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第19話 決意・2

 屋敷に戻ると、十和は泊まり支度をはじめた。


「十和ちゃん、今日はもう戻らなさそう?」

「たぶん……吉乃お姉様が終わったら、豊乃様にも呼ばれそうな気がして」


 苦い顔の赤城に笑い返して、十和は礼装である黒の留袖を荷物に含めた。

 おそらくそのまま式に参加することになるだろうと見越してのことだ。


「ではすみません、月白様。行ってまいります」

「……これも」


 月白が袖に忍ばせてきたのは、白い子狐だ。

 月白の霊力で作られたもので、普段は見張りや内偵に活躍している。

 今回は警護のために貸してくれているのだろう。子狐は月白の体の一部のようなものなので、子狐が危機を察知すると月白にも伝わるらしい。


(行先は御殿だから、めったなことはないと思うけど)


 十和は心配性にくすりと笑ったが、ありがたく受け取った。


「この子も一緒なら百人力です」


 袖口からぴょこりと顔を出した子狐を、十和はかるく撫でた。吉乃に呼び出されて憂うつだった心が少し晴れる。十和は明るい顔で用意された駕籠に乗りこんだ。


 御殿は明日の準備に忙しかった。入り口には門幕がかけられ、大座敷には屏風や雪洞が立てられ、蔵から出された漆器や酒器を女中たちが拭いている。


「見て見て。すごい。氷がたくさん」

「明日、少しでも涼しいように北の方から取り寄せたのですって」


 はしゃぐ女中たちにつられて、十和も庭をのぞいた。

 日の当たらないところに四角く切り出された氷が山と積まれていた。

 夏場の氷が貴重なのはもちろんだが、運ぶのにも相当な労力がかかっているはずだ。氷塊が金塊にすら見えてくる。

 氷に冷やされた風が肌に当たると、全員が暑さに一息ついた。


「お式が終わったら、削って糖蜜をかけて食べたいわあ」

「見て見て、細工してる。氷の像だわ。黒松様と吉乃様かしら」

「ぜいたくなお式ね」


 花火といい氷像といい、吉乃の式への力の入れようが伝わってくる豪華さだ。

 豊乃の子供の中では末子なので、豊乃も吉乃に甘い。もともと甘かったが、侍女たちの話では十和が来てからはいっそう甘やかすようになったと聞いている。


(……なんだか、見せつけられている気分)


 十和は自分の婚儀に満足している。赤城たちが半端者の自分相手にきちんと体裁を整えてくれたことに感謝しかない。

 しかし前日から大掛かりな式の様子を見せつけられていると、気持ちが落ちつかない。日頃、吉乃に良い感情を抱いていないせいか、すなおに感動できなかった。


(いけない、いけない。それはそれ、これはこれ。せっかくのハレの日なんだもの。私も楽しまなくちゃ)


 十和はそわそわしている子狐を袖から出して、床に下ろしてやった。


「ご用の間、よかったら御殿の中を散歩している?」


 子狐は嬉しそうに一鳴きして、身軽に庭に飛び降りた。


「踏まれないように気をつけてね」


 跳ねる小さな白い体を見送って、十和は吉乃の部屋を訪ねた。


 ここも明日に向けて準備が進んでいた。白銀の白無垢と、金糸の刺繍が入った色打掛が出され、衣桁にかけられていた。

 そばでは蒔絵の箱が開けられ、べっこうの笄(こうがい)や白珠の揺れる簪を侍女たちが磨いている。


 婚儀に合わせて調度も新調したようで、壁際には凝った飾り金具のついた桐箪笥が鎮座していた。曇り一つない鏡が覆いを外して鏡台に飾られている。畳は青々として、すがすがしいいぐさの匂いが部屋に満ちていた。


 まばゆい空間だ。地味な紺色の麻の単衣でやってきた十和は入室をためらった。


「やっと来た」


 侍女にうちわであおがせながら、吉乃がいった。

 庭の氷から取ったのだろう、左手にはかき氷の盛られた玻璃はりの器をもっていた。

 氷を一口食べて、十和に向かって大儀そうに足を投げ出す。


「とりあえず、足の爪から整えてくれる? 明日は大事な日だもの。見えないところも気を抜けないわ」


 長くなりそうなことを覚悟して、十和は吉乃の足元に座った。

 その時だった。声掛けも何もなく、唐突に障子が開かれた。


「黒松様と別れて頂戴!」


 部屋に飛び込んできたのは妙齢の女性だった。裾は乱れ、乱れた髪は汗ばんだ肌に貼りつき、必死の形相だ。

 一体何事かと全員の手が止まる。


「あたしのお腹には黒松様の子供がいるのよ。もし子供ができたら別れると言っていたくせに……結婚なんて許すもんですか!」


 お腹を押さえて叫ぶ女に、吉乃も侍女もぽかんとする。

 十和は苦い気持ちで数ヶ月前のことを思い出した。


(この方、お花見の時に黒松様と一緒にいた女性だわ)


