客間に戻って、十和は一息ついた。
とんだ場面に居合わせてしまった。疲労が波のように背にかぶさってくる。
(明日はどうなるのかしら)
これだけ盛大に準備をしておいて今さら取り止めるのは考えにくい。
だが、吉乃が従順に現実を受け止めるとも思えない。
(どちらにせよ、私はもう用なしだわ)
十和は額の小さな傷に手をやった。
あの後、泣きわめく吉乃に「出てけっ!」と簪を投げつけられてできた傷だ。
見下している相手に弱った姿を見られるというのも、自尊心を傷付けられることだ。すぐまた呼び出されることはないだろう。
「子狐さん。探険はもういいの?」
帰りを待ちかねていたように、子狐が十和の膝に飛び乗ってきた。
小首を傾げ、くりくりとした丸い目で見上げてくる。
「ご用はどうしたのかって? 大丈夫、もう終わったわ」
子狐の愛らしさに強張っていた心がゆるむ。
同時に、今まで蓋をしていた悲しさが胸にこみ上げてきた。子狐を抱きしめる。
(月白様にお会いしたい)
言いがかりだと、八つ当たりだと理解しても、吉乃の悪言は心に刺さった。
(今日はそばにいて欲しい)
半妖だろうが何だろうが気にせず受け入れてくれた夫の存在が恋しい。
ぎこちなく撫でてくれる手に、いっそもどかしいほどの優しい力でしか抱きしめてくれない腕に、温かな胸に触れたくてたまらない。
(……今からなら、急げば日が暮れるまでにお屋敷につけるわよね)
太陽の位置を確認すると、十和は部屋の隅に置いていた風呂敷を抱えた。
「黒松、黒松はおるかえ!」
よく通る声が庭に響いた。豊乃だ。十和は縁側に出した足をひっこめる。
少し間があって、黒松が面倒くさそうに庭へ現れた。
「困ったことをしてくれたの。明日は婚儀だというのに」
「俺は悪くねえ! お互い遊びだって話だったのに、あっちが」
「何でもよい。早く吉乃をなだめい。明日は予定通りに婚儀を行う。
よそのヌシも招いておるのじゃ、ここまできて取りやめるなど一門の恥じゃ」
頭ごなしの命令に、黒松の不満が爆発した。
「何で俺が機嫌を取らなくちゃならねえんだよ。
俺は五尾だぞ。この群れじゃ一番強い。強いヤツが多く持つのは当たり前だろ。
あんたこそ娘に我慢するよう言い聞かせろよ!」
「できぬというなら、ここから追い出すぞ。裏切り者として」
裏切り者の烙印を押されれば群れ全体が敵に回る。黒松はひるんで、ぐっと押し黙る。
「もしまたこんなことがあっても追放する。肝に銘じよ」
豊乃は薄衣の裾を引きずって去っていった。
姿が見えなくなってから、黒松は近くにあった松の木を乱暴に蹴る。苛立たしげに吐き捨てた。
「ふざけるなよ、なんなんだ、吉乃と結婚すればここのヌシになれると思ったのに。
ヌシにはなれねえ、あの女狐のいいなりにならなきゃならねえ、ずっとあのわがまま娘の機嫌をとらなきゃなんねえなんて。なんにもいいことねえじゃねえか」
腹立ちのあまり、黒松の顔は人間とも狐ともつかないものに変わっていた。
ぎりぎりと噛みしめられた牙の合間から、紫色の狐火がちろちろのぞく。松の木を蹴り折って、正面を返した。
一瞬、十和と目が合う。
十和は見てはいけない場面を見てしまった気まずさから、顔を逸らした。軽く一礼すると、風呂敷を抱えて玄関へと急ぐ。
運のいいことに、行きに乗ってきた駕籠がまだ御殿に留まっていた。駕籠二人はのんびりと煙管をふかしながら、門番と雑談を楽しんでいる。
「帰りも頼めるかしら?」
「もちろん。ぜひ、ぜひ。そのうち都に駕籠かきとして潜伏したいんでね、練習したいんですよ」
「野狐のときに石を投げてきたジジイを駕籠にのせて、山奥に置き去りにしてやりたいんでさあ」
「あまり恨まれない程度になさってくださいね」
気の張る場面が続いた十和は、二人の気さくさに救われた。駕籠に乗りこみ、子狐と過ぎる景色を楽しむ。
ところが出発して四半時過ぎたころ、違和感を覚えはじめた。
十和だけでない。駕籠かきたちも首をひねる。
「変だな、まだ山を出られない」
「道を間違えたか?」
駕籠かきたちは不安げに周囲を見回した。
これだけ進んでいれば、もう御殿のある山から平地に出ても良い頃合いだ。
しかし、木々の合間から臨む麓の景色は少しも近くならない。
「目印の栗の大木をちゃんと見たぞ?」
「待て。見ろよ、あそこ。また栗の木だ」
