出かけたはずの巫女がいることに、十和はうろたえた。
(どうしてここに? 鳥居の前でお待ちの月白様はご無事なの?)
悠長に考えている暇はなかった、巫女が弓に矢をつがえた。
十和はとっさに両手を広げて父をかばう。
「やめて下さい、お願いします! あなた方にとっては妖怪でしょうが、私にとっては唯一の親なのです。
もう十分でしょう? 三年も見世物して辱めて」
「充分なわけがないだろう。その妖狐は唯一の肉親だった兄を殺したのだ。
身勝手にも、兄の嫁に横恋慕して」
巫女は少し顔を傾け、十和越しに妖狐を見やった。
「なあ、天遊。おまえは私の兄に成り代わって、義姉と夫婦になろうとしたのだよな。
でも私に正体を見破られ、義姉をさらって逃げた。お腹にいた兄の子共々」
十和は神社の前で配られていた瓦版を思い出した。
瓦版では夫婦を腹の子共々ただ喰らったという話だったが、あれは残酷さを誇張するために事実を少し改変した結果らしい。
(それにしても、嘘よ。お父様がそんなことをなさるはずないわ。この方は仇をまちがえているのよ)
十和は変わらず巫女をにらみつけたが、巫女も構えた弓を下ろさなかった。怒りのこもった声で天遊を問い正す。
「封印する前に聞きそびれたから、今聞くぞ。
あの時、義姉のお腹にいた子供はどうなった? 兄と十和姉様の子供は」
天遊をかばう十和の姿勢がはじめて揺らいだ。
(十和姉様? 十和って、十和って――)
十和は自分の名前であり、母の名前だ。
巫女が懐かしいものを見たように、十和を見てふっと表情を和ませる。
「答えは聞かなくても分かるがな。
無事に生まれて、生き延びていたのだな。
おまえの元で育てられていたのだな」
十和の心臓が早鐘を打ち出す。巫女の、旭の話の続きを聞きたくない。聞きたくないが、語りは続いていく。
「何も知らずに。実の父親を殺した男に。おまえの娘といわれ、ずっとずっと騙されて育ったのだな。――なんて残酷なことを」
旭の刃のような霊力が矢にまとわりつく。
「義姉はおまえを拒んだ。娘を義姉様の身代わりにするつもりだったのか?
それとも殺すついでに兄を喰らって霊力を手に入れたように。その子ものちのち喰らうつもりで育てたのか? どっちだ?」
十和は恐る恐る、ぎこちなく、父と呼んでいたものを顧みた。
相変わらず天遊は優雅だ。今なお口元に笑みを浮かべて、穏やかにたたずんでいる。
だがこの状況でそんな態度を取っていること自体が、十和には空恐ろしく感じられた。言葉や道理の通じない恐怖があった。ぞっと悪寒がこみ上げてくる。
「どちらかと問われれば――どちらも。
十和が私を愛したなら、私も十和を愛したし。そうでなければ糧にしようと思っていた」
微笑んだまま、齢千年を超す妖狐は非道な結論を下す。
「結末は、どうやら後者のようだね」
十和が恐怖に退いた途端、旭の矢が放たれた。
矢は天遊を素通りした。幻だ。一歩横に姿が現れるが、それも幻だった。二矢目もむなしく空を切る。
旭はしつこく三矢目を手に取った。天遊が袖で口を隠してくすりと笑う。
「前回のように不意を突くならまだしも、おまえ一人では私を倒せないよ」
「――私一人なら、な」
怪訝にした天遊の幻は、突然かき消えた。代わりに、苦痛の叫びが幻の横で上がった。
妖術で隠形していた天遊の姿があらわになる。背中にできた傷から血が滴り落ちた。
「おまえは――」
「あなたはにおいがするから、居場所が分かりやすい」
よろめいた天遊の背後には、鉈を手にした月白が立っていた。
狼狽している天遊の喉元めがけて鉈をふるう。血しぶきが月白の白い肌と髪を染めた。
「掛けまくも畏き伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘小戸の阿波岐原に 御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事 罪穢有らむをば 祓へ給ひ清め給へと白すことを聞こし食せと――恐み恐みも白す!」
朗々とした祝詞と共に、旭は三矢目を放った。矢は吸い込まれるように天遊の胸を貫いた。
すべてが終わった後には、九本の尾を持つ金狐が血だまりの上に倒れていた。
「え……? あ……?」
十和は呆ける。目の前で起きたことが受け止めきれない。惰性で、ふらりと父だったものへ寄ったが、月白に止められた。
「十和。あれはあなたの父親ではない。忘れろ」
「……なんで…知って…」
月白は鉈を振って、血を払った。元は神社のものらしい、旭に手渡す。
「ずっと変だと思っていた。あなたはどう見ても人間だ。
龍神があなたに、騙されているのではないかといった時、俺もそう思った。天遊があなたを半妖といったから、十和も、皆も、そう思っているに過ぎないのではないかと」
十和は自分が天遊の封印を解くといった際、月白が反対したことを思い出した。
天遊自身が不安の種、といったのは、天遊が十和を騙していることを知っていたからだったのだろう。
「ただ、天遊殿の嘘は十和の身を思いやってという可能性もある。だから俺も黙っていた。
