暗闇に赤い目が光っていた。

 元はイノシシか。やたらに大きい。

 だれかが作り出した光球が、太くとがった牙を照らし出している。

 魔獣になると狂暴になり、姿形も攻撃的に変わるのだ。


「い、いって! やっつけて!」


 一人が自分の契約獣――下位幻獣の妖精猫ケット・シーを立ち向かわせたが、大きさが違い過ぎた。猫が引っかいても噛みついても魔獣は物ともしない。


 中位以上の幻獣でなければ相手にならないが、だれも契約していない。

 また、新たに幻獣を呼び出せるほど余裕のある状況でもない。


「火の矢よ!」


 ならばと、一人が自身で魔法を起した。

 だが、魔獣は魔法に対する耐性も持っている。

 初級魔導士程度の攻撃では効かず、火の矢はあっさり弾かれた。

 魔獣が猛々しく咆える。


「皆、目をつぶって! 光よ!」


 ユディは杖を振り、魔獣の至近距離に強い光球を発生させた。

 魔獣の眼がくらむ。


「土よ!」


 足元がへこみ、魔獣が地面に倒れる。

 初級魔導士では魔獣を倒せはしないが、足止めくらいはできる。

 この攻撃は思った以上にうまくいき、斜面に倒れたイノシシは転げ落ちて行った。


「今のうちに逃げよう!」


 ユディはミゼルカたちを急かした。

 あのくらいでは、魔獣にはかすり傷もないだろう。すぐに斜面を登って追ってくるはずだ。


 道を駆け上がっていると、ユディは逃げるのに無我夢中な一人に体当たりされた。

 バランスを崩し、ハデに転ぶ。


「もうやだあーっ!」


 ミゼルカたちは転んだユディに振り向くことなく、一目散に逃げていった。


(痛っ……)


 ユディは顔をしかめた。

 歩こうとすると、右足首に痛みが走る。転んだ拍子に痛めたらしい。


 走ることは無理だ。

 重たい足音を響かせて迫ってくる魔獣から逃げ切ることも。


 であれば、もう戦うしかない。

 ユディは震える手で杖を握った。


「召喚……何か召喚するしかない……とにかくすごく強いのを」


 召喚に必要とされる魔力は、幻獣のクラスに比例しない。

 上位以上の幻獣になってくると、召喚に必要とする魔力はあまり変わらなくなる。

 召喚士にとって一番大変なことは召喚ではなく、呼んだ幻獣を制御することだ。


「一瞬で決着をつけないと、手間取ったら死ぬ。上位以上を呼ばなくちゃ」


 初級召喚士に許されるのは中位幻獣までだが、規則を守っていたら命が危うい。

 魔獣は生きた動物が大好物なので、一番に狙って来るのは幻獣でなくユディだ。


 枝を拾うと、ユディは大急ぎで地面に魔法陣を描いた。

 道の先に魔獣の姿が見えた。

 ガチガチ鳴る歯を噛み、目を閉じて詠唱に全集中する。


「開け、幻界の扉。我が心、我が願い、我が誓いを聞け。く来たれ、この呼び声に応じて。出でよ――」


 ユディは脳内で、すっかり記憶してある幻獣辞典を端から端までめくった。

 最初のスライムのページから最後の竜のページまで余すことなく。

 恐怖と焦燥で思考が空回りして、肝心の相手が決められない。


「もう何でもいい! とにかく私を助けて! 何でもするから! お願い!」


 無茶苦茶な詠唱だ。

 幻界の扉が開いた証拠に魔法陣は淡く光っているが、反応はない。

 やっぱりダメだよねと泣きそうになった時、腹の底に響くような重く低い声がした。


「――その言葉、忘れるなよ」


 ぞわり、とユディは肌が粟立った。

 魔法陣が鮮烈な光を放つ。


 咆哮。


 万物よ我に平伏せという強者の号令。

 大地が震え、空気が震え、星が震える。

 畏怖がユディの心臓を鷲掴む。


 魔獣よりはるかに大きなものが魔法陣から現れた。

 あまりの大きさに周囲の木々が折れた。

 ユディは地面にへたり込んで、出現したものを仰ぎ見る。


「りゅう……?」


 竜は長い首をのけぞらせて、天を仰いだ。

 固いうろこに覆われた身体が膨らみ、フッと、魔獣に火炎の息が吹きつけられる。

 周囲が赤々と照らし出され、魔獣は苦悶の叫びを上げながら息絶えた。


 まるで竜の咆哮が雲を払ったように、夜空が晴れている。

 満月の光が降り注ぎ、現れた幻獣の姿を浮かび上がらせた。


 炎竜の一種、黒竜だ。

 二本の角は太く鋭い。オスだろう。

 体高は三階建ての家屋相当。引き締まった体は隆々として力強く、開かれた翼が雲に代わって辺りに大きな影を落としている。


 刃物のようにギラギラ光る金の瞳が印象的だが、ユディが一番注目したのはウロコの黒色だ。

 漆黒だ。

 普通、黒竜は黒いといっても赤みがかっていたり紫がかっていたりするが、この竜のウロコの色には混じりけがない。闇を固めたような色をしている。


 こんな竜は一頭しか知らない。

 いつかどこかで読んだだけで、実物を目にしたこともないので、確信はなかったが。

 嫌な汗が頬を伝った。


 ユディが幻獣に名を聞きかねていると、向こうが名乗った。


「俺の名はオセロ。

 小娘、おまえの召喚に応えてやったことを感謝するがいい」


「オセ――」


 予想が大当たりしてユディは絶句した。


 暴竜オセロ。


 竜族最強と噂され、その強さは王獣とも神獣ともいわれる幻獣。


 たとえ最高位の召喚士であろうと召喚を無視し、応じるのは気が向いた時だけ。

 だが召喚士の望みを聞くことはなく、好き放題に暴れて去って行く。

 無理に契約しようとすれば召喚士に危害を及ぼす。


 最高に強く、最高に気位が高く、最高に悪名高い暴竜。


 ユディの目に涙がこみ上げた。

 こんな物騒なものは呼んでない。


 鼻先を向けられた瞬間、噛みつかれる、と全身から血の気が引いた。


「契約してやる。俺の気が変わらないうちにさっさと誓え」

「は――?」


 何を言われているのか分からない。

 オセロは多くの人間に契約を望まれながら、だれとも契約したことがない。

 難攻不落で絶対不可侵の存在ではなかったか。


(もう限界――)


 魔力を使いすぎて体がだるい。

 極度の緊張から解放されたユディは、襲ってきた虚脱感に身を任せ、そのまま卒倒した。

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