駕籠かきたちも妖狐だ、すぐに奇妙な現象の正体に気づいた。
「だれかが幻術を使ってやがるな」
「どっかのイタズラ盛りの子供の妖狐か? 困ったもんだな」
駕籠かきたちはやれやれと汗を拭く。困ったといってはいるが、口ほどに焦ってはいない。
心配そうな十和に気楽に笑う。
「心配ありませんよ。自分を信じていれば幻術なんて何てことはありません」
「栗の木を過ぎてから曲がるのが早すぎる気がしてたんだ。今度は曲がらずあのやぶに入ろう」
駕籠かきたちは自信たっぷりにまた進み出した。
一方で、十和の抱えた風呂敷の上にいる子狐はぴんと耳を立てた。伏せていた身を起こし、油断なく辺りをうかがう。
「どうしたの? 子狐さん」
子狐の喉からうなり声が発せられる。毛を逆立て、背後に警戒をあらわにする。
「何かいるの?」
突然、十和は駕籠ごと地面に落とされた。したたかに腰を打ちつける。
駕籠が傾いたのだ。後ろの籠かきが倒れたせいで。
「おい、どうした!?」
前を担っていた籠かきと背後をかえりみて、十和は息を呑んだ。
後方の駕籠かきは血を流して倒れていた。背中に、四本の鋭い爪痕があった。
「ぎゃあっ!」
なにか黒いものが十和の頭上を飛び越えた。
今度は前の駕籠かきが喉から血を吹いて倒れる。
「――黒松様!?」
十和の前に立ちはだかったのは五本の尾をもつ黒狐だった。
前足と口元は同族の血に濡れ、青色の双眸はらんらんと輝いている。
「な、なぜ」
十和は尻餅をついたままじりじりと下がって、無意識に身構えた。黒松の様子は尋常でない。
「なぜ? おまえも聞いてたなら分かるだろ? あの群れにいても俺には得がないってことが。
だったら独立した方がマシだ。けど、今のままじゃ少々霊力が心許ねえ。
そこでおまえだ。おまえは無能の半妖だけど霊力だけはある。おまえを喰らえば俺は強くなれる。七尾、いや、八尾にもなれるかもしれねえ。
喜べ、半端者。この黒松様の力の一部にしてやるよ」
黒狐が襲い掛かってきた。
(――いやっ!)
十和は強く念じた。自分の周りに霊力の壁を作る。
予想しなかった反撃に、黒松はぎゃっと声を上げた。
「へえ、驚いた。おまえ、そんなことできるようになったのかよ」
黒松は感心していた。感心するだけで、獲物の反撃に怯んではいなかった。
「でも、慣れてねえなあ。そんなに全力で身を守ってちゃすぐに霊力が尽きるぜ」
黒松は壁に触れない程度に、ちょい、ちょい、と手出しをしてくる。
そのたびに十和は脅えて壁を厚くしてしまう。
いくら霊力を持っていても、戦い慣れていない十和は不利だった。
「どれだけ持つかな?」
黒松の目に、ネズミをいたぶる猫のような残酷な愉悦が浮かんだ。
「弱いヤツは強いヤツにおとなしく喰われれていればいいんだよ」
「――なら、おまえは俺に喰われろ」
側面から体当たりを食らって、黒松は吹っ飛んだ。木に叩きつけられる。
十和の前に五本の白い尾がふわりと広がった。
「月白様!」
「おま……なんでここに」
黒松は唖然としたが、十和はすぐに分かった。子狐のおかげだ。
「ちっ。なんでもいいけどよ、五尾になりたての若造が! 俺を喰うだあ? 粋がってじゃねえぞ!」
「そうだな」
月白は瞬時に人間に変化したかと思うと、十和を抱えて樹上に逃れた。
「威勢のいいことを言って、いきなり逃げの一手――がっ……!」
黒松は高所に向かって咆え、血泡を吐いた。
無防備に反った喉元めがけて白い子狐が飛びかかり、喉笛を食いちぎったのだ。
「……な……ん……」
徐々に生彩を失っていく青色の目が、子狐の姿を追う。
子狐は地面に下りた本体――月白の肩にのった。
黒松が信じられないという顔をする。
「……六……本…め?」
「さすがにバレるか」
十和も開いた口がふさがらなかった。子狐の体が吸いこまれるように月白の中に消えたかと思うと、代わりに六本目の尾が現れたのだ。
「十和、怪我は」
「大丈夫です。ちょっと腰を打ったくらいで」
当人は何ともないと首を振ったが、月白は眉をひそめた。
十和の白い額にある小さな傷を凝視する。
十和を下ろすと、スタスタと黒松との距離を詰めた。
「殺す」
「額のは別件で! それに……もう死んでいると思い、ます、よ」
黒松は喉から大量の血を流し、動かなくなっていた。
月白と黒松の勝負はあっけないほど簡単にカタがついた。