しかし、今朝。天遊殿の封印を、金や取引で決着をつけられないかと巫女に会いに行って、全部を知った。
天遊殿があなたの父を殺したことも、天遊殿があなたの母を拐したことも、巫女があなたの叔母だということも」
元通りに弓を背負い直して、旭も会話に加わってくる。
「驚いたよ。姪が生きていると知って。
しかもその話を、姪の夫になっている妖狐から聞かされるのだからな」
旭は微苦笑したが、十和は表情を動かす余裕もなかった。呆然自失の体だ。
「……それで、二人で? 討つ算段を?」
「申し合わせた。天遊殿は九尾だ。さすがに俺一人では難しい」
「私も一人では無理だ。しかし、月白殿と二人ならできると思ってな」
十和はようやく全てが納得いった。
月白が神社の内情にやけに詳しかったのも、出かけていったはずの旭がすぐ戻ってきたのも、天遊を倒す作戦があったからなのだ。
気付けば、魔除けの結界が消えている。旭が月白を境内に入れるために一時的に解いたのだろう。
「……十和。あなたは人間だ。人間だから、これからはこの人と一緒に暮らすといい。
あなたが妖怪の中で暮らすのは、兎が狼の中で暮らすようなもの。危なすぎる」
十和はようやく我に返った。
人間の中で暮らすということは、月白とは離ればなれになるということだ。
「人間と暮らしていても、妖魔に狙われるのは同じです。だから、」
今まで通りに暮らしたいと願う十和を諭したのは、旭だった。
「この神社にいれば安全だ。私がおまえに身を守る術も教える。もう怯えなくていい」
旭が力強く請け負うと、月白は十和から離れた。天遊の死骸を肩に担ぐ。
「これはもらっていく。次のヌシの証に」
「月白様、待って下さい!」
裏手の山へと消えていこうとする姿を、十和は必死に追った。天遊の封印されていた祠を過ぎ、山の下草をかき分け――地面から頭を出していた岩にけつまずく。
月白が困ったように振り返った。
「……十和、なぜついてくる。あなたは褒賞として俺の元に嫁がされたが、もうそれを守る必要はない。
新たなヌシとして俺があなたの自由を保証する。だからもう好きにしていい」
「好きにしていいと仰るなら月白様のおそばにいさせてください」
月白はますます不思議そうにした。
「……なぜ?」
「お慕いしているからです」
「お慕い?」
「……す、好きということです」
月白は無反応だった。首を傾げたままで、何をいわれているか分からないという様子だ。
十和が月白に好意を抱いていることは赤城のみならず周知の事実なのだが、肝心の当人はまったく理解していなかった。月白らしいといえば月白らしい。
「確かに結婚は豊乃様のお言いつけでした。
でも今は自分の意志でおそばにいたいと思っているのです。置いていかないでください」
「……なぜ好きなんだ?」
心底ふしぎそうに問われて、十和は困った。
「なぜ、と申されましても……心がお強くて、お優しくて、寛大で。ぜ、全部が好きとしか」
赤裸々に語らされる恥ずかしさに、十和は赤面した。両手で顔をなかば覆いながら、しどろもどろに言葉を紡いだ。
ところが相手は十和の懸命な努力を台無しにする。
「……それは全部、錯覚だと思う」
「さっかく!?」
「そんなこと初めて言われた。俺はそんなできた妖狐ではない。
心が強いというか図太いだけだし、優しいのは俺の自己都合がたまたま十和にはそうなったというだけだろうし、寛大というより大抵がどうでもいいだけだ」
一理ある、と思ってしまう自己評価だった。
十和は喉に声を詰まらせたが、くじけず反論する。
「私にとっては月白様はすてきなお方なのです! いつどんな時でも助けに来てくださって――」
言葉は尻すぼみになった。自分の発した言葉が自分の心に冷めた風を吹かせる。
(月白様が助けてくれるのは当然だわ。だって……私が妻という肩書を持っていたのだから)
それだけではなかった、と思いたかった。言って欲しかった。
だが、返ってきた反応は十和の予想した通りに淡々としていた。
「……十和。人間たちといれば、今後は俺の力も必要なくなる。
あなたの人生は妖怪にめちゃくちゃにされていたが、ようやくやり直せる時がきた。
俺になど捕らわれるな」
思いの丈をこめた告白は何の功も奏さなかった。想い人の心を素通りした。
「あなたに好きといわれても、その好きがなんなのかも分からないような人でなしと、あなたは一緒にいるべきではない」
肩に手を置かれ、言い聞かされる。
十和は顔を歪めた。金の目が悲しげに細められる理由が、別れによるものでなく、相手の心を理解できないことによるものなのだから、まさしくこの妖狐は人でなしだ。
とん、と軽く肩を押される。十和の体が一寸傾ぐか傾がないかほどのごく弱い力だったが、心が倒れるには充分だった。
「元気で」
別れの際でも月白の顔色は変わらなかった。
今、空にかかっている銀月のようにそっけない。
旭が迎えに来ても、十和はしばらくその場を動けなかった。胸にせぐり上げる痛みが涙となって落ち、夏草に丸い露となって残った。