 毛先だけが黒い茶色髪に見覚えがあった。黒松は後ろから女性を抱きしめ、その体に触れていた。御殿の一室に二人きりでこもって。


「おい、帰れよ。俺の子供だなんて嘘を吐くな!」


 女に続いて、黒松が荒々しい足取りでやってきた。土足のまま部屋に上がり、女の襟足をつかむ。乱暴に部屋から引きずり出した。


「黒松様……どういうことですの?」


 玻璃の器を持つ吉乃の手先は細かく震えていた。


「子供がいるですって?」

「違う、俺の子じゃない。俺はまったく関係ない。この女の勘違いだ。俺はこいつに付きまとわれて困ってるんだよ」

「嘘つき。最初に付きまとってきたのはそっちじゃない。

 乳臭い女の相手は疲れるっていって、しつこくあたしの尻を追い回してきたくせに」


 聞くに耐えない訴えに、侍女も十和も耳を覆った。

 吉乃は立ち上がって、かき氷の入った器を黒松に投げつける。


「帰って! 目の前から消えて!」

「おい、吉乃! こんな女のいうことなんかまともに受け取るなよ。

 全部嘘に決まってんだろ。いつも言ってるだろ。俺が一番大事なのはお前だけだって」


 黒松は必死に吉乃をなだめる。

 縁側に引き倒された状態で、女がはっと馬鹿にしたように笑った。


「一番はね、そうでしょうとも、天遊様の娘だものね。

 二番も、それどころか三番もいるけど。そのションベン臭い小娘が一番よねえ」


 吉乃の怒りが爆発した。黒松を突き飛ばし、座っていた茵を投げつけ、打掛のかかった衣桁を引き倒す。


「――許さない! わたくしを侮辱するなんて!」

「ひいっ!」


 吉乃が簪を持って女に襲いかかった。侍女が慌てて取り押さえる。

 女は吉乃の剣幕に驚き、狐姿で逃げていった。


「くそっ、痛え。頭打った」


 白銀の打掛の下から黒松が這い出てきた。

 暴れる吉乃を見下ろし、決まり悪そうに頭をかく。


「……まあ、なんだ。ちょっとした遊びだよ。遊びで付き合っただけだ。大目に見ろよ」


 黒松の弁解は吉乃の激情を煽っただけだった。

 睨みつけられて、黒松はこれみよがしにため息をつく。


「俺が大事なのはおまえだっていってんだろ。二人目、三人目がいたってそれは変わらねえよ。

 そんなに目くじら立てるなって。天遊様にだって妾がいて、こいつがいるんだしさ」


 突然話の引き合いに出され、十和は困惑した。


「わたくしは認めていません! こんな半端者のことなんて!」


 半端者という吉乃の言葉に、反射的に面を伏せる。畳みかけるように罵声が浴びせられた。


「あなたなんか生まれてこなければ良かったのに!」


 十和は息が詰まった。視界が黒い紗のかかったように霞む。


(消えたい)


 いつもの考えが浮かんだが、悲壮感は長続きしなかった。


(……ちがう。半端者で生まれたのは、私のせいではないわ)


 いつかの月白の言葉が頭によみがえる。


 ――半妖に生まれたのは自分ではどうしようもないことだ。あなたが気に病むことではない。


(生まれてきたことだって、私がせいではない)


 不意に、十和は昔を思い出した。

 父に抱き上げられていた時、憎々しげに自分を見つめていた吉乃の姿を。


(……私が生まれるまで、私の居場所は吉乃お姉様のものだったのよね)


 十和は背筋を伸ばし、肩を開いた。


(だから吉乃お姉さまは私を嫌うのね。

 私が半端者だというのはただの罵る口実にすぎないのだわ)


 冷静に状況を顧みてみると、十和は自分が顔を伏せなければいけないようなことを何一つしていないことに気がついた。

 今の吉乃の言葉はただの八つ当たりだ。とばっちりをまともに受け取って思い悩むのはバカげている。


(私を巻き込まないで欲しいわ)


 十和は吉乃だけでなく黒松のことも恨んだ。

 今や、部屋にいる全員が黒松に非難の目を向けていた。


 しかし、黒松といえばまったく意に介していない。もはや居直っていた。悪びれもせず、迷惑をこうむっているのは自分という態度を取る。


「ちょっと頭冷やせよ、吉乃。明日は式なんだからさ。

 すぐ感情的になるのはおまえの悪い癖だぜ」


 黒松は吉乃の頭にポンと手を置いた。鷹揚な身振りで部屋を出て行く。

 修羅場に居合わせた面々は呆れて声も出なかった。


「――う」


 吉乃の嗚咽はすぐに激しい泣き声に変わった。

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